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==第十節 教育委員会の発足==
教育委員会が出来るまで、すなわち終戦前までは各町村に学務委員と呼ばれた人が若干名・村長の任命を受けて学校の運営に当たっておられた。わが村の学務委員は確か四名か五名だったと記憶している。
昭和二十三年七月に法令によって都道府県に教育委員会を設置し、また地方町村では昭和二十七年十一月までに設置するよう要請された。
これは従来の学校教育を民主的に管理するため、教育行政権の独立と機会均等の明確化を示したものである。わが村においてもひと足遅れて昭和二十八年十一月一日、公選によって教育委員を選ぶことになったが、地区協議会などが主体となって各ブロックで円満な協議の結果、無競争当選となり、次の各氏が最初の教育委員として当選された。
中島栄治(太平寺) 宮川隆正(上林) 藤井外男(粟田新保)
松本弘文(末松) 西村康賢(下新庄)
学校医
米林梅子 吉本寛一
以上の人達で発足したが、松本弘文氏は惜しくも病没された。村教委も昭和三十年、町村合併と同時に解消され、重大決意で学校教育に関心を示された委員の方々も、在任期間わずかで終わった。中島栄治、西村康賢の両氏は野々市町教委を引き継ぎ、後に中島栄治氏が町長に当選後、西村康賢氏は辞任。河村好一郎氏(中林)が教育委員となり、河村氏が昭和四十六年四月県議に当選したあとは中野久男氏(粟田)が出て現在に至っている。教育委員は町村合併後、町長の任命制となった。
学務委員氏名つぎとおり。
明治二七・九・九 林 兵次郎
〃 二九・二・四 山本紋兵衛
〃 三七・一一・七 北村作次郎
〃 藤井孫右衛門
〃 林 兵次郎
〃 三八・九・一五 藤井藤次郎
〃 四三・一二・九 仏田 常吉
〃 竹内松三郎
〃 林 兵次郎
〃 四四・一〇・五 古源栄次郎
〃 西村安太郎
大正 三・一一・三〇 北岸安三郎
〃 六・四・二三 北川清次郎
〃 仏田 長松
〃 八・一二・二二 竹内松次郎
大正 八・一二・二二 西村安太郎
北岸安三郎
北川清次郎
仏田 長松
〃 九・九・二 松本太郎吉
(北岸安三郎死亡のため)
〃一〇・六・六 長井初三郎
〃一二・一二・二二 宮岸与八郎
〃 西村安太郎
〃 山口 長松
〃 黒川 義二
〃 松本太郎吉
〃一四・六・八 西本初三郎
〃 土田与三松
(宮岸与八郎、黒川義二と交替)
昭和 三・一・一八 西本初三郎
〃 西村安太郎
昭和三・一・一八 山口長松
〃 土田与三松
〃 松本太郎吉
〃 三・一二・一八 田中 忠信
(西村安太郎辞職のため)
〃 中島 栄治
〃 七・一・二〇 西本初三郎
昭和七・一・二〇 田中 忠信
〃 寺西 藤次
〃 中島 栄治
〃 北村長太郎
〃一〇・ 藤井 外男
〃一六・四・ 仏田 弘俊
以上昭和十六年の委員は終戦まで続いた。
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富奥郷土史