[part1]
神社とは神祇を祭祀し、敬神崇祖をあらわすために建立されたもので、わが国特有の信仰的対象として古くから伝承されてきた。しかし、神社に対する知識はきわめて薄く、惰性的に祭礼などに参詣するに過ぎない。だが、郷土の氏神、あるいは、産土神(うぶすながみ)は村人達が長い間敬神の念を持ち、古い歴史を経てきたので、各字の神社の境内は樹木がうっそうとして荘厳なたたずまいである。夏になると神社の境内は涼を求める村人たちの憩いの場となり、子供達の遊び場ともなった。たまたま子供が境内で小便をすると、罰があたるといってすぐ親に知らせ、要所要所に塩をまいて浄めたものである。また、女達ほ幣殿、本殿へは絶対上がってはならないとされていたほか、境内の樹木を伐採することは禁じられていた。
戦争が激しくなり、部落から出征兵士が出ると、各字は競って神社の一番高い杉の木のてっぺんに、大きな日の丸の旗を掲げて武運を祈った。しかし、敗戦後は一時神社に対する崇拝心も薄れ、神社のことなどを強調すると軍国主義につながるといわれた。近年、世相が落ち着いてからは鎮守の森の神社に対し、再び敬神の念が高まりつつある。ただ、第二室戸台風で古松、老杉が倒れたり、原因不明で老杉が枯死状態になったりして、往年の神域の荘厳さを失いつつあることは残念である。
村の神社は現在各字ごとに一社、合計十四社ある。神仏混淆時代には二十四の神社があったが、明治三十九年の整理統合により合祀されて今日に至っている。
社司 加藤昭正=中林・上林・上下新庄・粟田・矢作・三納・藤平田・藤平・下林・清金・末松
社司 堀博=太平寺・位川
以前は春秋の大祭日が各字で違っていたが、富奥村になってからは祭日を決めて行われるようになった。明治年間に次の記録がある。
本月十五日御同職集会において本年よりの祭礼期日を定むること左のごとし。
一、春季例祭 三月十三日、十四日ノ両日トス。但シ十四日ハ半日トス。
一、秋季例祭 九月十二日、十三日、十四日ノ三ヵ日トス。但シ十二日ハ半日トス。
明治三十七年二月十五日
だが、その後に改められて左記のようになった。
一、春季大祭 三月二十日~二十二日
一、秋季大祭 十月二十日~二十二日
この祭礼期日は終戦まで続いた。その後各字の都合などで変更されたところもあるが、大ていは右の祭日で行っている。
また、各字では統合前の神社の祭礼日に、どんなに多忙でも宮番または若衆によって提灯などで奉灯を夜遅くまでしたほか、神送り、神迎えの日も同じく奉灯した。春秋の大祭には各神社で大流れ旗、大のぼり旗を参道に立て、家ごとに提灯、行灯などを軒先にかかげて献灯し祝ったものである。こうした風習は戦後すっかりかげをひそめてしまった。が、月並祭、上・下半期の大祓いなどの神事はいまも続けられている。
社格 社号 祭神 鎮座地
郷社 林郷八幡神社 応神天皇、神功皇后、三条天皇 上林区
指定村社 中林春日神社 武甕槌神、経津主命、天児屋根命、此咩大神 中林区
村杜 富樫郷八幡神社 応神天皇、菅原道真 上新庄区
指定村社 菅原神社 伊邪那美命、菅原道真 下新庄区
指定村社 豊田日吉神社 大山咋命 粟田区
村社 藤岡諏訪神社 武御名方神、保牛多和気神 矢作区
村杜 日下日吉神社 大山咋命 三納区
村社 中奥八幡神社 応神天皇 藤平田区
村社 錦橋八幡神社 応神天皇 藤平区
指定村社 薬師日吉神社 大山咋命、菊理比咩命 下林区
村社 池上白山神社 菊理比咩命 位川区
指定村社 白山神杜 伊邪那美命、豊受姫命 太平寺区
指定村社 清金中宮神社 天照大神、応神天皇、菅原道真 清金区
指定村社 大兄八幡神社 天照大神、応神天皇、蛭児命・菅原道真 末松区
(石川郡神社誌より)
祭神の概略(富奥の十四字神社の祭神)
伊邪那美命(国土開びゃくの神、皇妃)天照大神(五穀、養蚕、はた織りの神)
武甕槌神(弓矢の神)経津主命(同じ)天児屋根命(祭司と治国経世の神)
大山咋神(山、河川、酒造の神)比咩大神(主祭神の母、または皇妃)
豊受姫命(主食、衣服住の神)蛭子命(漁業、商業など繁昌の神)
菅原道真(文学、書道の神)応神天皇(聡達英明、治国の神)
三条天皇(六十七代目天皇)菊理比咩命(仲裁、治国の神)
武御名方神(武勇の神)
一、林郷八幡神社(上林区) 立会人 宮川隆正、村井幸次郎、大西加寿雄、神田利行
旧社格 郷杜 明治三十九年十二月二十九日指定、大正四年三月加列
祭神 応神天皇、神功皇后、三条天皇
例祭 春祭三月二十四日、秋祭十月二十一日、新穀感謝祭十二月一日
沿革 第六十七代三条天皇の長和二年(一〇二一)四月の創始で、拝師郷の総社という。延文二年(一三五七)二月十五月従五位下を授けられる。元応二年(一三二〇)富樫泰明当社を崇敬す。観応年間(一三五〇)土豪林氏当社を造営す。元亀、天正(一五七〇~一五九一)の頃、三林善四郎この地を領有し、のち中林・下林とに分割す。それまで神林と呼ぶのを上林と書いた。
宝物 木彫座像二体 高さ四〇㌢、幅三〇㌢ 木彫座像二体 高さ二五㌢、幅二〇㌢、高さ二〇㌢、幅一五㌢ 天神一体 高さ四〇㌢、幅二五㌢、彩色 地蔵一体 高さ一五㌢ 千仏体の一体
いずれも室町時代の作で、心に迫る荘厳さと、神秘的な感じのする見事なものである。
古鏡二面 直径二〇㌢丸形
裏面に観応二年辛卯年(一三五〇)拝師大明神、上林氏子中と彫られている。同じ鏡が二つあるのは、後年氏子から祭礼用としてつくられ、寄進したものといわれる。
埴生八幡社木曽願文 二通
帰命頂礼。八幡大菩薩は日域(じちいき)朝廷の本主累世明君の曩祖(のうそ)なり。宝祚を守らんがため、蒼生を利せんがため、三身の全容をあらわし、三所(応神、神功、比咩大神)の権扉をおし開きたまへり。ここに頻年(しきりのとし)よりこのかた、平相国というものあり。四海を管領して万民を悩乱せしむ。これすでに仏法の怨(あだ) 王法の敵(かたき)なり。義仲いやしくも弓矢の家に生まれてわずかに箕裘(ききゅう)(父の遺業)の塵をつぐ。かの暴悪を案ずるに、思慮を顧みるあたはず。運を天道にまかせて身を国家に投ぐ。試しに義兵を起こして凶器を退けんとす。しかるに開戦両家の陣をあわすといえども、士卒いまだ一致の勇をえざる間、区(まちまち)の心おそれたる処に今一陣の旗をあぐる。戦場にしてたちまちに三所和光の杜壇を拝す。機感の純熟明(あきらか)なり。凶徒誅戮(ちゅうりく)うたがいなし。歓喜の涙こぼれて渇仰肝にそむ。なかんずく曽祖父前陸奥守義家功臣身を宗廟の氏族に帰附して、名を八幡太郎と号せしよりこのかた、門葉(一門子孫)たるもの帰敬せずということなし。義仲その後胤(こういん)として首を傾けて年久し。今この大功をおこすこと、たとえば嬰児の貝をもって巨海を量(はか)り、蟷螂(とうろう)の斧(おの)をいからかして竜車にむかうがごとし。しかれども国のため、君のためにしてこれをおこす。全く身のため家のためにこれをおこさず。志の至、神感なんぞそらたのみならんや、悦しきかな。伏して願くぼ冥顕威をくわえ、霊神力をあわせて勝つことを一時に決し、怨を四方に退けたまえ。 然る刻(とき)丹誠冥慮に叶ふべし。その一瑞相をあらわして加護を成したまわんことを。 (原漢文)
源 義仲 敬白
寿永二年五月十一日
(山科杏亭氏解読)
願状 その二
木曽殿破竹の勢いにて平軍を追い上げ、吾社は主将の本陣と成る。例の欅(ケヤキ)を後になし、牀机を置□□神主の東館甚九郎尉ロロ対馬守さを□奥の鳥居に伺候し、予も□ □祈祷の手つもりを調べ出ず。主将一の鳥居可巡見中ロさて其方の神社は山手の敵軍の物、必ず陣所あるべし。心を用いて送迎あるベし。陣所
は深林をよしといえば、貴社林中椎の木は老樹というにはあらねど取り分け大木也。椎を後にあて、拝面のつもりにて清斎ありてしかるべし也。祈祷の用意尤も也。額東・額西も同じく陣所多かるべし。拝師郷にては貴社大社故必定陣所あるべし。埴生にての事等思召祭神は八幡宮と申し述べらるべく、八幡宮ならぬ社は大篝にすと聞く。八幡宮は主将大事の□□という。よくよく心得あるべし。いそぎ申故余は後に申。恐々。急々。
寿永二年五月十三日
□間坊官
見徳寺
拝師神社
□坊殿
(山科杏亭氏解読)
富樫奉寄進 一通
拝師大明神
一絵馬 二面
一米 三俵
右依有祈願処事寄進候如件
文明六年八月
政親 花押
建造物 拝殿(五間、三間)幣殿(明治十一年改築、五間、三間)屋根銅板ぶき(ごう天井にて豪壮)本殿(昭和十六年十二月三日上棟祭執行、斎主林郷八幡神社社司加藤裕)棟梁(区内多村武範、大工森五作)氏子総代(小林千太郎、小林栄太郎、西本初三郎、村井利八、宮川隆正、仏田長松、神田金次郎、小林孝義、村井次一、北川好)区長仏田弘俊、世話人小林保守、小林伊作、設計及び施工者富山県石動町森田市郎(工事主任坂田幸治、大工主任吉田豊次郎) 昭和十七年五月三十日竣工、社務所二階建てかわらぷき(広壮)
杜地 二、六三六平方㍍
大鳥居 高さ四・五㍍
社標 高さ三・五㍍、三〇㌢角(日露戦争凱旋記念)
手洗鉢 高さ一㍍、長さ三㍍、幅二㍍、三角形(氏子寄進)
手洗舎 四ツ柱ゴウ天井かわらぶき(豪壮)
大灯籠 高さ四㍍一対(昇格記念、寄進向かって右、村井仁太郎、村井又右工門、向かって左、村井次郎右工門)
白山登山記念植樹 老桜(明治四十四年八月六日)
禁札 (乗馬乗入之事、魚鳥ヲ捕ル事、竹木ヲ伐ル事、右境内二於イテ禁止者也、大正四年七月石川県)
大唐獅子 高さ三・五㍍一対(奉納 大正元年九月村井次郎右ェ門、村井仁太郎)
狛犬 高さ一七㌢一対(いずれもチンチンガある江戸時代の珍しいもの)
拝殿欄干 (奉納 小林治右ェ門、小林善四郎、宮川仁三郎、小林栄太郎、神田又吉、神田佐太郎)
天満宮 大額あるも不詳(古いもの)
御神灯 (奉納 小林治右ェ門、仏田半左ェ門、北川久兵衛、小林半右ェ門、村井伊三郎)
御神灯 (奉納 宮岸六三郎、宮川仁三郎、西本庄太郎、万森利右ェ門)
御神灯 (奉納 昭和十三年一月大阪市林覚太郎、昭和四十七年三月松任市吉田吉一)
末社 (別項参照)
鏡 (奉納 昭和十五年十月、二千六百年記念、西村長太郎、大西加寿雄、小林孝義、北川清一)
折部灯籠一基 (別項参照)
灯籠 (奉納 明治四十一年九月、高さ三・五㍍、倉重吉次郎、西本初三郎)
灯龍 (奉納 明治二十五年五月、高さ三・五㍍、仏田小平、仏田長松、越田嘉平)
境内北方に高さ一・五㍍、幅一㍍の小祠あとあり
大椎の木(別項参照)、大松 目回二・八五㍍四本、大杉 九本、大欅 四本
宝篋印塔、宝珠一箇、三本立金幣(奉納小林孝義)、四神旗(奉納中谷義信)、万歳旗(奉納村井次一)紫大幕(奉納宮川多喜蔵、小林修、 吉本幸治、宮川昭一、宮岸洋二、村井義美)、壁一式(奉納村井正信)、八足二代(奉納大西加寿雄、中村一郎)、銅大鈴(奉納吉本信一)
二、春日神社 (中林区) 立会人 金村信哲、山田一郎
旧社格 指定村社 明治三十九年十二月二十九日指定
祭神 武甕槌神、経津主神、天児屋根命、比咩大神
例祭 春祭三月二十日、秋祭十月二十一日、新穀感謝祭十二月六日
沿革 養老(七一七) のはじめ、僧泰澄越前国越智山に祠を建つ。万寿(一〇二四)時、京都嵯峨の僧義寛越智山にてその祠堂衰頽を嘆き、霊夢により当所に移すという。文治中(一一八五)橘山城この地に来たり、社殿を営む。延元二年(一三三七)足利高経の与党来たりて白山衆徒と闘う。この時、社殿焼失す。永享八年(一四三六)姉小路中納言北陸に微行せし時、当社に参詣す。永禄年間(一五五七)本願寺の徒深山某なる者神領を掠だつし、また慶長八年(一六〇四)社殿炎上、弓矢甲胃その他を焼失す。
宝物 自然石座像一体 高さ三〇センチ、天神石像一体 高さ二〇㌢、阿弥陀座像一体 高さ二〇㌢、青銅像、石像二体は年代不詳だがかなり古いもの。仏像は江戸時代初期の作で、神仏混淆時代を思わせる美しい仏像である。
獅子頭 (別項参照)
建造物 拝殿(別項参照)幣殿、本殿(弘化二年改築、かわらぷき)
社務所 平屋建瓦葺
杜地 一、二九六平方㍍
大鳥居 高さ四・五㍍(御影石大正十一年十一月)奉納、台南州西崎順太郎)
小鳥居 木造、高さ四㍍(寄進年代とも不詳)
杜標 高さ三・五㍍(日露戦争凱旋記念奉納、藤田浅次郎、松林弥三郎、中山善太郎、横山松次郎、北本吉三郎、河合定次郎、松林条二郎、島崎秀造、浅田与三郎、高橋安二郎、北村作次郎)
手洗鉢 高さ七〇㌢、長さ一・五㍍、幅六〇㌢((大正七年九月氏子中奉納)
手洗鉢 高さ五〇㌢、長さ一㍍、幅四〇㌢(古いもの)
手洗舎 四ツ柱ゴウ天井張り、かわらぶき
灯籠 御影石、高さ四・五㍍一基(昭和十五年十月、二千六百年記念奉納、西忠雄、河村孝一、中山善太郎、山本茂雄、河合信長、中山喜一郎、北本常吉、森深昌)
灯籠 戸室石、高さ三・五㍍一対(明治四十四年九月、氏子青年団奉納)
大唐獅子 高さ三㍍一対(昭和十五年十月、二千六百年記念に氏子青年団奉納)
狛犬 高さ五〇㌢(年代、奉納とも不詳)
狛犬 高さ三〇㌢(年代、奉納とも不詳)
御神灯 鋼板製一対(昭和四十六年五月、県会議員河村好一郎奉納)
玉垣 (昭和四十五年十月奉納、米林勝二、農協、松任外喜男、安田庄一、河村好一郎、小林巌、中山健二、山本茂喜、北岡良爾、河合勉、中村憲造、金田善太郎、吉村伸、川越正雪、小島敏雄、西忠雄、江藤利雄、中山昭治、森昌昭、西村章夫、福田智康、山崎好雄、川西正次、向田初三郎、小林建一、河合長松、尾山製作所、杉本鉄次郎、西村秀雄、栄代友吉、川畑良章、千田章、中村文男、西田潔、喜多和範、松原和男、共伸工業、西村尚倫、山本久雄、福田康信、宮野邦彦、小林晃洋、中村脩二、西田治夫、三納和子、小寺忠義、山岡文一、萩田利明、北幸作、船山勇西秀夫、森順治、小竹潔、森泰昌、山崎忠司、小林洋、中村善男、中山静雄、中尾悟、小林秀伸、金田博、中山弘昭、茶谷善和、若宮一夫、吉田弘、長谷川渉、木戸杉雄、坂井精一、島喜久男、藤田義通、釜満、安土茂、中西広一、川瀬英爾、中野武、松本政治、世話人山田一郎、高桑藤松、島崎兼二、西崎寅二、金村信哲)
鏡一面 明治三十七年八月十七日、野々市村能登仁左ェ門作(奉納は中山作次郎、小林吉三郎、河合長兵衛、北村作次郎、浅田弥三吉)
水入 明治三十七年九月(勲八等小林弥三郎奉納)
大杉 八本、欅六本、トガ一本
三、富樫郷八幡神社 上新庄区 立会人 作田久夫、藤田敬温
旧社格 村社
祭神 応神天皇、菅原道真
例祭 春祭三月二十四日、秋祭十月二十日、新穀感謝祭十一月二十三日
沿革 弘安五年(一二八二)といわれているが、創始年代は明らかでない。明治四十年三月、無格社菅原社を合祭して現在に至る。
宝物 石像一体(不詳)仏像一体
建造物 拝殿、幣殿、本殿ともに年代不詳、かわらぶき(かなり古い)
社地 六〇〇平方㍍
鳥居 御影石、高さ四㍍(昭和十五年十月、二千六百年記念に氏子中奉納)
杜標 御影石、高さ三㍍(大正四年、御大典記念に奉納、勲八等西尾安三郎、高橋吉次、上田衛親、庄田孝順)
狛犬 高さ五〇㌢(天明亥年九月奉納、東氏、佐川、妙心女)
絵馬 (明治二十九年九月奉納、西尾三四郎、島崎太郎右ェ門、島崎与右ェ門)
石嗣 境内南方にあり。合祭前の二社のうちの一つ。高さ一㍍、保存すべきもの (別項参照)
銀杏 目回り一・八㍍ほどのもの三本あり。
四、菅原神社 下新庄区 立会人 西村康賢、宮岸芳彰
旧社格 指定村社(明治三十九年十二月二十九日指定)
祭神 菅原大神
祭礼 春祭三月二十四日、秋祭十月二十一日、新穀祭十一月二十三日
沿革 久安六年(一一五〇)頃の創始といわれるが明らかでない。養老年間(七一七)普会寺という寺あり。飛騨の匠が建てたというが、後年破損したという。
宝物 天神一体高さ三〇㌢、木像観音一体高さ二〇㌢、石像観音一体高さ三〇㌢。 観音像二体は境内南方の末社祠に安置さる。いずれも江戸時代中期の作である。
建造物 拝殿、幣殿、本殿(昭和四十五年改築、桧造り)社務所(平屋建てかわらぶき)
社地 一、五一二平方㍍(現在整理して四五〇平方㍍)
大額 拝殿正面に棒(ケヤキ)板に「造化」の二字を書いた古い額を掲げてあるが、どうして掲げられたか、理由も年代も不詳である。神社拝殿入口の掲額としてほ珍しく不思議な額である。
鳥居 戸室石、高さ三・五㍍(氏子中奉納)
社標 戸室石、高さ二・五㍍(昭和四十八年十月、氏子一同奉納)
社標 戸室石、高さ二・五㍍(明治三十三年、若連中奉納)二つに折れて北の方片すみに放置、惜しい限りである。
手洗鉢 戸室石、(明治三十七年、勲八等西村安太郎奉納)
手洗舎 二本柱かわらぶき
狛犬 高さ五〇㌢、一対(勘右ェ門奉納)
狛犬 高さ二㍍、一対(昭和四十三年十二月、明治百年記念に金沢市五十人町東田辰次奉納)
御神灯 一対(昭和四十四年五月、村本外喜雄奉納)
灯龍 高さ二㍍一基(昭和四十四年、谷孝正奉納)
灯籠 戸室石、高さ一㍍(氏子中奉納)
末社 境内南方にあり(宝物の項参照)
絵馬 五枚(奉納、明治十九年十月宮岸建造、文久三年八月、明治四十年九月勲八等谷徳次郎、昭和二十年八月下新庄疎開記念七十四歳金沢市押野吉三郎、大正八年八月宮岸重信)
玉垣 (昭和四十三年十月、明治百年記念に氏子中奉納)
五、豊田日吉神社 粟田区 立会人 中野久男、杉本喜佐男、中村朝雄、吉本章
旧社格 指定村社(明治三十九年十二月二十九日指定)
祭神 大山咋命
例祭 春祭三月二十一日、秋祭十月二十日、新穀祭十二月九日
沿革 長享年間(一四八七)または久安六年(一一五〇)にすでに鎮座す、となっている。
宝物 木像一体、高さ一五㌢(江戸時代のもの)武者木像一体、高さ一五㍍(江戸時代のもの)
建造物 本殿、幣殿、拝殿、かわらぶき、社務所二階建て、かわらぶき
杜地 一、三三二平方㍍
大鳥居 戸重石、高さ四・五㌢(年月不詳、氏子奉納、額は宮岸与三松)
社標 高さ三㍍(明治三十九年九月建立、勲七等功七級長井与三郎奉納)
手洗鉢、手洗舎 御影石(昭和三年十月金沢市弓野町永野太三郎奉納)
唐獅子 高さ二・五㍍(明治四十四年五月大阪市平井長太郎、京都宮野伊三郎、氏名不詳奉納)
宮立型灯籠 (別項参照)
太鼓橋 (昭和七年十一月、浅井栄太郎奉納)
玉垣 (昭和三十四年十月奉納、北陽繊維KK、還暦=藤井外男、宮岸信友、山口外吉、新明喜久男、初老=田中乙正、香城学、田中弘弥、西田入六、藤多俊、山口勇、竹内外吉、中野七三郎、宮崎君雄)
玉垣 (昭和十八年奉納、大長佳節)
玉垣 (昭和四十九年十月奉納、粟田土地区画整理組合)
灯龍 (昭和四十六年三月奉納、還暦=田中影信、馬場信一、田中栄松、西村鉄信、新明喜久男、山口他吉、初老=橋田章、井口守正、萩田利明、寺西喜余志、田中功、西野武、高桑繁、中野勇、中野達也、西野敏雄、長井稔、田中勉)
荒宮、鳥居 (昭和三十九年三月奉納、還暦=田中初治、長井太吉、初老=中野喜佐雄、山口正二、吉本章、中野久男、香城哲丸、杉本喜佐男、山口実、中村朝雄、藤井克)
賽銭箱 (昭和十九年三月、金沢市永野太三郎奉納)
太鼓 (昭和二十一年奉納、中野達爾、山口幸一、西野与作、杉本与三吉、竹内一朗、宮崎庄松)
錦旗 (昭和三十年、中野助盛奉納)
木斂 (明治三十九年九月無拍子流、一伝流一門奉納、中野与三吉、橋本政次郎、西田初三郎、中野清成、竹内他吉、田中米吉、宮野与三郎、水野栄吉、中岡信義、藤井憲次)
幕一張 (年代不詳、杉本末吉奉納)
幕一張 (昭和三十一年奉納、竹内栄太郎、中野教証、竹村祐)
額一対 (元治元年子南呂上旬、西村豊島外叟奉納)
額 (昭和四十九年奉納、杉本利則)
絵馬 (奉納年代不詳、新明氏) 同(同高桑隆次、橋本初次)同(大正三年三月、宮崎乙松)同(昭和三十年元旦初老のため奉納、吉本栄松、山口他吉、竹内正行、橋田尚勝)
絵馬一対 (昭和四年十月、御大典記念に氏子青年会奉納)同(明治十八年九月、長井氏奉納)同(年代不詳、吉本理助奉納)
六、藤岡諏訪神社 矢作区 立会人 安江信行
旧社格 村社
祭神 武御名方神、保牟多和気神
例祭 春祭三月二十三日、秋祭十月十六日、新穀祭十一月二十六日
沿革 弘安六年(一二八三)の創始。富樫氏の家臣藤岡伴道という武人が崇敬したと伝えられる。明治十三年十月二十日、杜標のように改称。明治三十四年十月二十五日、無格社八幡社を合祭す。
宝物 自然石数体、五輪塔の如意珠と思われる物数個あり。
建造物 拝殿、幣殿、本殿、かわらぶき
社務所 なし
杜地 六五〇平方㍍
鳥居 御影石、高さ四㍍(氏子中奉納)
社標 高さ三㍍(大正元年十月、氏子青年団奉納)
小鳥居 高さ三㍍(昭和七年七月奉納、中村好明、中村外次郎、山原七郎)
小鳥居額 (明治二十年九月奉納、北川藤次郎)
手洗鉢 (明治三十三年九月、氏子中奉納)
手洗舎 二本柱、かわらぶき
灯籠 高さ三・五㍍(大正四年、御大典記念に氏子中奉納)
唐獅子 (明治二十四年卯年、小林又次郎奉納)
鏡 (明治九年四月、中村半右ェ門奉納)
弓矢両神 (奉納年月日不詳、山原栄作、宮本栄吉、宮川栄吉、堀江秀吉)
灯籠 (同、山本正男、小林光夫、山原三次、宮本米吉、安井寿一、中川孝、宮川栄吉)
絵馬 (奉納昭和二十九年十月安井信行、明治四十年九月山原氏、大正八年十月堀江氏、山原氏)
石祠 木造かわらぶきで合祭前の社であろう。末社としてある。
玉垣 (年月不詳、氏子中奉納)
大杉 目回り二・八㍍ほどあるも枯死寸前。
七、日下日吉神社 三納区 立会人 佃栄吉、山田清政、中野茂信、山田清司
旧社格 村杜
祭神 大山咋命
例祭 春祭三月二十三日、秋祭十月十六日、新穀祭十一月二十六日
沿革 延徳年間(一四八八)の創始というが明らかでない。
宝物 神官石像一体、高さ四〇㌢)横の方に寛延四年(一七五一)八月四日、頭の上に権現とそれぞれきざんである)他に一体(小さな堂にあるも、扉が開かないために不詳)境内北方に石祠あり、石像一体、高さ二〇㌢
建造物 拝殿、幣殿、本殿(奥殿別項参照)かわらぶき、社務所なし。
杜地 六五〇平方㍍
鳥居 御影石、高さ四㍍(明治三十三年十月、氏子中奉納)
社標 御影石、高さ三・五㍍(昭和四年三月十日、山田米一奉納)
手洗鉢 (明治三十二年十二月、氏子中奉納)
手洗舎 二本柱、かわらぶき
唐獅子 真石積、高さ一・八㍍一対(奉納者、年月とも不詳)
古鏡 (天保二年辛奉納、酒井市左ェ門、中村屋彦助、中村屋儀兵衛、塗師長左ェ門)
絵馬 (大正八年十月奉納、山田与三六、久田亀次郎、佃安太郎、三納平七)同(昭和十六年日支事変記念奉納、塚崎太郎、昭和三十年十月佃栄太)
狛犬 一対(奉納者、年月とも不詳)
万持石 細長い真石三個あり、重さ一五〇㌔以上、一二〇㌔以上、一〇〇㌔以上(明治時代の若い衆の力試しに神社の境内で行われた磐持ちの名残りをとどめている)
銀杏(公孫樹)目回り二㍍ほど四本(実のなるもの)
なお、次の棟札が残っている。
明治三十六年九月六日起工、明治三十六年十月廿三日竣工、現時氏子拾有七戸
表 石川県石川郡富奥村字三納鎮座村社日下日吉神社拝殿改築棟札
社掌加藤三男太郎
石川小三郎
氏子総代
大島又吉郎
久田小兵衛
副棟梁
能登伊左ェ門
棟梁
能登弥三郎
大工
能登政次郎
大工
能登村長太郎
西尾音松
瀬戸弥作
絹川政次郎
小林孝三郎
石工
西尾太三郎
左官
荒木三次郎
裏 昭和七年二月吉日 御本殿御屋根葺替 釣殿新築
八、中奥八幡神社 藤平田区 立会人 村田省三、千田義男、太田厳
旧社格 村社
祭神 応神天皇
例祭 春奈戦後なし、秋祭十月二十二日、新穀祭十一月二十六日
沿革 天正八年(一五八〇)の創始という。一説には弘安五年(一二八二)頃すでに鎮座すというも定かならず。また、文明年中(一四六八)ともいう。明治十二年十二月九日、鎮座地の呼び名が「ナオキ」というので、中奥の二字をつけたとなっている。岸秀貫戸長の書いた地名書きにカタカナで地名を「ナオキ」と書いた古書が出てきたが、なぜ「中奥」としたのか現在も不詳である。
宝物 石像一体 高さ三〇㌢(年代不詳)天神木像一体 高さ二〇㌢(江戸時代のもの)自然石一体
建造物 拝殿、本殿、トタン板ぶき(清楚なもの)社務所なし
社地 五五〇平方㍍
鳥居 木造、高さ二㍍(年代など不詳)
社標 戸室石、高さ二㍍(年代など不詳)
手洗鉢 自然石、高さ四〇㌢、幅四〇㌢、長さ一・二㍍(天保五年甲初秋奉納、手洗鉢としては古いものである)東の方に小祠跡あり
五輪塔 如意珠(頭) 二個
絵馬 山(白山らしき)にハトの絵(文久元年戌三月奉納、奉納者不詳)
九、錦橋八幡神社 藤平区 立会人 藤垣永三
社格 村杜
祭神 応神天皇
例祭 春祭三月二十三日、秋祭十月二十日、新穀祭十一月二十六日
沿革 天正八年(一五八〇)または弘安五年(一二八二)ともいう。天正と弘安では四〇〇年以上の差があり創始は定かでない。鎮座地を「キンキョ」と呼ぶので明治十二年十二月改称す。
宝物 石像一体、高さ二〇㌢、天神木像一体 桐材、高さ一五㌢、縦一〇㌢、横一〇㌢、(金文字彫で表太根建彦霊神神祇伯、雅寿王書、裏に文政八年吉月吉日、工人木谷藤伊兵衛、文政十一年吉月吉日、箔職嶋村伊右衛門とある)
建造物 拝殿、幣殿、本殿(かわらぶき)社務所(平屋建て、かわらぶき)
社地 五五〇平方㍍
鳥居 社標(いずれも奉納者、年月不詳)
唐獅子 二対(昭和八年十月、区出身金沢在住者藤多藤七他一同奉納)
十、薬師日吉神社 下林区 立会人伊藤正雄、北川外次、伊藤好麿、新森晃、本正好、作田庄一、増山了栄
社格 指定村社
祭神 大山咋神、菊理比咩命
例祭 春祭三月二十一日、秋祭十月十六日、新穀祭十一月二十四日
沿革 天正年間(一五七三~一五九一)の創始と伝えられ、別に遠く仁和二年(八八六)光孝天皇の御代の創始ともいうが、明らかでない。薬師仏と日吉山王二十一社の総社とも伝えられる。元亀二年(一五七二)三林善四郎がこの地を領有し、当社を崇敬するも、柴田勝家に滅される。いまも古屋敷、四郎塚など地名に残れり。明治十六年十月十四日、薬師日吉神社と改称す。明治四十年八月三十日、無格社「林麓白山社」を合祭す。
宝物 薬師如来座像、石像高さ二五㌢(安政五年五月額谷兵衛)
同 童児石像(ヘビを抱く)高さ一〇㌢(境内末社、旧林麓白山神社のもの)
建造物 拝殿、幣殿、本殿(木造かわらぶき)社務所(昭和四十五年建て替え)
社地 八〇〇平方㍍
社標 御影石・高さ三・五㍍(昭和三十一年一月奉納、林義光、東田常松、作田庄一、山崎忠、前川富美男、新森義貞、本好正、寺西忠、作田行雄、加藤寿、作田恵白、長稔)
杜標 戸重石、高さ三㍍(大正元年九月奉納、東庄兵衛、黒川安太郎)
鳥居 御影石、高さ五㍍(昭和四年三月奉納、大阪市志村三次)
同 戸室石、高さ四㍍(明治二十四年九月、氏子中奉納)
玉垣 (昭和十年十月、選挙粛正記念に氏子中奉納)
石灯籠 戸室石、直立形、高さ二・五㍍、一対(金沢市六斗林、玉泉寺にあったもの氏子中奉納)
同 御影石、高さ三・五㍍(昭和十七年八月金沢市横安江町もとせや本清次郎奉納)
薬師如来 漆塗り(慶応三年卯二月奉納、掲額に当所願主孫右衛門)
板碑 (別項参照)
唐獅子 (奉納者、左に志村弥三郎、新森松次郎、長又次郎、長小三郎、宮本太三郎、作田安太郎、古島徳次郎、沢村吉松、東松次郎、杉野仁三郎、三森清松、吉岡長作、北村与太郎、白井与三吉、本仁太郎、高尾正一、葭田作太郎、川口善太郎、右に伊藤初太郎、山田与三郎、橋本鉄太郎、宮川仁太郎、土田与三松、寺西純一、寺西藤次、山崎次信、黒川利次、北川光秀、東省三、高尾与三郎、長信義、林庄次郎、新森栄松、作田庄次郎、作田勝一、山田長作、伊藤協、林義光、高柳安とある、以下二名不明)
唐獅子 高さ二・五㍍一対(明治二十八年十月奉納、本正二)
絵馬 (数個あるが奉納者、年月日不詳)
神鏡 (昭和十四年奉納、石塚作太郎、加藤正一、志村三次)
甲冑 (戦国の豪士、三林善四郎着用のものと伝う)
神社由来記掲額 総ケヤキ、八㍍に一㍍(昭和三十二年一月、伊藤正雄奉納)
友千鳥松 小結友千鳥浜吉の植えた松、他に松二本、昭和六年四月天然記念老松指定
十一、池上白山神社 位川区 立会人中山武次
社格 村社
祭神 菊理比売命
例祭 春祭
沿革 弘安五年(一二八二)既に創始すとあるも明らかならず。
宝物 大日如来木像一体 高さ二五㌢(江戸時代のもの)
建造物 拝殿、幣殿、本殿(かわらぶき、清楚なもの)
社務所 なし
社地 三八〇平方㍍
鳥居 高さ三・五㍍(昭和二十七年四月一日、氏子中奉納)
杜標 高さ一・七㍍(明治三十九年凱旋記念に奉納、勲八等中山初三郎)
手洗鉢 真石の小型、手洗舎なし
弓矢神 (奉納は高納登、高納俊之)
伝説の池 境内左手に直径二㍍、深さ一㍍の石積み、水なし
絵馬 (奉納氏子中、他は不詳)
樹木 大杉一本、中杉三本、中くらいの松一本
五輪塔 如意珠二個あり
十二、白山神社 太平寺区 立会人 平野栄吉、中島康雄、平井庄八
社格 指定村社
祭神 伊邪那美命、豊受姫命
例祭
沿革 久安六年(一一五〇)既に鎮座すと伝う。太平寺は往古大乗寺総曲輪のありし地にて、泰平寺とも伝う。大乗寺の僧徹通和尚の荼毘墓が残っているが、神社との関連については明らかでない。村人達は大乗寺の鎮守の神と伝えている。大乗寺明峰和尚の墓は太平寺の古字松原の地に別にありLも今はなし。明治四十年二月一日稲荷社を合祭す
宝物 雨宝童子石像一体、高さ二五㌢(白山本宮と同じ)、
白衣観音石像一体、高さ二五㌢、明玉石像一体、高さ二五㌢、稲荷像一体、高さ二〇㌢(いずれも江戸時代のもの)
建造物 明治四十三年六月三十日改築拝殿、幣殿、漆塗り本殿(かわらぶき、昭和四十八年ふき替え)社務所、平屋建てかわらぶき
社地 七二〇平方㍍
鳥居 御影石、高さ四・五㍍(大正十年十月奉納)
社標 御影石、高さ三㍍(大正三年九月奉納)
手洗鉢 (大正八年七月奉納)他にも奉納手洗会
灯籠 (銀婚記念に奉納、平野正松、平野みさを、平野栄吉、平井庄八)
絵馬 (弘化四年末八月奉納)
弓矢神 高さ二〇㌢、ほかに五輪塔、如意珠三個あり
恩徳碑 (別項参照)
十三、清金中宮神社 清金区 立会人 上野由雄
社格 昭和十六年二月二十二日指定村杜
祭神 天照大神、応神天皇、菅原大神
例祭 春祭三月二十一日、秋祭十月二十二日、新穀祭十二月六日
沿革 明応年間(一四九二~一五〇〇)の創始あるいはそれより以前、久安六年(一一五〇)既にこの地に鎮座すとも伝う。
明治八年に清金の二字を冠し、さらに明治三十九年十一月一日表宮(無格社)中宮(八幡社)裏宮(菅原杜)の三社を合祭す。
宝物 石像一体、高さ二〇㌢、木像天神一体、高さ一五㌢、毘沙門天石像一体、高さ三〇㌢(慶応元年作)木像十一両観音像、高さ二〇㌢(江戸時代のもの)
建造物 拝殿、幣殿、本殿(かわらぶき、昭和四十九年夏ふき替え)社務所(平屋建て、かわらぶき)
社地 六五〇平方㍍
鳥居 戸室石、高さ三・五㍍(氏子中奉納)
社標 戸室石、高さ三㍍(明治四十一年九月奉納、勲八等宮崎太三郎、同東秀次、同五香政吉)
手洗鉢 長さ一・一二㍍、幅六〇㌢、高さ六三㌢)
手洗舎 かわらぶき二本柱
灯龍 (大正四年、御大典記念に奉納、宮岸他次、宮崎庄次郎、金田亮)
唐獅子 (奉納、五香政吉、西井加六之郎、本井宗次郎)
狛犬 (奉納、吉兵衛)
弓矢神 (奉納氏子中)
鏡 (昭和三年十一月奉納、勲七等西村主計)
絵馬 (奉納、北岸義男、大正七年九月東野氏、明治三十四年九月沢村庄助、西村氏、大正十二年五月金田喜三郎)
三種神器写し (大正四年三月、御大典記念に奉納、中野昌次、上野栄吉、五香与三郎、東吉松、藤田与太郎、北岸安三郎、徳野仁三郎、宮岸常吉、沢村太四郎、西井秀吉、宮崎吉良、西井与三郎、宮岸与三郎、世話人北岸安三郎、中野昌次、上野栄吉)
玉垣 (奉納、向って右、金沢市長町一丁目三-二五松尾宝作、左氏子中)
二千六百年神社昇格記念事業寄付者芳名掲額 (松尾宝作、沢村友義、沢村米男、金田喜三郎、宮岸与三郎、中西清吉、江村政男、沢村太三郎、北岸六三郎、北岸外良吉、金田秀次、宮崎正好、徳野北次郎、鶴賀崇恵、藤田与太郎、米田栄作、村田かほる、中村精憲、相森幹太郎、小林源兵衛、中村可成、西川与三松、北幸朔、西川藤吉、東川徳松、宮岸清、金田亮、宮崎吉良、本井次吉、上野栄吉、東週二、五香徳二、北岸定敏、五香政吉、西井外吉、西井秀吉、新本新一)
清金中宮神社記掲額 (還暦記念に上野由雄)
大銀杏二本、大杉三本
十四、大兄八幡神社 末松区 立会人 古源外次、中村一雄、松本繁
社格 指定村社
祭神 大兄彦命、天照大神、蛭児命、応神天皇、菅原道真
例祭 春祭三月二十一日、秋祭十月二十二日、新穀祭十一月六日
沿革 (別項参照)
宝物 木ぼり立像一体高さ五〇㌢(一千年以上たったもの)、石像恵比須一体高さ三〇㌢、石像八幡一体高さ二〇㌢、石像天神一体高さ一五㌢、虚空蔵木像一体高さ二〇㌢、石像一体高さ三〇㌢(いずれも江戸時代の作)
建造物 拝殿、幣殿、本殿(かわらぶき)社務所(二階建て、かわらぶき)
社地 一、四四〇平方㍍
鳥居 御影石、高さ五㍍(大正十二年奉納、大阪市石川憲章、若松町中村安太郎)
社標 高さ四㍍(轟氏子中奉納)
杜標 高さ三㍍(日露戦争凱旋記念奉納、勲八等松本市三郎、勲七等功六級松本七三郎、勲八等松本長吉)
手洗鉢 (奉納は古源幸啓、古源辰雄)手洗舎(奉納は氏子中、四本柱かわらぶき)
灯籠 (明治二十七年八月奉納、松本太郎吉)同(明治二十七年八月奉納、松本市三郎、北村作太郎、吉本安太郎、古源弥之吉)同一対(明治二十六年九月奉納、木村勘右ェ門、木村宗兵衛)
唐獅子 一対(明治三十九年十月奉納、勲八等北村弥三郎、勲八等北村喜太郎、勲八等松村新太郎、勲八等蟹川政吉、勲八等古源徳太郎)
五郎十郎 (奉納は木村宗兵衛)
御神灯 (奉納は松本市三郎)同一対(明治三十三年十月奉納、北村弥三郎)
句碑 (昭和四十四年奉納、西村喜吉、同文子)句掲額(明治四十三年十月、古源徳太郎)
絵馬 (奉納、古源栄治郎、畠栄志、小松久次郎)同(奉納松本輝武)かけ軸(古源弥之吉奉納)油絵額(北村義雄奉納)提灯一対(奉納、古源幸啓、北原頼)
大欅 七本
境内両側は小高く盛山形となっている。
以上わが村の神社について記したが、由来を除いては創建年代に多少の差はあるもののよく似ている。(神社記で見る限り)それ以前はどうなっていたのか判明しがたい。終戦前と後とでは神社に対する崇敬の念も多少異なってきたようだが、村人の産土神に対する敬神の念はいぜんとして根強いものが残っている。村の歴史の上でも唯一の遺産である神社は大切にすべきである。
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富奥郷土史