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==第二節 神社調査で発見されたもの==

 

第二節 神社調査で発見されたもの

  村に残されているもので最も古い歴史を伝えているのは、なんといっても神社である。そこで富奥村十四字の神社を実際に調査し、未発見の知られざる歴史を探ってみた。

  調査は昭和四十九年六月一日から始まり、同年十一月六日までかかった。各字の人々の立ち会いを得て、金大教授米林勝二先生によって調査した。

  その結果、部落民の神社に対する敬神の念が、古い時代から気づかれぬままに貴重な遺産としてよく保存されていることに驚かされた。ここにそのいくつかを事実に基づいて紹介してみよう。

 大兄八幡神社について(末松区)

 

 

 

 沿革(別項参照より)

  大兄八幡神社は富奥でも末松廃寺跡、上林の大椎の古木などとともに最も歴史の古いものである。既に神社記などに記載されているが、社記に当社は往古大兄明神と称すと伝えられている。

  国造本記に「加我国造泊瀬朝倉御代三尾君祖石衝別命四世孫大兄彦命君定賜国造」と記されている。また第二十一代雄略天皇(四五六)の時代に「三尾君祖四子大兄彦命加賀国造」として来られたとなっている。しかし、末松の地へ来られたかどうかははっきりしていない。末松廃寺がそれより二百四十年ほどあとに「道の君」という人物が来られて建立されたといわれていることから(末松廃寺跡は大和時代の寺院、即ち法起寺式形態なので、道の君以前に建立されたとはいえない)、大兄彦命が加賀の国造として来られ、末松の地を選ばれたとする見方が強くなるのである。つまり、末松の地区一帯は千五、六百年以前に既に、加賀の国の中でも手取川扇状地帯の農耕文化の一大中心地として開けていたと考えざるを得ない。

  末松の東南方、現在の共同墓地付近を「野」、または「石塚」といまも呼んでいるという。高村誠孝氏の話では明治四十四年にこの地を耕地整理した時(末松の耕地整理開始は明治四十一年)、この「野」のあたり三・五㌶が小高い丘のように広がり、真ん中に「中窪」というかなり広い池があったという。そして古墳の塚がいくつかあったと記憶し、現在もそれを末松区会地図に場所を示して書きとめておられる。また、現在でも神社の境内の両側が小高い山になって、両側とも大ケヤキが根を張っている。神社境内の両側がなぜ小高くなっているのか、ここにもだれか高位の人物の古墳があるのではないか。大兄明神といい伝えられて来た以上、これらの人物達の古墳が必ずあるはずだといっておられる。

  耕地整理の時の明治四十四年頃、高村誠孝氏はまだ十六、七歳だったので、「塚」を目の前に見ながら、発掘出来ずに埋められてしまったが、現在もなお水田の下になっているはずだといっておられる。

  当社は天照大神を祭神とし、末松杜と称したが、明治八年九月五日、末松神社と改称した。明治四十年三月、無格社轟蛭子社を轟八幡神社へ合祀し、さらに明治四十二年二月、同社を末松神社に合祭して大兄八幡神社と改称する。

  神社宝物の中の木像一体は高さ五十㌢ほど、一、〇〇〇年以上も経たと思われ、立像を白山の開基僧泰淀の作として(鑑定書付)これを虚空蔵菩薩として崇敬した。しかしこの木像は虚空蔵菩薩とは全然違うものであり、年代が古くてはっきりしないが、あるいは末松廃寺の仏像でないだろうか。しかし、その木像が虚空蔵菩薩と伝えられて来たのは、国造と語呂が同じため、いつしかどちらともつかず国造と虚空蔵菩薩が一つになったのだろう。また、県社出城八幡神社蔵、「加賀国内神明帳」によれば、仁平二年(一一五一)如月、神階を従五位上に昇せらるとある。その後、富樫氏の老臣末松信濃が老後奉仕し、社殿の造営につくしたという。

  同神社調査の中でついに大兄明神の伝えを立証できるものが何一つ見当たらなかったことにいちまつのさみしさがあったが、長い歴史の中でそれらのものが失われてしまったのかもしれない。

 

 春日神社(中林)拝殿について

 

 

  この拝殿はもともと現在の鶴来町金剣宮の境内にあった蛭子社の拝殿だった。明治四十年四月に金剣宮から中林に移されたことははっきりと金剣神社の社誌にのっている。

  中林にうつる以前、明治十二年九月に拝殿が新築されている。ところが、明治十四年に御本体が鶴来町新町に移されて恵比須社として商家の氏子達によって崇敬されていた。蛭子社はもともと商業、漁業など繁昌の神様として崇敬されている。その後明治三十九年の神社統合などによって金剣宮の境内も合併され、長く続いた蛭子社も整理され、明治四十年四月、中林区の人達に買い受けされて春日神社の拝殿となった。

  これだけなら珍しい歴史ではないが、調査の結果、この春日神社の拝殿はその建築様式が桃山時代の建築様式であることがわかった。柱はすべて丸柱を使用してあり、天井はごう天井が張られている。天井裏に入ると、棟木のところに鶴来町蛭子社のものと、中林に移されて春日神社拝殿となったものと二枚の建築標が保存されていた。移されてから七十年、いま初めてその全容を知ることが出来た。

 

 

 林郷八幡神社(上林)の境内末社について

  この末社もまた不思議な歴史と因縁を秘めている。即ち、建築様式が中林の春日神社拝殿と似ていることで上林区の氏子総代にたずねたところ「年寄りのいい伝えで開いているが、鶴来町蛭千社の奥般(本殿)である」とのことであった。

  当時、上林区では神社の奥殿を再建する話が出ていた。たまたま鶴来町の蛭子社が整理統合のため、買い手を捜しているとのことで、区民が協議の結果、若い衆の代表五、六人が選ばれて派遣された。そして、現在中林にある春日神社の拝殿を上林の神社の奥殿にしようとしたが、奥殿としては大きすぎること、値段の点でも交渉が折り合わなかったため、その拝殿を買うことをいったんは諦めた。しかし、そのまま部落へ帰ったら年寄りをはじめみんなから手ぶらで帰ったといわれるに決まっている。面子にかけてもなんとかしなければならないということで、その時の蛭子社の奥殿を買って帰った。それがこの上林の林郷八幡神社境内に今もひっそりと残っている末社なのである。

  金剣宮では奥殿の行方がどうしてもわからなかった。そこで神社の古文書を再調査した結果、先代宮司の日誌の中から上林へ移ったことがわかり、このことの裏付け証明が出来たのである。

  さらに、上林が明治四十年に他に先がけて耕地整理に着手した時、現在の部落の東の方の特庫田(とっくりだ)という所から高さ一〇㌢ほどの小さな素焼きの像が土中から発掘されたことで、村人はこれはきっと田の神様だろうということで、その像をその末社に祭って毎年祭りを行ってきたという。こんど末社の御本体を調べたところ、前記の小さな恵比須像一体が出て来た。

  このことは上林の部落の人達も忘れていたし、だれも田の中から出て来た神様が恵比須さんであるとも知らず、とにかくもったいないのでこの末社の詞に祭って今日に至ったのである。

  蛭子社は先にも書いたように商売繁昌を祈る神様なので、御本体は恵比須さんと関連がある。わけも知らない村人達が祭った末社が蛭子社の奥殿であり、そこへ田から出土した恵比須さんを祭ったことは因縁としかいいようがない。

  鶴来町の金剣神社境内にあった蛭子社の、桃山時代の建築様式である拝殿と奥殿がはからずもわが富奥村の春日神社(中林)の拝殿となり、林郷八幡神社(上林)の末社として二つともにいまも桃山時代の美しい建築様式で残されている事実を発見し、初めて知らされた村人たちも今さらのように感銘を深めたのである。

  この末社の前に灯ろうが一対ある。高さ一・六㍍くらいの春日灯ろうである。年号が享和二年(一八〇二)壬戌二月となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日下日吉神社(三納)本殿について

  まず極彩色の眼もさめるような美しきに驚いた。「絵体廚子」といわれるものである。次に昭和四十九年七月十三日付けの北国新聞に掲載された記事を転載して、他の神社の本殿に見られないところを紹介する。

  いまから約百七、八十年前の江戸時代中期の作と見られるが、門扉には神道のこま犬を意味する唐獅子が描かれ、屋根の下に仏教の宝珠を刻んであるなど、神仏混淆(こんこう)が歴然としている。神仏混淆とは日本固有の神の信仰と仏教信仰を調和融合するものとして、仏教が伝来した奈良、平安初期に始まり、明治元年に維新政府が祭政一致の方針に基づき神仏習合を廃止するまで続いた。いわゆる神と仏を絵、装飾などで同時に祭った混こう廚子は、神仏分離令で白木造りにかわり、ほとんどが消滅したといわれる。

  発見確認された廚子は極彩色で、お堂は横幅七五㌢、縦幅五五㌢、高さ八八㌢、下には高さ一㍍余りの須弥壇がついている。正面の門には金ぱくを張った上に、赤、青、緑系統色彩で、竜、鳳凰(ほうおう)、唐獅子(からじし)の動物のほか牡丹(ボタン)、桐などの草花が描かれ、唐破風造りの屋根の真下には、くすんだ青色で宝珠が彫刻されている。この中でも唐獅子は神道のこま犬を意味するといわれ、宝珠は仏教で宝珠の玉といわれている。

  この「絵体廚子」は県内でも初めて発見されたものとして米林教授によって確認されている。しかも須弥壇までついた神仏混淆時代を代表する神社の本殿は、きわめて珍しいといわれている。

 

 

 

 

 

 

 

 豊田日吉神社の灯籠(粟田)

 

 

  この灯ろうは宮立形灯ろうという。神社境内拝殿入口の手前両側に立っている。灯ろうに彫られた年号は元禄八乙亥年秋(一六九五)となっている。さらに寄進奉納が湯原氏応信と刻まれている。

  湯原応信という人物の概略は、通称源七郎主膳左平太晴清の子で禄高千五百石の武士で前田綱紀の家臣である。延宝五年(一六七七)御作事奉行(二十四歳の時)となり、延宝八年(一六八〇)魚津町奉行(二十七歳の時)となり元禄五年(一六九二)八月、御馬廻番頭として飛騨高山に在藩を命ぜられ、御馬廻頭(三十九歳)となる。正徳二年(一七一二)十月一日、五十八歳で没す。前田綱紀が幕府から飛騨の高山城の守備を命ぜられたので、毎年藩士を交代で派遣し、守備に当たらせていた。元禄五年(一六九二)八月二十二日、湯原応信は命を受けて高山城におもむき、元禄八年(一六九五)六月二十九日、廃城引き揚げとなる。金沢に帰り慰労のため能見物を命ぜられている。

  湯原応信がどうして粟田の神社にこの灯ろうを寄進奉納したのか判明しない。あるいは応信はこの神社の氏子でないだろうか。これが解明されると粟田と湯原応信とのつながりもわかって、この灯ろうの歴史的興味も加わり、貴重な史実の発見につがなるのだが。いまもこの灯ろうが現存していることは事実であり、灯ろう一つにも秘められた歴史の尊さが残されている。

 宮立形灯ろうの実測された大きさは次のとおりである。

 全体の高さ二・四八五㍍、宝珠の高さ二七㌢、幅二五㌢

 台座の高さ二一・五㌢、幅が最後の段で四四㌢、笠の高さ二四㌢、幅が上の方で五〇㌢、下の方で七〇㌢、厚さ九・三㌢

 火口の高さ、外回り三〇㌢、中回り一五・五㌢、幅三〇㌢、一五・五㌢、中台の高さ二六㌢、幅上の方六一㌢、下の方四二㌢

 竿 高さ一・二〇㍍、直径三〇㌢、基礎 高さ土中でわからず、幅四〇㌢

 火袋には図のように円窓と三日月窓があって、日月を現わしている。灯ろうにきざまれている梵字、■は地蔵菩薩を意味するという。

 

 

 

 

 織部灯寵のなぞ(上林)

  別名かくれ切支丹灯ろうと呼ぶ。元来この灯ろうほ茶室風の庭園に配置されるもので、茶人の好むところだともいわれる。

  林郷八幡神社境内の本殿横、北側の小高い雑木の中にひとしれずたたずんでいる。高さ一㍍一五㌢ほどの灯ろうがそれである。前面の笠の下の部分の台は、切支丹の十字架を現わし、その中心部にギリシャ文字Ln9の三文字を組み合わせ、中央部は人像を彫りこんである。その足は見事に左の方に向いている。足の方向に切支丹信者だけが知る信仰の対象がかくされているといわれる。

  反対側、即ち裏の面には「拝節杜御宝前」と彫られ、右横面には「氏子中」と彫られ、左横面には「長和乙卯四年三月吉日」と彫ってある。

 十字架を形どった中心部のギリシャ文字の組み合わせは、大聖院(東京)といっしょであって、切支丹信者だけが知るもので、I、H、S説、伏字、記号を示すものである。灯ろうの大きさは図に示されたように全体の高さ一・一五㍍、同幅二五㌢、十字架の高さ二二㌢、幅三三㌢、胴の高さ五二㌢、同幅二五㌢、人体の高さ三五㌢、幅八㌢となっている。(八一五ページ写真参照)

  神社になぜこのようなかくれ切支丹灯ろうが奉納されたのか。当時の氏子達がなんにも知らずに奉納したのか、「拝師社御宝前」と彫り込んであることから知らずに奉納したとは到底思われない。かくれ切支丹信者が藩の切支丹弾圧に耐えられなくなったのと、それ以前からこの地方が蓮如らの布教によってまたたくまに浄土真宗一色となり、耐えられなくなった信者達が、証拠となるものすべてを一つも残さずに処分し、わずかにこの小さな切支丹灯ろうに信心のすべてを込めてひとしれず「拝師社御宝前」として奉納したのではないだろうか。それだとしても刻まれた年号の長和乙卯四年(一〇一五)はどうしてもわからない。キリスト教の伝来は天文年間(一五四九年)フランシスコ・ザビエルによって初めて伝えられている。長和乙卯四年はそれより四百八十年ほど前にさかのぼるのである。キリスト教がその頃すでに伝来しているとは、絶対にありえないことである。社誌によれば上林の神社創建の年代が長和二年、三条天皇の御代となっている。切支丹信者達が証拠いんめつのため、のちの世までも気づかれないために刻んだ苦肉の策でなかっただろうか。

  いま一つ、神社に古い神鏡二面が残っている。直径二五㌢ほどの丸い鏡で、裏面には「拝師大明神」「観応二辛卯年正月」「上林氏子中」と、浮き彫りで書いてある。しかもまったく同じ鏡が二面ある。年号その他も全く異なっていない。しかし、注意して見ると一面はわずかに気のつかないほどの凸面である。他の一面は平板である。社誌によれば観応年間に豪族林氏が、この神社を造営したとなっている。果たして関連性があるのかどうか、同じ鏡が二面あるのがなんとしても不可解である。あるいは凸面の鏡が魔鏡と呼ばれる鏡でないだろうか。もし魔鏡だとすれば、かくれ切支丹とも関連性があるかももれない。二面あるのもやはり証拠をかくすためではなかっただろうか。

  いずれにしても神社に奉納されている二つの物は、事実としていまもなお無言の歴史を語りかけている。愛怨おりなす遠い長い歴史の中に、なぞはなぞを秘めて、かくれ切支丹に対する魅力をいつまでも物語っている。

 

 薬師日吉神社(下林)の板碑について

  神社の境内、西北の方に、五輪の塔二基がある。完全な姿で残っているのは、わが村ではここだけである。板碑があるが、これは現在本殿横の中へおさめてある。他の部落には如意珠などがあった。板碑は室町時代のもので、元来供養のためにつくられたものである。わが村ではこの神社だけしか残っていない珍しいものである。高さ三〇㌢、幅二五・五㌢の石の板で出来ている。

  キャ、カ、ラ、バ、アと、五つの梵字がきざまれている(写真参照)。意味はわからないが、大日如来の真言とされている。五輪の塔は大日如来の法身の形相を表示するものだといわれている。とにかく、貴重な石碑がわが村に完全な姿で残されているのだから、この神社の古さと歴史を伝えているものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 富樫郷八幡神社(上新庄)の石堂について

  神社の境内南の方に石の堂がある。これは石棺ともいって、上新庄の田の地名に三百田という箇所があるので、おそらくそこから出たものであろう。感石、石針といわれるが、そうでなく合竜(ごうりゆう)というのが正式である。

  以前には石地蔵が安置されていたが、現在では神社本殿におさめられている。やはり珍しいものである。

 

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富奥郷土史