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==第三節 お寺について==

 

第三節 お寺について

  仏教は遠く大和朝廷時代に百済の聖明王という人物が、わが国に仏像や経典をもたらしたのが、仏教伝来の初めとされている。その後、推古天皇(女帝)の摂政聖徳太子がこの仏教を広めることによって民心の安穏を祈られた。

  仏像が安置されれば、当然そこに寺院のがらんが建てられる。日本で最初の寺院は法隆寺である。そしてその後仏教は急速に人々の心に信仰の対象として盛んになってきた。

  天台宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、神道、黄ばく宗など、各宗派が出来てきた。加賀能登などはとくに仏教の盛んなところで、いわゆる仏教王国といわれた。浄土真宗はとくに農工商家の信徒が多かったため現在まで続いたのであろう。

  藩政時代においてはみだりに寺院の創建が許されなかったので、道場または説教場として仏体を安直、坊守を配して、民衆に布教されていった。が、明治五年、道場などの禁止令によっていったん廃絶され、一般民家に移った。こうして再び盛んになって、寺号が許されるようになったのである。わが村の現在残っているお寺はすべて、浄土真宗大谷派東本願寺の流れをうけている。石川県下の浄土真宗のお寺は大正十年の調査では本願寺派が一〇一寺、大谷派七八九寺となっている。このうち石川郡は本願寺派一寺、大谷派八七寺となっており、いかに大谷派東本願寺の力が強いかがうかがわれる。

  石川県の真宗の歴史は単純な一宗派として信仰されたものでなく、そこには常に政治との争いが繰りかえされ、宗教的政治史でもあった。それは狂信的ともいえる民衆の中に深く入り込んだ、信仰を守らんとする団結のカであり、弾圧に対する闘争であった。

  本村に伝えられる宗教の中で最も関係の深い浄土真宗について、簡単に記して、ともすれば現代社会の中に宗教心が薄れいくことに対する参考としてみたい。

  浄土真宗の祖が親鸞であることは言をまたない。親鸞には子供がたくさんいたが、早世した子も多かった。

  その中で二男善鸞は親鸞に異義を唱えて関東にしりぞき、季女弥女という娘が日野広綱に嫁いだ。が、広綱の死後てい髪して「覚信尼」と称し、その子覚恵とともに親鸞のもとに来て久しく給仕した。このため親鸞の信をうけ、大谷祖廟の留守職を守り、文永九年(一二七二)亀山天皇から「久遠実成阿弥陀本願寺」の号を賜わり、勅願所と定められた。そこで善鸞の子如信という人を奥州から迎えて、本願寺第二世と定めた。今の本願寺派である。わが富奥村はほとんど大谷派に属している。では、大谷派はどうしてできたのであろうか。

  本願寺第十一代顕如は京都石山にいたが、織田信長が勢力を増し、近畿・中国にまでその勢力下に置こうとした。信長は石山の地が戦略上地の利を得たところとして、石山の僧たちに明け渡しを命じたが、顕如はこれを拒んだ。このため相い戦うこと十二年におよびようやく和を講じ、以後顕如は和泉、摂津へと移った。豊臣秀吉が政権を握ると顕如はその保護を受け、洛陽堀川の地に祖堂を造営した。その後、徳川家康が関ヶ原に勝利を得て戦乱時代が治まったので、顕如は家康にたのんで後陽成天皇の勅裁を迎ぎ、慶長七年(一六〇七)六条烏丸に堂字を起こし、教加をして第一代寺主と定めた。これが大谷派本願寺である。その後本願寺派を西本願寺とし、大谷派を東本願寺として現在に至る。

 浄福寺 (粟田、現住職香城鉄丸)

  真宗大谷派(東本願寺)に属している。天和三年(一六八三)、東本願寺五代一如上人の弟子となって修行した僧円順という人の開基である。文久二年(一八六二)三月十一日、本山から現在の寺号を授けられた。

 

 

 済世寺 (粟田、現住職香城学)

  明治三十七年十月、石川郡鳥越村相滝部落の松岡寺に智冠という人があり、粟田村の古老有志の懇望により浄福寺に入った。大正二年にわけがあって浄福寺を出て南の方に一宇を建立、済世舎粟田説教場として念仏の道場を開いた。(現在の荻田鮮魚店、藤田百貨店、馬場建設場)昭和二十四年に東本願寺から済世寺の寺号をうけて現在地に移転した。寺宝は阿弥陀仏(金沢専光寺から四十万善性寺に入寺した釈達理の持仏)と親鸞聖人絵伝四巻(徳川末期の作)

 太子講

  済世寺では早くから太子講が続いていたが、昭和三十八年十月、山本茂雄(中林)らが仏像の安置を提唱し、富奥在住の彫塑家で仏像制作の権威、米林勝二先生に依頼して実現した。

  仏像は高さ三二・五㌢、幅九㌢の立像で三部経を写書し、続経の後、その紙を型にして制作し、漆をかけた堅ろうなもので、その制作方法は仏像としてはきわめて珍しいとされている。中の空胴部には寄進者の法名を書き入れてある。なお、毎年三月十七日を御講日としている。

 

 定林寺 (下林、現住職増山了栄)

  上林・中林・下林の三村は天正の頃(一五七三~一五九一)三林善四郎という豪族によって領有されていたが、天正八年二五八〇)柴田勝家によって滅ぼされた。勝家の一子隼人という人物ほ剃髪して下林の地に庵を建て、円了と号して菩提を弔ったが、寛政四年(一七九二)、上宮寺の道場となった。

  明治二年五月、本山から寺号を受け、明治十二年六月二日、寺号の公称を許可された。二代住職遵悟はわけあって北海道北見市聖徳寺に入り、三代住職が富山県から入寺して現在の増山姓を名乗り、今日に至る。本堂薩明治三十二年六月に改築されたものである。

 定林寺本尊

  開基円了を本尊として尊崇したが、後年木像を本尊としたため今は正月と旧盆に奉安開扉している。先祖の口伝によれば、かつて当地に再三小火があったので道場の住持が率先して消火につとめ、事なきを得た。後日、部落民がその労をねぎらったところ、住持がいうには「われ他出中にて消火など知らず」といったので村人はいっそう驚いて「さては本尊様が自から難を救われたのでなかろうか」とみんなが集まって読経参詣を続けたという。

 定林寺太子御尊像

  聖徳太子二歳の尊像である。先代住職が井波の出身だったので瑞泉寺の太子像を模して、彫刻家東条某に作らせた。毎年三月二十一日に御忌法要を勤修している。

 

 

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富奥郷土史