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==第五節 村の御地蔵さん==
上林地蔵尊の由来
上林地蔵尊がこの地に建てられたのはごく新しい。この地蔵尊は上林区出身者の一人で金沢市に住んでいる神田又吉氏(与三右ェ門二男)が寄進、建立されたものである。この地蔵は金沢市犀川桜橋付近で料理屋を営んでいた同氏の所有地から出土した仏体である。昭和十二年十月、古里の地、上林の現在地に小さな祠(ほこら)を立ててここに安置した。上林区の北西の入り口、バス通りに面して今もなお、村人達の信仰をあつめている。
上新庄地蔵尊のこと
上新庄のすぐ北西の富樫用水に架けられた橋のたもとに安置されている。明治初年の頃、富樫用水の現在の木呂川の川の中から村人が発見したものである。隣接の部入道区の村人がこの地蔵尊を持ち運ぼうとしたが、何人かかっても持ちあがらなかった。が、上新庄区の村人達が持ったところ、軽々と運べたので、上新庄の地蔵として安置することに決まったとったえられている。子守り地蔵として村人の信仰をあつめ、毎年六月二十五日にはお坊さんを呼んで、地蔵祭りを行い、村人達がお詣りしている。
大平寺地蔵のいわれ
太平寺の道路に而して大小二体の地蔵がまつられている。大きい地蔵は藩政時代、有松(現在の金沢市有松町)のはずれのはりつけ場にあったもので、死刑囚の供養のためにいつとはなしに安置された。明治四年頃にその刑場がなくなった時、当時の太平寺の人達がもらい受けたものである。その頃は太平寺の墓地が現在の名糖アイスクリーム工場の向かい側にあったので、地蔵堂を建て道行く人々を護ってもらったわけである。
小さな地蔵については、村太家の四代前の武左ェ門という人が、夢の中で「わしは長年偏照寺(金沢市野町にあったお寺)のゴミ捨て場の下に埋もれているから、早く掘り揚げてくれ」という同じ夢を幾晩も続けて見た。そこで村人達を頼んで四㍍余りも掘り下げたところ、一体の地蔵が出て来たので持ち帰って、道路わきの墓地に小さな堂を建てて安置した。二十年ほど前までは、歯が痛くなった時、使っている箸(はし)を持って詣ると、すぐなおったといわれている。
大正七年、耕地整理が終わった時、墓地は野々市本町境に移され、地蔵もともに移転したが、風が吹くたびに御堂が倒れ、何度なおしても倒れるので、部落の道路端へ再び移して現在に至っている。武左ェ門は文政三辰年(一八二〇)十月十五日になくなった。毎年七月二十四日は地蔵祭りで、村人達が参詣して法会が行われている。
矢作の地蔵
いつの時代からか定かでないが、親子三体の石地蔵さんが墓地に祭られている。歯の痛い時この地蔵に詣ると奇妙になおったといわれている。また安産の守り地蔵ともいわれた。
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富奥郷土史