<< part3へ [part4]

==第四節 仏像==

 

第四節 仏像

 その一

  太平寺の平井庄八家は古くから代々真言宗を信仰している。この地方は浄土真宗になる以前はほとんど天台または真言宗だったといわれる。現在も太平寺だけに三、四戸伝承されている。平井家に古い仏像がある。仏檀正面に阿弥陀如来座像(木像)高さ三五㌢、幅二七㌢、左横に大日如来座像(木像)高さ二五㌢、幅一五㌢、右横に弘法大師座像(木像)高さ一七㌢、幅一二㌢がある。

  「阿弥陀如来座像」は室町時代の作品で、京都の正統派仏師の作であり、結跏趺座の姿を現わしている。北陸地方の在家としてはまことに珍しく、立派な仏像である。とくに背中から肩にかけての優雅な線や慈顔の静かさにうたれるものを感ずる。大日如来座像は金剛界を表わし、弘法大師は真言宗の開祖である。どうした経路でこのような阿弥陀如来座像が平井家に残されているのか。先々代に平井善六という人がいた。非常に信仰心の厚い人だったとのことで、この善六という人が手に入れたのだろうといわれているがさだかではない。

 

 

 その二 写石大乗妙典供養塔

  平井庄八家の庭内の道路に画した箇所に大きな自然石の塔が、つる草などに埋もれて気づかないように立っている.高さ一・七㍍、幅一・〇八㍍、厚さ四五㌢、右肩から斜めに下がっている。下がったところの高さが一・六三㍍頂頭の幅が三三㌢となっている。

 真ん中にきざまれた文字は

 

 

 となっている。

 大乗寺開山和尚茶毘墓

 曹洞宗大乗寺開山徹通和尚を茶毘(だび)にふした地に建てられていた真石の墓である。現在道路わきの石尾修道方宅地内に、隣の平井庄八方の写石大乗炒典供養塔と並んで建っている。

 高さ六七㌢、幅三三㌢(真ん中のところ)、下の幅二三㌢、頭の部分幅一九㌢、厚さ二四㌢。台座の石は幅五六㌢、高さ一八㌢の黒い石で、さらにコンクリート製の高さ六三㌢の角形台の上に建てられている。

 

 

 舘残翁著 加賀大乗寺史によれば

 尊祭鎖龕、拳轟、起龕の各仏事例の如く終え、直ちに山門を出て茶毘(だび)場に至り下火の式を拳ぐ。(延慶二年=一三〇九)九月、茶毘場は今の石川郡富奥村字太平寺ホ二十番地、古字「ダビ」という地にして、往時供養塔など櫛比荘厳をきわめたるも廃絶し、今現に大乗寺開山茶毘の古碑一基が復旧され存置してある。(六三頁)また「徹通を茶毘せる曹洞宗屈指の尊むべき遺跡は、現今石川郡富奥村字太平寺ホ七十九番地にして古字を「ダビ」と称す。往古は非常に壮厳で、境内とこれに通ずる道筋には供養の石碑が並び、毎年孟蘭盆には大乗寺現住職が威儀を正し、行装きびしく、野々市にある開山塔所と自山水の霊地にていねいな回向をした。だが、明治に入り、寺運の不振と時勢の推移により、その地も開墾され、後には土地整理のため意義ある旧跡がすべて田地と化し少しも旧観をとどめていない。碑石も転々として行方も確かでないという。昭和二年、へん者これを遺憾(いかん)として同地の同志に謀り、墓碣を捜し出し、同地ホ二十番地を相し、建設復活せしめた。」とある。

 

 その三

 中村憲造家の仏像の後ろにかけられている軸に

  木造安置 御免

    天和三歳二月五日

     京都楽中楽外実城寺 意甫

 とある。天和三年(一六八三)既に同家にあったのか経路はつまびらかでない。先々代に善六という人がいて、京都から持って来たともいわれているが、判然としていない。しかし、平井・中村両家とも善六という名前が同一であることに仏縁の不思議さを覚える。

 

 親鸞の真筆

  井口守正(粟田)方にあるもの。いつの時代からあるのか明らかでない。親鸞真筆と書いてあるが、真偽のほどは判然としない。

 蓮如の真筆

  田中初治(粟田)方に現在もある軸である。文明六年(一四七四)初夏、蓮如が四十万善性寺をたずねる途中、田中家(当時は説教場であった)の縁先にたち寄って一服された時書かれたものといわれる。南無阿弥陀仏六字の名号である。縁先であまりの暑さに法衣をぬいでかけたとったえられるタモの木が、いまも悠然としてそびえている。下林の定林寺にも同じものが保管されている。

 

 その四

  その他にもわが村に仏像はまだ幾つかあるが、藤田敬温(上新庄)方に糠仏(ぬかばとけ)と呼ぶ小さな仏像がある。ある朝、突然鶏の餌の中からころげ出たもので、その朝、藤田の本家のおばあさんが「今朝夢の中で仏様を見た。何か変わったことがないか」とたずねたのと同時だったという。それから七十年ほどたっている。

  東吉晃(清金)方に綿仏(わたぼとけ)という小さな仏像がある。蓮如さまのようで、綿の中から出てきたといわれている。

  山田一郎(中林)方に延命地蔵さんという高さ十五㌢ほどの仏像がある。百五十年ほどたったものである。その他この種の仏像がまだまだ各家にあるはずだと思う。

 

 

 

 

 

[part4] part5へ >>

富奥郷土史