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==(二)明治期の協同組合思想==

 

(二)明治期の協同組合思想

  1、明治期の資本主義的組合思想

  明治維新とともに日本の政治経済の近代化が始められ、欧米の資本主義思想が導入された。日本経済の立ちおくれから、貴族官僚の専制政治が明治二十年代初めまで続き、彼らの地位は明治憲法に確保された。

  官学はドイツ流の保護主義をとっていた。民間学者は初めイギリス流の自由主義を主張していたが、明治十年代には妥協的な態度に変わっていった。海外視察者、国の雇い外人によって欧米の諸企業形式が紹介されてきた。官民の経済関係者が深い関心を持ったのは株式会社である。

  明治初期のおくれた日本の状態では、市場経済の発展に応じて前近代的組合が部分的に補修きれて活用されたし、また、会社類似の中間的な組合が組織されてきた。しかし、これらの先駆的な協同組合が生まれる背景には、国家の士族授産、輸出増進、産業団体、地租徴収、町村改編などの諸政策が働いていたことも認めねばならない。

  輸出販売組合、納税貯蓄組合、塩業組合、士族授産組合などは、政策的な色彩が濃く出ており、これらの組合は国家保護を前提とする、資本主義経済のもとに形成されていった。

  明治二十年代に、国家は官僚、雇い外人を通じて、欧米の中小経営者の協同組合形式の紹介に努めた。この時代の組合を代表するのは信用組合法の立案者である平田東助である。

  平田は報徳杜の慈善的、後進的な性格を批判し、近代的組合を必要とした。高橋、横井両氏は、農村のおくれた状態では信用以外の事業も必要だとし、村落共同体の性格が強いライファイゼン方式(外国史、ドイツ)を主張した。ともに日本経済の近代化を意図しているが、後者は後進的な日本の事情を重視していた。

  信用組合法案不成立の主因は、組合形式の是否の問題よりも品川弥二郎が藩閥維持の中心勢力であったために、それに利用される恐れもあったとしている。

  明治三十年代にはいって産業組合法案が討議され、保守派議員から協同組合の社会主義的性格をただされると、政府委員は社会主義の防止にあると答えた。当時の政府は、国会は産業組合法の政治的性格を中立とは考えなかった。産業組合法は中小経営者の組合であったが、日清戦争後の社会運動の対策として購買組合の生活用品取り扱いを認めた。しかし、同時に治安警察法を制定して、社会運動を抑えることに努めた。

  昭和三十五年、柳田国男は「最近産業組合通解」を著わし、慈善家の小民救済を批判して「自由、進歩、協同、相助、これ実に産業組合の大主限なり」として、自由主義的組合思想を説いた。しかし、明治二十年代に報徳社の慈善的な性格を批判した平田東助は明治三十八年、大日本産業組合中央会を組織したときの趣意書の中に、次のような観察を示している。

  「我が国民中十の七、八は小農小商工たること是なり。もし、これらの産業者にしてその事業区域を侵蝕せられ、ついにその経済上の立脚地を失うごときことあらんか、ひとえにその窮乏あわれむべきのみならず、国家上、社会上のその影響のおよぶところ、はかるべからざるものあらん」

  平田は小農、小商工の代表者ではなく、高位高官の地位から民衆を救済する立場で、産業組合中央会を設立した。これはただ平田個人の変化ばかりでなく、その背景となっている資本家、地主の日本の政治経済に占めている地位の変化からきている。

  明治四十年代の恐慌期に信用組合は増加したが、幸徳秋水事件処置の当面の責任者である平田内相は、思想取り締まりを強め、産業組合中央会の基本精神に教育勅語を置き、産業組合中央会の法制化には全国一個と決め、協同組合統一の意思を固めた。このとき、皇室ご下賜金、大蔵省預金部資金導入などで、産業組合と国家の関係をより深めた。

  明治三十年代から資本主義経済学者は、経済史、経済政策、社会政策などについて、日本の実態をもとにした業績を上げた。福田徳三は経済学、経済史に業績を上げたが、個人主義が十分確立していない日本の状況では、欧米式の協同組合の発展はむずかしいとしたのは、国家の指導助成を背景に、地主の農民対策として成立した産業組合に対する客観的判断だったとされている。

  明治の信用組合は無限責任が多く、地区も狭く、組合員数も少なく、貯金は出資より少なく、借入金によって事業をした。国家、地主、農民のいずれも、経営的要素で説明せねばならないような性格のものであった。

 ※幸徳秋水事件 明治四十三年~四十四年、幸徳秋水をはじめ多数の社会主義者や無政府主義者が、天皇暗殺計画の容疑者として逮捕され、二十四人に死刑が宣告され、うち十二人が処刑された。

 ※ご下賜金 明治四十四年七月、平田産業組合中央会々頭は宮中に出仕して産業組合中央会の多年にわたる産業組合指導の功に対して、金二万円ご下賜の沙汰を受けた。会頭は品川子爵の墓前に報告するとともに、中央会の首脳者と協議した結果、恩賜財団と名づけ、産業組合奨励のため、特別表彰組合に交付することにした。

 2、明治期の社会主義思想

  明治初年に日本人がイギリスの消費組合を見学している。その後、自由主義学者フォーセット夫人(イギリス)著の「経済学入門」が明治九年、永田健助によって訳されて、消費組合が紹介された。西南戦争のイソフレ期に上流知識層によって、国家の指導を受けずに消費組合が生まれたが、明治十年代のデフレ期に消滅した。

  当時の社会事情としてロッデール公正開拓者組合(外国史、英国)の思想的根拠になったオーエソ思想が、消費者組合にあったかどうか疑問であるが、当時の東洋社会党には出ていた。

  樽井藤書は明治十五年、長崎で東洋社会党を結成したが、それはオーエン、サラールの主張する生産組合が掲げられていた。その綱領に、天物共有、協同会社、児子共有、理学的生殖を上げた。天物共有はスぺンサー(英国)による土地共有論であり、協同会社は生産組合による社会改革である。

  これらの思想も東洋哲学が混入し、欧米のものとは違っていた。国の取り締まりで党はすぐ解散した。のちに樽井は自由党左派として、品川の選挙干渉のとき国会議員に当選し、その後「銀行国有論」を書き、国家社会主義者を自認していた。このように、品川とは全く反対の立場の政治家によって、勤労者の協同組合の宣伝が行われたが、信用組合法案(産業組合法)の思想的性格はこの点からも逆であった。

  日清戦争後に、片山潜、高野房太郎、城常太郎らの社会主義者、労働運動家がアメリカから帰国したので、労働組合が広く組織され、それと密接な関係を持って消費組合が普及した。これが治安警察法と産業組合法の同時立法される重要な動機となったのだから、消費組合も労働組合も消滅した。その後も強い思想取り締まりのもとで、社会運動の線に沿った消費組合は成功できなかった。

  明治三十四年、片山潜は「日本の労働組合運動」の中で、「治安警察法は労働者のために悲しむべき法律で、産業組合法は喜ぶべき法律だ」とした。しかし、この言葉が生きるにはさらに二十年の年月を要し、しかもそれは労働者が自らの手で戦い取ったのである。

  明治四十年代に幸徳秋水事件を契級として、思想取り締まりが強化され、社会党結成と労働争議はきびしく弾圧された。

  この間に無政府主義と社会主義泉が理論対立して、社会主義者は理論的研究を深めた。そこで国情の相違もあるが、日本ではオーエン、サラールの主義者がヨーロッパのように政治的に広く支持される時期はあらわれなかった。

 ※東洋社会党 明治十五年五月、樽井藤吉らによって長崎県島原で結成され、党員四千人と称したが、主として小農民であり、行動も小農民的道徳をもって言行の基準とし、平等を主義とし、機関誌「弔鐘警報」を発行、その行動隊が治安に妨害ありとして明治十五年七月、結社禁止を申し渡され、解散した。

 3、前近代的思想のなごり

  明治、大正を通じ、近代的協同組合の起源として、ゆい、組講、郷倉、報徳杜、先祖株、部落、共有林などが高く評価されていた。

  前近代的な性格を持った地主は、その立場を維持するためこれらの諸形式と、これにつながる前近代的思想を利用することに努め、その意思に基いて国家の思想対策のうちに取り入れていた。これらの諸形式は時代によって消長があり、前近代的思想の利用ていどに変化があった。

  郷倉は明治以後の救貧政策近代化にしたがって解体された。ゆい、頼母子などは農業技術、金融制度が未発達なために、明治以後も一般的に残された。

  明治前期の市町村改編から、組、部落は市町村行政と産業組合に利用され、地主の有効な農民支配の手段として活用された。明治、大正を通じて部落や地域の産業組合、小組合が多くつくられ、町村行政とよく結びついて事業活動をしていた。

  これらの形式は農村に保守的な思想を残す主要な根拠となった。明治からの諸制度の自由化は、地主、地方商人、高利貸しに有利だったので、彼らは一体となって農民の階層の分解を促し、農民の勢力を組と部落に閉じ込めて、地主による支配をたやすくさせた。

  前近代的思想のなごりの代表的なものは、二宮尊徳、大原幽学の思想である。ともに神儒仏の教義を混成し、幕末の低い経済と技術の上に、農業政策、農業経営方式を提案した。

  また、ともに幕藩政に対する農民の不信が高まった天保の年末頃、幕政の維持のため強い統制を内容とした天保の改革が行われたときに、模範的な農村指導者だったという共通性を持っていた。報徳学、性理学など協詞を基調とする二人の考え方は幕藩政に有用であった。

  報徳社は頼母子講から着想され、金融を主としたので普及しやすかったが、先祖株は株の造成をねらいとしたものの普及しなかった。明治にはいり報徳社ほ藩閥政治象西郷従道、品川弥二郎に取り上げられ、地主の農民対策として普及してきた。

  明治二十年代に報徳社を批判した平田東助は、明治四十年代に産業組合中央会の会頭として、大日本報徳社々長岡田良平と強く結んだ。これは国家の思想取り締まり強化に対応していたし、当時の産業組合は信用組合主体なので、その思想的裏づけに報徳思想を利用したのである。明治からの報徳思想の解説は多少修正されたが、基体の前近代性をなくせば、地主はその有用性を認めなかったのである。

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