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==(四)昭和戦前の協同組合思想==

 

(四)昭和戦前の協同組合思想

 1、昭和恐慌下の産業組合の思想転換

  昭和二年の金融恐慌は、戦後の不安定な諸企業の整理に役立ち、大企業の集中を急速に進め、外地、植民地への投資を広げた。このことは中小企業、勤労者の経営と生活を圧迫した。さらに、世界恐慌による昭和五、六年の恐慌止、小地主、上層農民の経済を破綻させた。そのうえ農業経済主体の日本植民地の民衆にも同じに作用したので、植民地での反日機運を強め、満洲事変から日華事変に至る長期の準戦時状態にはいった。年とともに、国家の経済干渉が強まってくるにつれて、明治、大正を通じて資本主義の基調とされた自由主義思想と、新たな事態

 に対応するための統制思想の対立で動揺するときがきた。 産業組合中央会は昭和二~三年に、産業組合文献展覧会、機関誌の思想特集号、産業組合理論講習会により、新旧の思想を検討した。これにより産業組合と関係の深い実務家や学者から協同組合主義の提唱がされてきた。

  昭和三年、千石輿太郎は「産業組合経済組識論」を発表し、中小経営者、勤労者は、資本主義経済組織の弊害をまぬがれるため、各種協同組合の連絡と相互協同による新経済制度である産業組合主義経済制度を確立すべきことを強調した。

  その特徴は、利潤第一の個人主義的資本主義を排し、闘争と革命を主張する社会主義と違って、防衛のための資本主義への抗争をする、こととした。

  昭和四年、那須皓は新産業組合主義を主張した。その特徴は自由と社会強制を排し、非営利的、計画的な生産配給を進め、生産手段私有を認め、革命に反対することにあった。

  昭和五年、本位田祥男は消費者の立場からの協同組合主義を主張した。消費組合運動は資本主義経済の目的である利潤獲得を排し、相互闘争にかわる相互扶助、競争にかわる協同社会を実現し、これによって消費者の立場からの産業民主主義を実行することとした。

  本位田は欧米の協同組合主義によっていて、消費組合主体である。千石の主張は農村の中小地主の動揺にこたえるもので、この主張は後に反産運動に対抗する地主の、統制支持の政治運動に利用された。那須の主張は昭和七年の「協同組合と農業問題」で内容を充実したが、これらの主張の裏づけとして昭和六年、アメリカのワーバス著「産業組合民主制」、同七年、フランスのポアソン著「産業組合経済学」が訳されたが、消費者の立場のものだった。

 2、統制経済下の各種組合の思想分化

  昭和にはいり「社会思想全集」やマルクス(ドイツ)スターリン(ソ連)の全集が出版され、また、先駆者の組合文献をはじめ、現実の組合問題に関係の深い社会主義理論家の組合論が紹介されてきた。イギリスのウェップ、ドイツのカウツキー、ソ連のレーニンなどの組合批判が重視された。

  しかし、これらの著書の直接的な影響よりも、マルクス、レーニンの理論を用いて、社会主義の各派学者グループ、政党、団体が、日本の産業組合の実態研究、対策提示、産業組合への闘争をしたことが、日本の組合思想に新たな展開を促した。

  また、治安維持法の施行から、社会主義政党、団体の分裂が目だちはじめ、都市勤労者の協同組合でも分裂が見られるようになった。消費組合のうちで左派だった関東消費組合連盟は、昭和のはじめに右派を分裂させ、ますます闘争的になった。

  都市の比較的自由な環境から、各派の消費組合ができてきた。そこで、産業組合中央会の指導方針に従っている組合もあれば、それにあきたらない協同組合主義の組合もあった。さらに労働組合と密接な関係にある社会主義派の組合があったが、この連絡を図るために、全国消費者組合協会(生協)ができた。

  しかし、その活動は市街地信用組合協会(信用金庫)ほど統一的にはなれなかった。闘争的な関東消費組合連盟は昭和二年から全国産業組合大会に出席し、消費組合の立場を守り、産業組合の官僚性を批判した。このため産業組合中央会は、全国大会の組織方針を変えて対抗した。左翼の政党、労働組合は、農村消費組合の設立、町村産業組合の乗っ取りなどの方針を実行した。左翼の運動者は思想の実行を通じて理論と実際との発展を図る信条なので、地主的農村産業組合は動揺させられた。そのために産業組合中央会系統の指導者層を強化して、思想の右翼化を促してきた。

  社会主義各派協同組合の著書、論文は多くあるが、農村産業組合の一部青壮年にもっとも強く影響を与えたのは、昭和九年に出た近藤康男著「協同組合原論」で、階級的立場から内外の協同組合を批判し、労働者、農民のための協同組合の方向を示した。

  左翼思想に従って実際行動に出た産業組合の系統機関の職員で、思想取り締まりの犠牲になるものも多くなり、戦時の強い思想統制では、社会主義に基く組合思想も、それに基く小数の組織も壊滅させられた。

 3、戦時統制下の資本主義的組合思想

  昭和初期の農村恐慌対策としての農林省の経済更生事業は、古代的、封建的な思想を農村産業組合に持ち込んできた。すなわち、五人組、部落、モミ貯蔵、徳政とその負債整理、尊徳、幽学の封建思想、古代思想の農民道場、新穀感謝祭などの、復古的思想を持った諸施策は、新官僚の政治力を背景に普及し、地主、上層農民をとらえた。

  昭和の初め、高須(現三浦)虎六はドイツのテニエスの協同社会と利益社会の理論を紹介して、産業組合は利益社会になっているので、親和力を高める手段を持つ必要があるとした。しかし、それは立論者、紹介者の意図から離れて、階級支配の強い農村産業組合を共同体と認識するような指導理論に誤用された。また、昭和十三年、八木芳之助は「協同組合論」で、ナチス、イタリアの団体統制を客観的に紹介したが、これも政策的に利用されることになった。

  産業組合中央会は昭和十二年、産業組合員精神綱領を発表した。

 一、尽忠報国 聖旨を奉戴し、敬神崇祖の念を堅くして、

 奉公の誠を致し、もって皇国の興隆に貢献せんことを期すべし。

 一、人格陶冶 心身の鍛練に精進し、常に明朗を旨とし、信義を重んじ、熟慮断行をもって責任をまっとうせんことを期すべし。

 一、斉家治産 一家和親し、精励業に当たり、勤倹貯蓄をもって産を治め、とこしえに国の礎たらんことを期すべし。

 一、共存同栄 自助の精神にのっとり、隣保相助けて、もって協同経済の進展を図り、国民の厚生に寄与せんことを期すべし。

 一、 八紘一宇 肇国の皇謨を進弘し、東亜民族の協和に努め、宇内久遠の平和建設に資せんことを期すべし。

  この綱領は「大学」(中国の古典、四書のひとつ)の修身、治国、平天下のアイデアを借用し、当時の急に勢力を拡大した軍、官僚の国家思想を取り入れたものである。ことに古代思想をもととする「八紘一宇」を採用したことは、侵略主義を認めたことになるとの批判が出ていた。これは昭和十五年、産業組合中央会がICAを脱退する思想的準備ともなった。

  戦争中は大政異質会のもとに、産業諸団体は年とともに団体規制を強め、画一的に国家主義思想を受け入れた。空襲で国土は分断され、行政機関と団体組織はブロックに分散配置されて統一を失った。

  昭和二十年二月、農業団体の首脳部は「生産軍体制確立案」を建白した。その要点は国民皆兵の精神により、各職域に従事のまま皇軍に準じて職域別生産軍に組織し、基本の企業と農地を公益非常管理に移し、政府生産軍に対して包括的生産実施権を与え、所属隊員に皇軍に準ずる賞罰を加えることにした。

  このような主張は、そのままでは実施されなかったが、農業会首脳部の思想傾向を知る資料にはなる。このような主張は社会経済発展の停止を意味するのであって、国家主義がかえって国家の発展をとどめるものにまで成長してしまったのである。

 ※農民道場 昭和七年、当時の農山漁村経済更生運動のひとつとして奨励した。農山漁村の青壮年の中堅人物を養成する機関を農村道場と呼んだ。たとえば農村青年共働学校(静岡)農民講道館(埼玉)日本農士学校(埼玉)茨城新興農場、牧ヶ原修練農場(長野)があった。

 ※新穀感謝祭 昭和十年から毎年十一月二十三日の新嘗祭当日行われ、戦時は大政翼賛会が、戦後は全国農業会、農林省新穀感謝祭委員会が共催してきたが、三十七年から農業祭と改称、財団法人日本農林漁業振興会と農林省が共催で農林漁業の技術振興、経済発展の意欲高揚を目的に行っている。

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