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==(五)昭和戦後の協同組合思想==

 

(五)昭和戦後の協同組合思想

 1、昭和戦後の資本主義的組合思想

  昭和戦後の組合思想の性格を決める社会経済背景は、第二次世界大戦前とは著しく変わった。そうして戦後二十有余年の短期間にも変化があった。アメリカ占領下の初期には敗戦による国力の衰退から日本経済を回復させるために、急進的な改革が行われた。政治経済の民主化を進めるために政治的特権階級、農地改革、軍備の廃止、財閥の解体、思想結社の自由、婦人青年の地位向上、児童保護、学制改革などの施策が行われた。戦前から残されていた前時代的制度のなごりはなくなり、中小経営者、勤労者の地位は高まり、協同組合、労働組合、農民組合

 などの発展が助長された。

  協同組合は職業的に立法化され、それぞれの事情に適応した発展ができるようになったので、各派の組合思想が融和してきた。

  「農業協同組合法」は最初の本格的組合立法だった。農地改革後の解放ムードから、農林大臣は国会提案説明の中で、農協法の重点として組合の組織的自由、農民の民主的主体性、農業生産協同体、農業協同組合の自主性の四項目を上げた。

  農地改革後の農村に自由な民主的団体を組織し、これを農業生産共同体として発展させるとともに、国家の干渉から解放する意図を強く盛り込んでいた。しかし昭和三十年発行の農林省編「農業協同組合概論」によれば、農協法制定当時の指導原理として組合員結合の自由、自由組織における農民の主体性、運営における民主性、事業における生産の重視の四項にあった事実を変更して記述を行った。

  農林省の当初の意図には理論上の難点が多かった。農業生産共同体を農業生産事業の重視と変えたのは、この間に農協が農業生産共同体であるか否かについての論議があったためである。国家の干渉排除の当初の規定も、強い配給統制があっては意味がなく、農協の事業は国家の強い干渉のもとに置かれていた。

  米穀以外の配給統制が解除されると、系統農協は大きな破綻をきたし、十年余にわたる国家の指導助成によって再建整備をすることになった。このような状態では国家の指導助成から離れることがむずかしい。そこで国家の干渉排除の一項目は隠されて、組織上の自主自由の一項のうちに解消させられることになった。

  系統農協が発足した昭和二十六年、農業協同組合員綱領が制定され、明治、大正、昭和戦前の三代にわたる国家主義的傾向が改められた。

 一、われらはわれらの組合を守り、組合によってともに地位の向上を図ろう。

 一、われらは組合によって経営と生活を合理化し、その効率を高めよう。

 一、われらは信義と友愛をもって組合に結集し、協同の力を発揮しよう。

 一、われらは全国の組合と手をたずさえ、ますます連合組織を強化しよう。

 一、われらは組合運動を通じ、同志とともに平和社会を打ち建てよう。

  戦前の産業組合員精神綱領が前近代的国家思想を主体にして一般国民には理解しにくい難解な言集を用いていた伝統を一切捨てた点に、農業協同組合員綱領の特徴がある。しかし、アメリカ占領軍当局の指導のもとで、背景にあるアメリカ独占資本の軍事的、経済的意図は隠され、農協法に示されている理想を平易に明るく表現することだけに努めた傾向もないではない。

 ただ、統制排除、朝鮮事変、日本の独立などの政治経済の変化とともに、農協の実体が変化しないわけはなかった。

  系統農協の再建整備に国家の干渉が深まると、昭和二十九年にできた系統農協の頂点に立つ全国農業協同組合中央会は、国家の助成団体として法規制され、当然加入制度も設けられた。これは漁業、林業、中小企業の協同組合にも見られたことである。中小企業には協同組合のほかに、業者間の事業調整を行う商工組合(法制中小企業法)を制定し、その一部のものは共同事業活動ができるようになった。

  協同組合の職業別立法の方式は、それぞれの組合員の社会、経済的要求にそって組合の組織、事業、財務、系統などの方法を発展させ、組合思想も実態に応じた展開をさせてきた。従って協同組合関係者の理論水準も高まってきた。農業協同組合短期大学を背景に、諸派の学者、実際家は協同組合研究会を組織し、毎年全国大会を持ち、各種協同組合の研究発表、統一課題の討論をし、協同組合の理論の発展に役立っている。

  その報告書の代表的なものは昭和三十四年に出た「戦後協同組合の性格」である。アメリカの占領下で、アメリカの指導助成を受けたばかりでなく、独立後は交通機関の発達にともなって内外協同組合の交渉が進み、日本の協同組合の関係者は、国際的な視野を広めた。

  日本の系統農協は国際協同組合会議への参加とともに、アジア農業協同組合の主催、貿易連合の設立、アジア農業協同組合振興機関の設置、アジア農協銀行の主唱など、戦時には日本を盟主とする大東亜共栄圏思想に基く協同組合の連絡を考えたのと異なり、戦後は各民族が平等の立場から協同組合間の協力を実現する構想に変わってきた。しかし戦後の国際関係は国連とその諸機構、左右の強国の政治経済勢力が他の国におよび、公共援助が国際化してきた。このことは国際協力を深めたが、同時に国際援助によって協同組合が国際的に公共化し、左右両国

 の国際対立に巻き込まれる恐れもあり、組合と国家の関係、政治中立問題は新段階にはいった。

 2、昭和戦後の協同組合主義

  戦争直後の政治的動揺期に、日本協同党、農民協同党があり戦前の農村産業組合関係者が参加したが、政局安定とともに退潮した。戦後勤労者の消費生活協同組合が確立してくると、協同組合主義の新拠点となった。勤労者の諸運動には政治的な立場を異にする各派があり、相互の対立は深まっている。共同組合主秦の一つの特徴として政治中立を原則としているので、勤労者の諸運動の各派の対立からまぬがれるために、生協が協同組合主義による傾向もある。

  「中小企業団体の組織に関する法律」には政治中立が法定されているが、協同組合法では「消費生活協同組合法」でこれがとくに重視されている。しかし、生協で政治中立が守られているのは、戦後の「破壊活動防止法」が戦前の「治安維持法」よりも民主的に運用され、勤労者の諸運動の対立が理性的になったためである。労働組合各派は生協の中立を申し合わせており「生協法」の規定で守られているだけではない。

  戦後の協同組合主義は戦前のものを引き継いただけであって消費者の立場からする社会改造を主張し、利潤の撤廃、公正価格、経済民主主義、政治中立などを実行項目に上げている。しかし、この主張もまた、一種の政治的主張であり、この点からいえば自己矛盾であるという批判も出されてくる。だが、生協には自主的職域組合、半自主的職域組合の別があり、それぞれの組合によっては、社会運動諸派の影響に強弱がある。この複雑な思想分野の交錯をいちおう全国的に統一させるために、協同組合主義を採用することには実践的な効果はある。

  戦前、戦争直後に日本の協同組合主義の裏づけに役立ったワーバスの死後、アメリカの協同組合でははぼ同一の地位にあるボーソスの著書「アメリカの協同組合」(矢吹寿訳)はやや主張が違ってきた。

  戦後、急に都市、農村の協同組合が発展したので、都市的色彩が強かったアメリカ協同組合連盟の首脳部として、各種の協同組合の統一を呼びかける思想に転換している。ワーバスの消費者の立場からの主張の性格も残るが、協同組合の基本思想を神の律法、人の相互扶助におき、これによって世界平和を実現するとしている。彼の組合原則には政治中立をいれない。さらにアメリカ協同組合の戦後の経営確立で一九五〇年代に経営管理の理論を採用し、各組合は経営コンサルタントに莫大な費用を払っているとする。

  自由圏の協同組合の中心をなすアメリカ協同組合の思想は、経営発展を望む方向を見せてきた。

  日本の生協は組合数の増加から経営思想を発展させ、経営管理の理論と技術の導入に注意してきた。また、共済、保険、金融、住宅、生産をはじめ、広く労働者の福祉事業を共同化する目標を持ってきた。このような生協の確立に応じて、平実は昭和三十二年から四年間に、イギリス、フランス、ドイツの協同組合形成の系統的な研究の三著書を出した。

 ※日本協同党 第二次世界大戦後、日本に再編成された五大政党のひとつ。昭和二十年十二月十八日、第八十九回臨時帝国議会の解散当日、船田中、吉植庄亮、黒沢酉蔵、北膳太郎、井川忠雄、吉田正、宮部一郎ら七十数人で結成、新協同組合主義を標榜し、とくに農業政策、中小企業政策に重点を置いて発足した、中間的性格の政党である。幣原内閣から片山、芦田内閣に閣僚を送り、政界の過渡的混乱期に、他の小党を吸収合併しながら、協同民主党、国民協同党となり、山本実彦、三木武夫、井出一太郎らを中心に農漁業の支持を集めたが、改進党との合併により、協同組合主義綱領は姿をひそめた。

 ※農民協同党 昭和二十三年、全国農村青年連盟が農民政治力結集を提唱して従来あった農民党を解消し、国民協同党の一部を合わせて新たに新農民党を結成、翌年十二月、農民協同党と改称した。改組の背後には農協とその政治活動団体としての農青連、農民連盟などの組織を持ち、協同組合主義を掲げた。二十七年二月、改進党結成にともなって分裂、主流は改進党に変わったが、一部は同年七月、社会民主党と合同して協同党となった。

 3、昭和戦後の社会主義的組合思想

  アメリカ占領軍当局の重要政策の一つは、思想と結社の自由で、戦争まで圧迫され続けてきた社会運動家、学者は解放された。資本家の破綻と農地改革の実行により、労働組合と農民組合は数多く組織され、革新政党の勢力は拡大した。戦時中の指導者が国の重要な地位から追放されたので、戦後の中小経営者、労働者の協同組合役員に、革新派も選出された。戦前に出版された革新派の組合文献も再刊されて、組合内部にもその思想が普及するかに見えた。しかし、アメリカ占領当局のもとでは革新派のエネルギーが協同組合の近代化に活用されたにとどまった。

  戦後、共産圏が東欧、極東に拡大して、アジア、アフリカ、中南米の諸国で、社会主義政策を採用する傾向があらわれるとアメリカ占領軍当局は日本の革新派の勢力を押さえ、追放者を復活させて保守派の強化を助けた。このため協同組合をはじめ革新派の勢力は著しく後退した。自由圏の中小経営者協同組合の性格に変化が起きて、経営も安定してきた。

  革新派が独自に組織したものでは、昭和二十三年に生まれた販売、購買、厚生の三全国農業協同組合連合会がある。これは革新派役員が力を持つ地方農協組織に支持され、革新派の旧農協職員がその仕事に従事した。一時は活発に活動したが、物資が出回ってくると経営は縮小してきた。組合民主化の見地から農林中央金庫が資金を融資した。

  このように革新派の系統農協における活動が退潮をたどった半面、各種農業協同組合がいずれも中小経営で、労働条件も悪かったため、組合職員の労働組合が広く組織されてきた。そして、これが組合内の革新派の拠点となった。組合役員と労働組合とは、労働条件だけでなく経済政策、中小経営政策、組合政策にも意見の違いが出ている。支持する政党、候補者でも対立するときもある。しかし、組合の事情、地方政情、革新派の性格などによって、両者の意見が一致する場合もあって、両者の協力活動がなされ、革新も協同組合の支持を得るように努めている。

  米ソをめぐる自由圏と共産圏の対立は時により強弱があるが世界経済の回復、安定により、両圏の間の経済文化の交流が進められてきた。日本と共産圏の協同組合の代表者ほ相互に交通し、理解しはじめている。二つの組合貿易連合会ができたのも日本とソ連の組合間の取り引きが重要な糸口となって、共産圏ばかりでなく、社会主義的色彩の強い国の協同組合との交渉も行われるので、日本の協同組合役員の社会主義への理解を深める動機は作られつつある。

  日本の社会主義にも諸派があり、民主社会党、社会党、共産党がある。ヨーロッパの社会党に右傾の傾向があっても、日本の社会主義政党ではマルクス主義、レーニン主義の支持者が多い。労働条件が欧米より低いためで革新派からの中小経営者協同組合への批判は鋭い。革新派の主張は、長期に政権をにぎって日本の政治経済の全般の改革を実行し、その一環としての協同組合の考え方と方法を示したものであるため、現実的な中小経営者の理解が得られにくい傾向もある。たとえ、革新派の主張がこのような性格を持っていても保守派の施策が必ずしも万全ではない。組合員の階層間の経営と生活が開くようになってくれば、組合員の中に革新派の支持者が多くなる可能性も強まる。

 4、経済成長政策下の組合経営思想

  一九六〇年の世界経済の発展と貿易自由化の進行から、政府は経済成長政策に裏づけられた所得倍増計画を示した。安全保障条約をめぐる政争であるために、革新派からの批判も強く出されてきた。大企業の急速な拡大の歩調に合わせて、二重構造の底辺にある中小経営者、勤労者の所得均衡を図ることは、中小経営者、勤労者の望むところではあるが、その実現に対して一般の信頼がともなっているわけではない。そこで農業、中小企業に基本法を制定し、中小経営の生産向上を図るため、経営規模の拡大、経営技術の近代化、協業の促進、流通金融の改善を革命的に行うことにした。林業、漁業にもこれに準じた構造改善が行われるのである。

  この政策は資本主義の立場からする理想像であるが、中小経営者の資力、技術が低く、協業を好まない傾向が強いので、政府の指導助成が徹底しないと実現が困難になる。心配されたように、政策発表後一年余りで成長率がにぶり、基本法の施行に支障をきたし、昭和三十九年から二重構造の是正に重点を置く考え方を示さねばならなくなった。

  農業は零細経営者が多いため、実質上の矛盾が大きい。(農業基本法)昭和戦後は、農地改革からみれば著しい転換であり現に工業の発展から農民の兼業化、脱農が進んでいる。しかし、勤労者の労働条件が低く、就業に安定性がないので、脱農することなく生産性の低い零細農民が増す傾向も強い。

  この困難な施策の実施に農協の協力を期待し、農協の経営能力を高めるために、広く単位組合を合併させ、これをもとに上級系統の改組を実行させてきた。この系統全体の経営改革は明治、大正、昭和戦前から続いた旧村的な経営思想と対立を起こす地方もある。

  系統農協はこれに応じて農業種目的の広域団地を設けて、農協を主体に集団栽培を育成し、これに十分なサービスができるように、生産、配給、加工、貯蔵、輸送の共同施設をすることにしている。これは政府の政策が上層農民主体であることを批判している点に特徴があり、両者の構想が実施される過程に新たな組合思想が生まれようとしている。

  「中小企業基本法」にも類似した問題点はあるが、都市化の発展から中小企業、勤労者の協同組合の発展の将来性に深い期待がかけられてきた。首都圏、近畿圏、新産業都市、研究官庁都市などを中心に、全国の中枢都市、工業都市の建設が行われるなら、中小企業勤労者住宅も団地化し、これを基礎に協同組合の合理的な運営ができるようになる。

  このような建設が具体化するなら農業だけでなく、林業や漁業の経営近代化をはかる重要な動機となって作用する。林業や漁業の協同組合は経済能力が低く、この改善については林、漁業内部からの努力に期待するだけでなく、日本経済全体の発展の裏づけがされる必要があるものとみられている。経済成長下で森林組合、漁業協同組合の単位組合合併が奨励されているが農協ほど進まないのは、林業と漁業での生産関係に後進的な面が残されているからであろう。

  どの産業でも中小経営の近代化を促す努力が払われ、個々の経営または協業により、経営の拡大がなされ、中小経営者の思想も発展している。その下での雇用関係も近代化されようとしている。経営に対する個人個人の個性が認められ、それをもとに協同活動することが、近代的協同組合の重要な要件のひとつである。その意味からいえば、農山漁村の閉じ込められた組、部落の中にある零細経営者が、経済成長政策下の経営の変化によって新しい協同の形式を生み出すことができれば、それが経済的に強い根拠を持った自主的な組合を生み出すことになろう。

  このような組合員の変化に応ずる組合の経営思想の準備が必要になる。戦後の協同組合は、整備期間に財務、経理の合理化、経営分析、事務の機械化を進めた。経済成長政策下では流通革命に対する市場理論の研究、広報活動の拡大、設備の高度化、輸送力の充実がなされた。組合の合併、労働組合の対策として経営管理の近代化が行われ、金融と流通中心の協同組合の事務的経営から、農業、工業、厚生、文化などの組合事業を持つ、技術的に高い経営に移っている。これらの経営上の発展が、組合経営思想の近代化を助長するものとみてよい。(この項は協同組合事典、辻誠著より)

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