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==(三)大正期の協同組合思想==

 

(三)大正期の協同組合思想

 1、大正期の資本主義的思想

  第一次世界大戦を中心にして、大正年間の日本の資本主義は戦争の被害を受けずに市場、領土を広げ、重化学工業、海運を発展させた。大企業ばかりでなく、中小経営者、勤労者の経営と生活も伸び、その協同組合も多面的な発展をしてきた。

  戦時中に食糧調整政策として地主米共販のための農業倉庫、輸出対策としての中小企業の市街地信用組合(のちに信用金庫)が法定された。この戦争末期と直後に都市勤労者の消費組合が数多くできてきた。前近代的性格のなごりの強い農村より近代化の進んだ都市に、自主的立場を持つ協同組合が新たに動き出したことは、日本の組合思想を近代化する機会を生み出したかに見える。

  戦争直後までに農村産業組合も無限責任から有限責任に転換し、貯金が出資金を越えて金融機関としての面目を備えてきた。また、購買組合の取り扱い品目もやや多くなった。販売組合の取り扱い品目も多くなった。しかし、部落的組合が多く、これをもとに郡連合会、県連合会が組織されても、県、郡の公務員が役職員となって、責任を負うものが少なくなった。

  そこで、系統組織ができたといっても、地方銀行、卸売商、加工資本の下請けをする性格が強かった。戦後の好況による値上がりで急に伸びた不安定な組合事業のために、農村産業組合は事業高の拡大した割りには思想と技術を高めることはできなかった。

  この状態で第一次大戦直後の経済恐慌に当面して、単位組合も連合組合も相ついで破綻した。前々から地主は組合の実権をにぎっていたが、政府の下請けもしていると考えていた。そして地主は政治力があるから責任を国家に転じ、産業組合中央金庫を設けさせ、この背景で全国連合会を組織し、地方組織の整備を進めた。

  政府は大正十四年に農林省の独立、翌年に郡役所の廃止、農林省に産業組合課の設置をはじめ、米穀、蚕糸などで救済施策を充実した。このような状態に合わせて産業組合の思想方向が決められた。

  大正十年、平田東助が示した「産業組合訓」は信用、勤倹、共存共栄であって、信用組合的である。同年の全国大会で決定した組合の任務は、勤倹力行、思想善導、共存共栄であった。後の組合学者で共存共栄を社会学の新思想で説明するものもあったが、平田の解説では皇室中心主義の国家思想であった。

  内大臣平田東助は皇室の側近として、明治時代の官僚の立場を強く守ることに努めた。

  大正十二年の平田の解説によれば、共存共栄とは精神的共同団結と物質的共同補助を要約したものだとし、ついで自己の社会観、国家観を述べ、その最後を次のように結んでいた。

  我が国民の如きはその祖先を同じうし、国を肇むる以来、皇室の下に代々相承けて各その業を執り、一国はあたかも一家のごとく、いわゆる鄧林(とうりん)の大森林も、我々にありては個々の樹より成るにあらずして、あたかも一大扶桑の雲にそびえ野にわたりて天日を覆うがごとく、皇室を根幹として人民を枝葉として共に繁茂し、万世一系の帝室の下に純民族国家をなしている。されば共存共栄はひとり産業組合にありていうべきでない。町村の自治はもちろん、社会国家にありても、ともに同一の要件たるのみならず、我が国家にありては共存共栄にあらずんばまたその存立を保つあたわぬのである。

  明治、大正を通じて絶対的な指導力を持った平田東助の組合思想の総決算書がこの解説である。

 2、資本主義的組合思想の内部対立

  産業組合中央会首脳の思想に対する批判は大正十三年の中央会機関誌「産業組合」にもあらわれた。新自由主義の思想で指導的学者だった上田貞次郎は「産業組合から協同組合へ」を書いて、産業組合の国家主義的性格を批判し、自主的協同組合の必要を説いた。

  この本質的な主張は農村産業組合については実現性に乏しかったが、大正末年から同業組合(商工協)のほかに重要工業品関係の中小工業者の工業組合(商工協)をつくるための主張に役立っていたことを忘れてはならない。

  大正十三年、東畑精一が訳し、産業組合中央会が発行したミュラー著「スイス産業組合の過去、現在、未来」では、協同組合は統一的価値判断をすることはできない、組合員の社会的重要さによるべきであるとした。これは各種協同組合の統一に努めてきた中央会首脳部の方針に疑問を持たせるものであった。

  大正十四年、明治、大正を通じての偉大な指導者だった平田東助が死んだことは、新たな組合思想形成の機会を作った。

  産業組合中央会は大正末期には農業関係でも、新たな部門での協同組合が出ているのを知った。都市の発展から畜産、園芸の生産が伸び、戦後の不況対策として農業の多角経営が起こり、各種の小組合が共同事業を始めたし、農産加工資本は特約組合を組織してきた。農会その他の職業組合が販売、購買のあっせん事業を行った。産業組合中央会は大正末期に起こった不振組合整備の必要から、単位組合の役職員の経営思想を発展させることに努めるほか、信用組合的な平田の組合思想の転換を図らねばならなかった。

  都市の市街地信用組合があり、府県によっては信用組合連合会が大きな発言権を持ってきて、経営的に発展的な組合思想を要求しはじめた。また、都市の消費組合のうちで中間派の思想を持つ組合役員、学者、国際協同組合同盟を中心にした協同組合主義の主張を紹介しはじめた。

  農商務省が商工、農林二省にわかれたとき、同業組合の管理は組合の事業種目によってわかれ、産業組合と市街地信用組合は大蔵、農林二省の共管になったが、消費組合など他の都市産業組合け農林省に残された。明治からの伝統とされた官僚の立場からする思想善導のための統合、統一の思想の欠点が存続されていた。これは消費組合、中小企業信用組合に不利だっただけでなく、産業組合中央会の指導思想を不自当然な協同組合主義に導くことにもなった。

 3、大正期の新協同組合思想導入

  第一次世界大戦を契機に勤労者の自覚が高まり、各種の社会運動が起こり、普選運動、無産者政治運動が活発になった。これに対応して保守勢力は普通選挙を認めたが、治安維持法を制定して思想取り締まりを強めた。

  農民運動の発展から政府は一時、小作制度の改善について調査したが、地主勢力に反対されて、小作調停、自作農維持、耕地整理、流通改善などの施策をするにとどまった。

  これによって地主の地位は再強化された。このような政府の思想抑圧政策により、都市、農村の社会運動に分裂が起こり、労働者、農民の勢力を弱めた。社会運動は外部に対するより、相互間での対立を強くし、相互の理論研究を深める効果を生んだ。初期の社会主義や無政府主義の文献は、現実の争点となる性格を失っていた。

  西欧の社会民主主義的思想とソ連のレーニン主義の対立が中心であったこれらの動きは、都市、農民の協同組合思想にも大きな影響を与え、組合思想の発展を助けた。

  協同組合のうちで社会主義思想の影響を強く受けたのは、勤労者の消費組合であった。都市の消費組合といっても、明治の中期から続いてきた使用者側の立場を持つ会社、官庁の消費組合は、産業組合中央会に同調し、中には表彰優良組合として、経営を確立したものもあった。上層勤労者を組織する地域消費組合は協同組合主義の拠点となってきた。

  大正十二年に設立された消費組合連盟は、翌々年に関東消費組合連盟(生協)と改称し、三項の綱領を発表した。

  第一は営利主義に基く資本主義経済組織の改造だとしたが、資本主義の害悪が営利主義にあるとするのは、協同組合の伝統であって、それほど高度な階級運動の理論を持っていたわけでない。ただ、当時の用例として「改造」という言葉だけでも、保守派に敵意を起こさせた。

  第二の、無産階級運動と提携して目的を達成する、ということは、政治中立原則を否定したものであり、日本の協同組合思想に新生面を開いた。

  第三の、全国消費組合連合会を結成する、ということは、産業組合中央会、全国購買組合連合会が抱いていた、各種協同組合の統一政策と対立するものであった。このような主張を持っていては、政府産業組合系統から十分な支持を得られず、労働者の生活水準が低いので組合経営の安定を欠き、そのうえ国家の取り締まりを強く受けた。しかし、それだけに思想的、政治的意義は高かった。

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