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==(二)幕末農村の組合的諸組織==

 

(二)幕末農村の組合的諸組織

 1、三倉制度

  わが国において古くから三倉制度や救荒制度が支配階級や学者の間で研究され、実施されてきたが、徳川時代に至って飢饉などの救済政策として、荒政の必要が強く意識されることとなり、以下のような共済制度や備荒貯蓄の諸機関が各地に発生するに至った。これは「全く時勢がこれをもっとも熱望していたのが主なる原因」であった。

 2、社倉

  義倉、常平倉とともに、わが国古代に発生をみた三倉のひとつであり、義倉とともに協同的な備荒組織として知られている。社倉は多数の民衆が身分相応に金銭と穀物を共同支出し、居村の所々に貯蔵して自治的にこれを管理、凶作のときにこれを貸与または施与するもので、平年においても救済貸付けを行い、あるいは保蔵する米穀を貸与して利殖を図ることも行われた。徳川時代に各地に設立された社倉、義倉の直接の起因としては凶年を契幾とするもの、先覚者の提唱によるもの、幕府、藩主の下賜米や勧誘によるものなどがあり、その名称や組織も一定でなく、義倉との区別も明確でなかった。

 3、義倉

  社倉と異なり、有志者の義損によって穀物を貯蔵し、必要が生じた場合、窮民に給与することを目的としていた。一般に社倉にくらべ小規模なものが多かった。義倉の制度はすでに大宝令、賦役令により設けられていたが、その後廃止され、それが徳川時代に復活をみたものである。近世においては倉敷に設けられた義倉がもっとも早く、ついで米沢、津軽藩などに設立されている。社倉、義倉はともに維新後に廃止されたが、福山の義倉、秋田の感恩講などはその後も長く存続した。

 4、常平倉

  古代から存在した米穀貯蔵施設のひとつであるが、一般に常平倉は米価調節のため、米価の平準を目的として設立されていることに特色がある。なお、幕府が行った米価調整策においても、「買米令」「囲米令」「廻米令」など、米穀の供給を人為的に増減して米価の調節を因る政策が実施され、平常倉と同一の機能を持ったものが見いだされる。

  明治維新以後にもなお、米価の安定を目的として明治十一年に大蔵省内に常平局が設定され、明治十五年に廃局されるまで米価調節の役割を果たした。

 ※買米令 徳川時代に幕府が米価引き上げのため、江戸、大阪などの商人に米穀の買い入れを命じた法令。

 ※囲米令 徳川時代初期から幕府、諸藩または町村などで、備荒貯蓄、米価調節の目的で米の貯蔵を命じた法令。

 ※廻米令 徳川時代、諸国(生産地)から年貢米または商人米を江戸あるいは大阪に廻送を命じた法令。幕府は米価引き下げの必要があるとき、この廻送に制限を加えて米価調節を図った。

 5、郷蔵

  古代から租稲の収納庫として設立されていたが、徳川時代に至り、その制度が確立された。郷蔵は貢租米をただちに目的地に逓送することが困難な場合に、一時的に収納した共同倉庫であるが、同時に徳川中期以降には備荒備蓄を目的とする機能を拡大し、村または連合村による費用の共同支出に基く備荒貯穀用の共同倉庫としても重要な意義を持つに至った。

  郷蔵はその所有権から見ると、領主所有の倉庫、村全体の共同所有によるもの、領主と村との共同のものなどにわかれるが一般には地元民の共同による所有、防備が行われていた。

  郷蔵の名称は所在各藩により種々であるが備荒倉(仙台薄、加賀藩)根蔵(長州藩)陰徳倉(阿波藩)予備倉(紀州藩)恵民倉(富山藩)御国倉(小諸藩)などがその例である。

  郷蔵の貯穀は地方により一定しないが、東北地方ではヒエを主とし、西南地方ではモミが多かった。維新後、備荒貯蓄に当たり資金を貯えるようになってから、郷蔵制度は次第に衰退していったが、凶作の多かった東北地方ではその後も続いて今日に至っている。

 6、講

  講とは中世以来現在に至るまで各地に発生、発展をとげてきた。多様な組織を持つ共同組織であるが、その目的によって信仰的機能を持つもの、社会的級能を持つもの、経済的機能を持つものなどに分類される。幕末における諸集団は、近世の郷村制にともなって形成されてきた五人組の制度に起源を持つ地縁的社会集団として、組と類似の性格を持つものである。が、民衆支配の手段として農民の自発的意志に基く集団であり、幕藩体制下で農民は諸集団を組織することによって支配階級の圧迫に耐えてきた。

  前述のように講集団は機能の面から三つに大別できるが、信仰的機能を持つものとして山の神講、田の神講、日待講、参拝講などがある。また、社会的機能を持つものとして、同年講、老年講、遊山講、同行講などが上げられ、経済的機能を持つものとして頼母子講、もやい講、ゆい講などが指摘される。農村諸組合に関連するものとしては、とくに最後の経済的機能を持つものが主要である。

  頼母子講あるいは無尽講は、中世に起源する救済融通団体であったが、幕末に至ると庶民の金融機関としての利貸的性格も強化されている。一般に頼母子講は「特定な人や家の困窮を救済し、あるいは特定な事業に賛同し寄付を行う」ことを目的として設立されたが、対象になる人や家、または事業の発起人を「親」と称し、加入者は一般に講員と呼ばれていた。維新後の近代的な信用機関の育成後においても、在来の慣習をそのまま継承し、庶民の金融挽関として活用された。

 7、もやい講、ゆい講

  中世の農村内部に発生した協同労働や、労働交換を目的とする講集団で、このうちもやい講は農耕上の共同作業に対して活用され、一般に水田の共同耕作、道普請、橋普請、溜め池の構築などの共同事業に関する講集団である。

  これに対しゆい講は労働力の交換を条件とする労働慣行をとり結ぶ集団であり、幕末においては地縁、血縁関係を中心とする農業互助組合としての機能を持ち、部落内の農民はこの組合を通じて農繁期の労働力貸借、牛馬の貸借などを行い、農業経営各部門における能率を高めていった。

 8、報徳社

  報徳社の起源は二宮尊徳が文政三年(一八二〇)、小田原領において下級士族および一般民衆の救済のため、五常講を設置したときに求められる。天地の功徳を説き、勤労、至誠、道徳を中核として、一家一村の荒廃救助に当たろうとする報徳運動は、時勢に適合するところが多く、東海地方を中心に相模、甲斐、伊勢、河内など、各地の農民層の中に深く浸透するに至った。

  とくに遠州地方では弘化四年(一八四七)安居院義道が尊徳の仕法に基き、一社を組織したのを契機に、その後掛川藩の大庄屋岡田家を中心とする同地方の地主層の指導により勧業事業と、資金貸付業務を行い、漸次その組織を拡大していった。

  報徳社は報徳仕法の四大綱目として上げられる至誠、勤労、分度、推譲を根幹とした相互扶助の組合であり、経済と道徳の両立が強く要請されていた。

  分度とは「歳入によって歳出をはかることを意味し」推譲はさらに自譲、他譲にわかれ、前者は子孫のため、後年のため貯蓄を自己に義務として課すことで、後者は公共的慈善を意味していた。いずれも報徳主義の運用を示すものであり、その運用に際して至誠、勤労をもって当たるべきことが要請されるのである。

  報徳社の積金ほ、社員入社の際の加入金の積み立てによる善種金と呼ばれる一種の基本金と、社員の不用物売却金、篤志者の寄付金などからなる土台金で構成され、社員の善行褒賞、罹災者の救済、公共事業への投資などに使用され、別に報徳金の名称で貯蓄を行わせている。

  資金の運用方法その他は各地の報徳杜により相違していた。小田原藩の復興をはじめ、桜町・青木村・烏山・大磯・韮山・下館・日光・相馬・駿遠地方など、六百余力村に達するといわれている。

  尊徳はその教説の中で「天理と人道とは格別のものなるがゆえに、天理は万古変せず、人道は一日怠ればたちまちに廃す」と述べ、無差別的、自然的な天道に対して、差別的、人為的な人道を対置させ、道とはすぐれて作為的、実践的な道であるべきことを明らかにしている。

  尊徳のこのような作為的秩序観は農業生産の場において、自然の力の前に人間の努力は全く無力であるとする考え方を改めさせ、勤労と創意による人為的、積極的な道を案出し、自助独立の積極的な勤労主義思想をうち出すことを可能にした。

  報徳杜による農村組合運動は、幕末の政情不穏と農業荒廃の過程にあって、人為的、主体的な努力によって障害を克服していこうとする、現実の生活から芽生えた農民による創造的な営みであったが、その運動はあくまでも封建制度の枠組みの中で行われたものであり、封建体制の維持と確立のため重要な意義を果たすこととなったところに、報徳主義運動の本質が見いだされる。

  報徳社は幾多の後継者を得、とくに維新後になって、時代的要請と相まって、大いに拡充されることとなった。中でも岡田良一郎を指導者とする遠州地方の報徳社運動は、同地方を中心に漸次組織を拡大し、明治八年に遠江国報徳本社を設立、明治四十四年には社名を大日本報徳社と改めて今日に至っているが、わが国産業組合の創設に当たり、報徳社の事業は大きな影響を与えた。

 9、先祖株組合

  大原幽学の指導に基き、天保年間(一八三〇~一八四四)に下総国香取郡長部・諸徳寺・幡谷・荒海の四ヵ村を中心に設立された一種の貯蓄組合制度である。

  幽学は主著「微味幽玄考」で「誠はわれ一人にてなるものにあらず。いわゆる人に渡りてもって成るものなり」と述べているが、彼の場合、誠の道は一人一家の範囲に限定されず、社会性を持つことによってのみ存在することを主張するものでありこのような思想的背景のもとに村単位の貯蓄組合運動が展開された。

  すなわち天保七年(一八三六)から彼の指導によって門人達が、年二百文を無期限に掛け続けて共有財産を作り、これを利子付きで貸して、講中の不幸に備える子孫永々相続講という組織を作ったのである。これは天保九年(一八三八)に至り、その延長として村単位ごとの門人の農地出資による先祖株組合に進展した。これは幽学が村々を巡回して、門人達に設立を促した結果によるもので、「先祖面」すなわち、所有農地の一部を出資して組合がこれを不動産として管理し、その土地を小作に出し、小作料の積み立てを図ることを目的とする一種の貯蓄組合制度である。つまり「道を履む」とともに「家株」の持続を図ることが考えられ、経済と報徳の両立が企図されていた。

  とくに注目を要することは、幽学の事業が先祖株組合という共有財産制度を手段として農民たちを族縁的なきずなから解放し、同一の価値体系に従って行動する良民を、村単位でまとめ上げる方向に進んだことであろう。ことに長部村においては村ぐるみの組織化が実現した。

  幽学の指導は農業生産技術にもおよび、有志の協同労働による耕地整理事業にまで到達したのであるが、当時の農民指導の限界を越えた発展が幕府の忌避するところとなり、安政四年(一八五七)先祖株組合は解散を命ぜられ翌年に幽学は自刃した。彼の没後、この農村組合事業は不振に陥り、維新後明治十三年頃になって地株の多くは組合に復帰したが、長部村における共有地は長く維持された。

  以上のように幕末においては、各種の農村組合が存在し、それぞれに重要な歴史的意義を持ったが、維新後に至り現物経済組織から資本主義的貨幣経済組織への転換が急速に進み、近代的な信用事業や交通機関が完備すると同時に、中央集権的な政治体制の確立、地方行政制度の整備などにより、かつての備荒貯蓄の必要性が希薄となった。また、自然村の崩壊により、旧村落単位に編成されていた各種の組合事業が、その基盤を弱体化されるなどの事情により、幕末期の農村諸組合の多くは衰退し、あるいは再編成を余儀なくされていった。

  しかし、この中にあって報徳杜の活動は、伝統的な家族制度を維持すると同時に、いわゆる備荒貯蓄を通じて、潜在的な蓄積力を本社に吸収し、事業資金の確保を可能とする、もっとも効果的な貯蓄形式を確立しており、明治中期以降の信用組合事業の育成に、多大な示唆と刺激とを与えることになった。

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富奥郷土史