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==(二)産業組合法の制定==

 

(二)産業組合法の制定

 1、産業組合法案

  産業組合法制定(明治三十三年)直前の時代は、日清戦争以後、日本資本主義が急速に発展し、一方で農村経済が資本主義経済の浸透によって急速な質的変化をとげ、一般産業界における発展の基礎がようやく定まり、社会的矛盾の顕在化、労働運動の発生、社会主義思想の輸入、共鳴とともに社会問題がクローズアップされてきた時代であった。

  第二帝国議会において信用組合法案が流産して以来、その研究は農商務省に移されていたが、明治三十年、産業組合法案は再び社会的要請のもとに脚光を浴びて登場してきた。

  この立案に当たってはドイツの協同組合法案を参考として、地方長官や当時すでに設立されていた協同組合当事者の意見が参考にされた。

  初めはドイツの組合法の訳語を用いて、生産および経済組合の用語を用いたが、明治三十年に至って「産業組合」の名称を採用した。その理由は名称が長くなって一般の人々におぼえられにくいのでそう命名したのであり、第十帝国議会(明治三十年二月十五日)に第一次産業組合法案が提出されている。この間信用組合法案は第七~第九帝国議会に提案されながらいずれも会期切迫の理由で審議未了となっており、明治三十三年二月に第二次産業組合法案が上程されるまでの間に全国では県農会が四十二、郡農会が五百、町村農会が八千余組織されていた。

  農会はその政策の中に早くから産業組合の組織の促進をとり入れていた。当時、産業組合はまだ連合会組織がなかったので全国農事会が産業組合の中央組織の役目を引き受けていた。農会法は産業組合法に先んじて明治三十二年の第十三回帝国議会において可決され、明治三十二年六月八日公布、同三十三年四月一日から施行された。それは産業組合法の制定を促す有力な刺激となった。

  明治三十三年二月上旬、政府は第二次産業組合法案を第十四帝国議会に提出、法案は二月二十九日の衆議院本会議に提案された。その時の内閣は、わが国最初の政党政治である憲政党の大隈内閣(内務大臣は板垣退助で隈板内閣と呼ばれる)が明治三十一年十月に憲政党内部分裂で瓦壊したあとの第二次山県内閣であった。

  この間に想起したいのは、最初の信用組合法案を第二帝国議会に提出した品川弥二郎子爵を、当時の松方内閣内務大臣に推薦したのが山県有朋公爵であったということである。

  産業組合法案が上程された第十四帝国議会当時、品川弥二郎子爵は重い病気の床にあり、法制局長官の平田東助伯爵は貴族院に議席があった。法案が議会を通過するや平田伯爵はさっそく品川子爵を訪れてその結果を報告したが、品川はすでに意識不明の重態にあり、その日に逝去した。

  産業組合法は明治三十三年三月六日公布、同年七月三日施行規則公布、同年七月十二日に勅令をもって施行期日を明治三十三年九月一日と発表された。

  このように産業組合法は品川、平田の二人によって、新興ドイツに学んでから三十年、同法案が初めて帝国議会に上程されてから十年、第一次法案上程から四年の歳月を費し、農業界や農民、労働者のための法律として歓迎を受けながら生まれたのである。

  産業組合法はこのように多くの年月と、多難な経路を経て制定され、品川、平田、農商務省の先人達の努力に負うところが多かったものの、法制定を待って許可を受けたものは明治三十三年度中に新設されたわずか二十三組合であった。

 2、産業組合法の改正

  明治三十年の第一次産業組合法案では、信用組合の販売、購買事業の兼営が認められていたが、明治三十三年の産業組合法では、産業組合が信用事業と販売、購買などの経済事業を兼営することは間違いをおかしやすいということで、信用事業の兼営が認められないまま、法の制定が行われた。信用事業の兼営がようやく認められたのは明治三十九年の第一次改正のときで同四十二年の第二次改正では産業組合連合会、産業組合中央会の設立も認められた。この頃になると石川県内、とくに石川郡にも産業組合設立の動きが見られてきた。

  産業組合は明治三十三年の産業組合法制定から明治三十六年にかけて、人々の理解が十分でなかったにもかかわらず、その数はかなりふえていった。とくに、明治三十七、八年の日露戦争以後、第一次世界大戦に至るまでの間は、産業組合中央会、産業組合連合会の設立と相まって急速に発展した。大正三年の組合総数は一万一千百六十組合で、全国町村数の九〇%を占め、その組織は主として農村で伸び、組合員の大多数は農業者であった。

  その頃は一般的、社会的、経済的情勢や地方の事情により、発展の状態は異っており、大正三年の全国都道府県中の総戸数に対する組織率は別紙のとおりである。(第二次大戦後、当地の農業会は解散し、産業組合法による信用組合は信用金庫法により、信用組合として現在に至っている)

  産業組合設立の動機は千差万別だが、そのおもなものとしては、先覚者の熱心な勧誘、奨励、地方産業経済の救済、地方経済の近代化などが上げられる。

  産業組合は農村および中小企業の救済対策として受け入れられた。とくに日清戦争以後わが国においては、資本主義の弊害が表われ始めて貧富の差が大きくなってきており、日露戦争のあとは資産家、資本家と中小企業、農業者の格差がさらに大きくなったため、当局の指導もあって明治三十九年から飛躍的に増加した。

 3、産業組合中央会の設立

  明治四十二年に産業組合法の第二次改正が行われ、これによって産業組合中央会が翌四十三年十月に創設され、産業組合の指導体制ができた。初代会長は平田東助氏で、中央会の目的と事業は、産業組合および産業組合連合会の普及、発展、連絡を図ることに置かれた。

  また、この第二次改正によって産業組合連合会の設立も認められ、明治四十三年に全国で十三の連合会が設立されている。その後、地方連合会の数も年ごとにふえて大正二年には五十二を教え、種類においては信用組合連合会が多数を占めた。

  このようにして中央会の指導のもと、わが国の信用組合連合会、販売組合連合会、購買組合連合会が相ついで設立された。

 4、大正期の産業組合

  明治後期における農家経済への商品経済の浸透は、大正期にはいっていっそうその傾向を強めていった。

  大正三年七月に勃発した第一次世界大戦は戦争局外者としての位置に置かれた日本の資本主義に、広範な海外市場と未曽有の好況をもたらした。だが、大戦開始によって一時は暴落した米価などは、大正四年秋には回復、同五年からは上昇の一途をたどった。市場における農産物価格の上昇は、農村の地主、自作農上層部に収入増をもたらしたが、広範な下層の自作農、小作農層には関係のないことだった。

  一方、都市においては米価の高騰が勤労者の家計を圧迫し、大正七年には全国各地で米騒動が起きている。

  第一次世界大戦が大正七年十一月に終わると、同九年三月には株式の大暴落が起こり、これに端を発した恐慌は米価などの暴落を通じて地主にも打撃を与えた。が、それはとくに高率の小作料をとられていた小作農に大きな打撃を与え、大正十一年以降、せきを切ったように小作争議が起こり、それが拡大し、組織化されていった。

  政府は農業保護政策を米価対策、農地対策、金融対策の面で展開し、大正十二年の第四十六帝国議会で「農村振興に関する建議案」を示した。この政策展開により、産業組合はきわめて重要な位置を与えられ、全国機関の設立によってその制度化が急がれた。

  第一次世界大戦後の政府の農村施策として米穀政策はきわめて重要な位置を占めている。

  大正六年には米価調査会の建策により農業倉庫法を制定し、産業組合、農業会などの公益法人に限って農業倉庫の経営を許可している。また、大正十年四月には「米穀法」を制定している。

  政府の米穀政策実施にあたり重要な意味を持ったものは農業倉庫である。農業倉庫法は大正十五年に改正され、受証物の範囲が穀類、マユ以外の指定農産物に拡大され、産業組合連合会による連合農業倉庫の経営が認められた。

  従来は産地保管にとどまっていた農業倉庫が、集散地、消費地保管にまで拡大され、農業倉庫を政府米保管倉庫に指定したため、農業倉庫の重要性が高まった。

  大正十年頃には農村産業組合はいちおう全国的に組織が普及されていたが、内容的には単営組合から四種兼営への発展、部落単位組合から町村単位組合への脱皮ということであった。

  大正六年七月、産業組合法の第三次改正は単位産業組合の区域を町村とする改正により一町村一組合主義の趣旨を明らかにし、法改正とともに産業組合の規模拡大をもたらした。

  このように組織拡大とともに、全国的に町村単位産業組合の設立を見たのは、明治三十三年の産業組合法発布以来のことである。

  大正期には信用、購買の二種兼営もしくは販売を加えた三種兼営の産業組合が多かった。しかし、四種兼営が主たる形態になるのは、昭和の農村恐慌以降のことであった。

  大正期において農村産業組合の設立基準は一町村一組合、四種兼営の形態に置かれるようになり、今日見る総合農協の原型は、この時期に培われているといえる。

 5、府県産業組合連合会の設立

  明治四十二年の産業組合法第二次改正は、産業組合連合会の契機をなすもので、大正期に入って連合会の設立がようやく盛んになった。大正二年には四十七組織、同七年には九十七組織、同十二年には百九十組織に達した。

  大正十二年現在における連合会の内訳は府県連合会五十四、郡連合会百三十六である。また、府県連単位の単位信連は三十二、兼営信連は十六で、信用事業連合会はこの時期にすでに府県一円に達していた。

  購買事業連合会は信用兼営百五(うち県連六、都連九十九)で、多くは都連として成立したものである。これを経過的にみると、第一次世界大戦前後の産業組合連合会の設立は、郡連から県連への傾向である。

  大正六年の産業組合法第三次改正では、単位組合を市町村組合に、連合会を府県単位とする改正であり、府県の指導のもとに郡連の統廃合と府県連設立がすすめられた。

  また、一方で単位組合の借金組合から貯蓄組合への発展にともなう、資金需要調整畿能拡充の必要から、郡信連の統廃合を推進したものとみられる。

  購販連も米穀、肥料など、流通機構上規模拡大の必要に迫られ、全販連、全購連の成立にともない、郡連を県連に統廃合した。

  信連についで購販連も次第に府県連への統合に進み、産業組合系統の構成の変化とともに、産組中金、全購連、全販速の成立を契綾として、貯金、米穀、肥料を骨格とし、全国連、府県連、市町村産組という系統三段階制は、大正末期から昭和初期にかけて整備され、いわゆる系統組織が完了した。

 石川県の各連合会の設立時

 石川県信連 大正十年

 石川県販購連 大正十二年

 石川郡販購連 大正九年(大正十二年に県連に吸収)

 

 

 

 

 

 

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