[part1]
一、信長の加賀国平定
五百有余年間、加賀国を支配してきた富樫一族にかわって、本願寺が支配権力を伸ばすに至ったところに一向一揆の特異性がある。しかし、一向宗が尾山御坊を中心に本願寺の支配態勢を固めていた頃、既に足利幕府も衰退をたどって世は戦国の渦中にあり、寄り合い合議制、志納金など本願寺の施策などはもはや通じなくなっていた。戦国大名中、群を抜いて天下統一の野望を進めて来た織田信長は、まず、案外執拗な一向宗集団の本願寺撲滅を図り、元亀元年(一五七〇)石山本願寺に攻撃を加え、天正元年(一五七三)越前の朝倉氏を滅ぼして、加賀国に対し柴田勝家、佐久間盛政を向かわせた。一方、北越の雄者上杉謙信は既に越中を攻略し、「越山併せ得たり能州の景」と吟じた七尾城を陥れ、その勢いに乗じて松任の鏑木氏を攻めるために太平寺に陣を張った。この両雄相撃つ戦乱の巷、あわやこのわが郷土も焼土と化すかと思う矢先、天正六年(一五七八)、謙信は陣中に急死してしまった。そのため織田方の将勝家、盛政は容易に加賀国平定が出来た。この時三林郷の大豪士三林善四郎父子は苦戦の果て、無念にも戦死し、その他国内の首領の豪族も多数勝家、盛政の卑怯きわまるだまし討ちで倒れた。もちろん、尾山御坊も焼き打ちされ、とくに一向宗徒に対しては先入観による警戒のためか、いたる所で、放火焼き払いを行った。鞍嶽に籠城した新庄村の杉谷四郎左衛門も遂に盛政のため焼き打ちされた。郷土の善良な百姓衆は、あの一向一揆における強力な抵抗を示さなかった。平和な世を願望する百姓衆は決して織田軍に心服したわけでなく、無駄な抵抗を避けたにすぎないと考えられる。古老の伝承の中に「仏敵信長、鬼玄蕃」の呼称を絶えず耳にしたことを幼な心にも覚えている。約百年間にも及んだ本願寺の加賀支配も終わり、織田氏に継いで豊臣の桃山時代を経て、徳川の天下とともに加賀藩の時代を迎えるに至った。
二、前田氏の加賀藩創始
前田利家は尾張国荒子の豪士利昌(一書に利春)の子として美濃国安八郡前田村で生まれた。天文二十年(一五五一)初めて信長に仕え、小禄であったが、信長の勢力拡張とともに次第に加禄を重ねた。石山本願寺を落として加賀を掌中に収めた信長は、天正九年三月(一五八一)、利家を能登と加賀の国境の要地羽咋の菅原村に配した。さらに豊臣の代となり、天正十一年(一五八三)、初めて金沢に秀吉を迎えた利家は、遂に河北、石川の二郡を加増され尾山城主となる。さらに佐々成政を打ち破り、加越能三州に及ぶ百万石の糸口を築いた。秀吉の死後、徳川対豊臣間の混然とした情勢の中で慶長四年(一五九九)、利家は六十二歳で嫡男利長に後事を託して世を去った。前田姓は出身地の村名であろう。また、家紋の剣梅鉢は利家が初めて羽咋の菅原郷に入部したのに因んだと称せられている。この菅原村は天満宮の荘園領であり、天満宮を勧請して鎮守とされていたが、利家はこの天満宮を崇拝していた。菅公の梅花と武士の象徴の剣を配し、剣梅鉢としたらしい。一説には遠く菅原道真の後裔であるともいわれているが明確でない。
利家は加賀薄の基礎を築き、波乱万丈の戦国を乗り切って去ったが、二代利長はその翌年天下分け目の関ヶ原合戦を迎えた。利長は父の遺業を継ぎ、混迷の世を巧みに渡り通した。家康の江戸幕府創設、封建体制の強化にともない各藩主は将軍と主従関係の下で藩政に対処するいわゆる藩政時代を迎えた。加賀藩は利家、利長父子の偉業が徳川の天下に多大の功績があったとして、遂に加越能三州百万石(表高百二万石、幕末には新開田を加え百三十万石余と称す)の大藩となった。外様大名でありながら、歴代よく禄高をくずさず、十四代を貫き通して来た。この加賀藩の治世の流れを眺めると、藩祖利家、二代利長は全く藩成立の創業に終始し、三代利常、四代光高、五代綱紀の歴代は藩政固めから藩制の確立に尽くした時代と見ることができる。
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