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==第七節 藩政のおわり==
一、藩財政の窮乏
加賀百万石の大藩だから、将軍に次ぐ豪華な財政だったろうと思われ勝ちだが、その内実を調べてみると決して余裕どころか、苦しい財政であった。石林氏の石川百年史によると、まず藩の草高は明かでないが、藩末十四代藩主慶寧より朝廷に提出された調書では、百四万六千四百八十八石となっている。定免は高低平均三ッ九歩として、収納は四十万八千石、口米、夫銀、その他の雑税を加えて実収納六十三万六千八百七十六石と算定する。また家臣の知行米、扶持米、切米(不作等により税額を切り下げた額)などを引き去ると、実質藩主の取り分は十九万一千五百四十二石となる計算になる。すると藩主は十九万余で藩主自らの生活と藩政を切り盛りしていかなければならない。即ち、藩主の私生活、藩内土木事業の助役(すけやく)、江戸屋敷、参勤交替、幕府御用金割り当てなどであり、藩末に至るにつれ、だんだん格式や百万石大藩の体面上の高揚、生活の高度化、御用金割り当ての増大などのため藩財政は窮迫し、豪商からの借入、藩札の増大、家臣からの借知(知行の支給を削ること)など窮乏度が高まる一方で、これがまた、年貢米収納の弾力的操作の欠除となり、結局は百姓の生活を圧迫するようになった。
二、災害と百姓一揆
このような藩財政のしわ寄せに困窮する百姓の身辺に、さらに不作、凶作、災害、病虫害発生、疫病流行などの災禍が連続して迫った。大飢饉と称するものでも享保、天明、天保と続けさまに百姓に迫ってきた。窮地に陥った百姓は強訴を重ね、遂に打ちこわしの一揆沙汰に及んだ。それも度々続いたのであった。この百姓一揆や打ちこわしは藩政の間、大小合わせて五十二件にも達している。現在残されている碑や記録を拾っても、郡内で顕著なものが二件もある。
曽谷村の義民太郎左衛門
西念村の天保義民の碑
また、一揆や打ちこわしは石川郡だけで十一件にも及んでいるが、詳細な記録はない。しかし、このような騒動は火山の噴火のように全山鳴動激しく、その一頂点が爆発噴火するのと同様、近隣の騒動勃発に対して、この地域だけが平穏無事であるわけがない。ただその先鋒に立たなかっただけで、必ずその余波があったと考えるのが至当であろうが、なんらの記録も見当たらない。
三、大政奉還
以上のように加賀藩はその内政面においても既に窮迫しており、同時に藩外の大勢は着々王政復古に傾き、遂に慶応三年、将軍慶喜は大政事還するに及んだ。天正十一年、前田利家が初めて尾山城主となって以来、十四代藩主慶寧に至るまで二百八十余年間にわたる藩政治下の加賀国支配は終わった。