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==第四節 田地割と新開田==
一、切高、取高
前記第二節、村支配の意図の項で記したように、百姓を取りまく山川草木はこれみな藩主の所有物であり、百姓の耕す田畑ももちろん百姓の所有でないと考えるのは、遠い古代からの封建社会の通念であった。従って、百姓は預かった田畑を売買すべきでないとの根本的趣意から、江戸幕府が「田畑永代売買禁制の布告」を出した寛永二十年(一六四三)に先だつ二十八年前の元和元年(一六一五)、既に加賀藩では時の藩主利常が次のような「田畑及人身売買禁令」を発している。
加賀藩田畑及人身売買禁令
一、今より以後、御公領分、給人地によらず、田畠売買は堅く御停止の事。(以下省略)
元和元年十二月二日 横山山城守
奥村河内守
本多安房守
しかし、この田畑は百姓が生命をつなぐ生業の手段として耕作しているのだから、凶作不作の際、苛酷な年貢の取り立てに耐えず、さらに生命保持のためにはその預かる田畑の耕作権利でも売るより方法がない。また、改作法以前に藩は年貢未進の百姓の田畑を引き上げる制度をつくったが、結果は同様である。だから禁令であるが実際には売買同様の事態が起きていたのであった。ただ、所有権のない田畑だから、売る、買うのことばを使わず、切る、取る、の語を用いた。即ち、高は田畑の畳だから、切り高、取り高と称したのである。また、この切り高を田分(たわ)けとも称し、身持ちの悪い百姓が田分けすることを「たわけ者」と罵倒するようになったという説もある。ともかくこの土地の売買移動は百姓の貧富の差を助長する弊害や、百姓間の争いを引き起こす原因にもなる。禁止すれば無理が生じやすく、結局、藩では元禄六年(一六九三)土地売買を許す「切高仕法」を制定した。以後は能力ある頭振りは高持百姓に公然と出世し、また、百姓の二、三男でも取り高して高持ちになる者が多くなった。この切高仕法は一面高の移動で、土地問題の紛争もあったが、持ち高の適正化にも役立ち、終戦直後の農地解放に類似する施策でもあった。また、当時各村で戸口の出入りがあり村の戸数に変動があったのは、二、三男の新宅ばかりでなく、入り百姓として他村から田畑取り高して新しく村人りする百姓もあった。明治以後は不在地主の前身とも見るべき掛作百姓(他村の田畑を所有して耕作せず、小作田とする者)も出来るようになった。
二、田地割と万歩帳
今も昔も一村地内の田畑には、上田と下田、作りやすい田と作りにくい田の区別があると同様、個々の百姓の耕す田も種々雑多である。しかし、年貢の基本となる免は村一率であり、結局、各百姓の年貢高は甚だ不公平な取り立てとなり、とくに数年の長きにわたるとその格差は多大なことになるので、藩では寛永十九年(一六四二)から各村ごとに、個々の百姓の田地を相互に一定の期間交換するようにし、これを改作法に織り込んで「田地割」の法として実施させた。即ち、上田と下田を組み合わせた組を幾組かつくって、くじ引きで割り当てる方法であった。その実例として下新庄から記録文献が発見されたので、その記事内容を次に掲げよう。この下新庄の田地割が実施されたのは、既に新政府により地券が発行された明治十五年三月であることは、他村に類例の少ない特筆すべき資料であって、しかもその田地割の方法様式は藩制時代実施された方式の延長と見られる。
まず、田地割定書の最後に記された「一村決約書」は当時の地租改正に満足せず、村人協議のうえ独自の税集納を決約したものであり、法による徴税法に優先する決約書の強力な面がうかがわれる点で、貴重な記録文献であろう。
一村決約書
右者今般地租御改正ニ相成候ニ付、一村人民之都合により夫々協議ヲ決シ銘々持地等級之上下ヲ論ゼズ并ニ地代価之高下ニ不拘旧軍高ニ当テ地租金并ニ地方税等諸費之儀地価地租ニ当テ集納之金額ハ石高割ヲ以テ取集候之極メ依而定約書記載備置候之事。
一、本田并ニあれ地之儀当村歩当定メより過之人々者裂地切渡可致其地所ニ当テ請地之名称ヲ万歩帳表ニ顕シ置卸人之都合次第ニ切換之極メ定約可致候附而ハ前訳書ニ請作人一□連印可申候依而為後日約定書備置候如件
一、宅地之儀ハ石高ニ付居屋敷歩当リ定メより過之面々者請地可致事ニ相成候得共不足之銘々江請地定約書更ニ壱通運印ヲ以テ指入置可申候依而為後日右書村役人方ニ備置可申候事
一、惣田惣畑之儀わ銘々新券状ヲ所有ストモ一村共有地ト相心得可申事
右之条々一□承知之上約定連印如件
明治十五年午四月
村上安兵衛
(以下十九人名略)
右如此ニ候也
明治十五年四月 村用係り 谷 九郎兵衛 印
筆算 福田 篇次 印
旧万歩更ニ改帳左ノ如シ
明治拾五年三月
田地割定書
草高定免六ッ弐歩
一、四百拾七石 下新庄
一、打立竿 曲尺六尺八寸之事
一、□数 拾四本但シ壱本ニ附三捨石ニ相定可申事
一、前引之儀ハ高捨石ニ附三百五拾歩宛引可申候 次ニ弐番引弐百五拾歩宛引可申候事、但シ壱銘ニ付五歩迄之引過可用捨候
右以上之引過者切渡之極メ可申候事
一、蔭引之儀ハ領境南竿目五歩東三歩西北共々弐歩村之西北五歩東南三歩宮蔭同様之事
一、野作通道幅竿目五歩宮道有成三昧道七歩其外道有成之事
一、道縁畦のり付之所者裏よりのり付不相成事
一、領内川江筋等有成ニ仕崩所等有之候ハバ其所ニおゐて見図り相定可申事
一、居屋敷地高捨石ニ附七拾六歩八分五厘宛但シ其余過之入江者切渡可致極メ之事
一、江指之儀ハ日裏附ニ相定可申事
一、架場畔高捨石ニ附五間宛ニ相定木呂川縁木苗等定置事不苦其外木立不申事
一、新道新江之儀ハ竿目五歩新畦竿目三歩ニ相定可申事
一、所々石塚日裏之田ニ附可申事
一、道両川縁木苗等ハ左右之田ニ振分ケ可申事
一、六万弐千歩八分 本田打立歩数〆
一、三千弐百五歩 屋敷地惣歩〆
一、弐千四百拾五歩六分あれ地惣歩〆
御高捨石当り之條々
一、百四拾八歩六分八厘三毛本田当
一、五拾七歩九分三厘 あれ地当
一、七拾六歩八分五厘 屋敷地当
一、四歩五分 無地割当〆
右者今廻一村協議之上旧万歩帳ヲ取消更ニ新法ヲ設其名称本田惣歩宅地并ニあれ地無地夫々次末調書之儀者帳末々顕シ置可申候事(以下省略)
このような田地割はどの村でも毎年実施されたものではなく、十数年ごとの一定区間に割り替えを行った。割り替えによって各人々の持高地所が決定し、それを記帳したものが万歩帳、または人別持高品々帳、草高免附品々帳、御田地持高歩帳、単に高帳と称せられるもので、毎年最も肝要な年貢上納の基本になる重要書類として、肝煎が保管していたものである。なおこの田地割の制度は藩制後の明治五年に廃止になって以後は石高による徴税法を改め、六尺三寸(十九年より六尺)四方を一坪とする土地面積を基本に地租税法が改められ、土地所有権の地券が発行された。
三、新開田
村御印の草高の下に「内〇〇石明暦二年百姓より上るに付無検地極」とある。これは、「手上高」と祢するもので厳重な検地後において百姓の努力で田畑の畦畔や、不毛の荒地を開いて「新開田(しんがいだ)」を作ったものであって、検地による草高に加算することを百姓から自発的に申し出たから、さらに検地するまでもなく草高更新を決定したものであるとの意味である。しかし、実際は藩からの命で、出願した形式をとったものらしい。このほかに「手上免」というのもあった。これは百姓の技術と努力で下田を上田に上達させたもので、税率が高くなるのをいう。村御印の定免の下に「内〇歩〇厘明暦二年より上る」と記されている。反対に検地が苛酷で実情に合わない村は低率に引いたものもあった。この新開田については藩ではとくに奨励し、手上高に対する年貢米は、上納を一ヵ年または二ヵ年猶予するなどの策をもって、少しでも年貢米の増加を図った。
しかし、実際には手上高として表ざたにしない新開田も相当あったらしい。隠しごとやへそくりを「シンガイ」「シンガイモソ」と呼ぶ当地の方言などの起因も、新開田が発祥だとの説もある。供米が農村の重大使命の頃、山村などの新開田がやはり問題にされた。なお、藩ではこの新開田施策として押野村十村太兵衛や安兵衛らの尽力で、長坂新村の新開村を成立させた。この新開村へは中林村の某、新庄村の某の名も記されている。
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