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第五章 藩政時代
(第三節 改作法と税制)
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==第三節 改作法と税制==

 

第三節 改作法と税制

 一、改作法制定の動機

  慶長四年、利家がまだ藩内政はもちろん、天下の統一定まらないうちに世を去り、利長の代に至ってようやく関ヶ原合戦も終わってから、江戸幕府の創設とともに藩の内政固めに着手した。しかし、利長の在世中において「改作法」は容易なことではなかった。税の根源地である所領も、加越能と三州の広範囲にまたがり、農政の最重点である検地の施策も急務でありながらすぐに着手出来なかった。即ち、利家以来譜代の老家臣の高禄者や、領土拡大に伴う家臣の漸増、大藩としての江戸表の面目にかかわる消費など決して容易な財政ではなかった。一方、数多くの禄高給人の家臣の慾望の果ては、結局その采地の百姓にしわ寄せされ、作りの豊凶も勝手な検見で、「しぼればしぼるほど」とか弱い百姓はますます苦境に陥るばかりであった。このように給人達の年貢取り立ては個々に雑多であり、実に不公平であったので、時には再生産に事欠く百姓も多数生まれ、農政の確立どころか旧習の延長悪化すら見られるようになった。三代藩主利常の代に至り、諸施策遂行の機運を迎えるに至った。利常はその才に恵まれ、意慾的に遺制改廃、充実に取り組んだ。その施策の一例を見ると

   武家奉公人確保と逃散百姓取締り令

  慶長二十年(一六一五) 二月一日切

  逃散し候の百姓は、御分国中にかくし置き候の儀、甚だもって曲事となすペし。向後、村々と代官、給人として相改め、一切かかえ置かざるように申し付けるべし。もし、この旨に違背せし者においては、代官領主は御改易なさるべし。宿主の儀は死罪を行わせらる。村中の屋別に前々の如く召し上げらるべし。ただし、地頭、代官にかくしかかへ置き候については、御せんさくを遂げ、当村の肝煎は御成敗されるべきこと。

  逃散百姓とは重税などのため、生業に安ずることが出来ず、村を逃げ出して、他国の島ぐらしや金山に行き、安住地を求めようとする百姓のことで、この取り締まりは実にきびしかった。即ち、かくし置いた場合、代官領主は改易、宿主は死罪、肝煎はとらわれるのである。このような逃散百姓が出ないような、農政の主軸となるべき抜本的施 策が必要であった。

 二、元和検地

  利常の施策で最も適切であり、最も力を注いだ顕著な農政は「改作法」の制定である。この改作法の制度は加賀藩制の続く限り、その大動脈として貫き通されてきた。単純に百姓からの搾取施策であると考える先に、このような統制的施策がなかったら、かえって農村の混乱はさけられず、結局弱い百姓の苦境を招いたことであろう。まず、この制度の基礎ともいうべき基本調査は、検地の実施から始められた。即ち、元和二年(一六一六)から実施されたから元和検地と称されている。その検地役衆に示した「元和検地条令」を見ると

   定

 一、今度の検地、田島一反について三百歩宛、相違無きように打ち渡すべく侯。江川道以下は、此れ巳に前の如く相除くべき事。

 一、畠方折之事、上中下により相究むべき事。

 一、去年、当年新開之地、打ちわけ帳面にしるし上ぐべきに候。並びに長く不作は同前の事。

 一、蔵納め方、在々所々田島の立毛、上中下に見積り、有来候の年貢米相違の在所これあるにおいては、この度穿鑿(せんさく)を遂げ、相究むべき事。

 一、田畠の境目ふみ隠し候の百姓これ有るについては、急いで成敗すべく候。もしこのたび隠し田の地これあればあきらかに申すべく候。褒美として隠し田地の年貢米一作分を訴人に遣わすべく候。その上踏み隠し候の百姓家屋敷は行々宛て、後年迄肝煎申し付けるべき事。

 一、検地の者共は為すままにすべく候。但しざうし、薪、馬の糠(ぬか)わらは在所より出すべきに候事。

 一、下々に礼銭、礼物取り申さず候様に申し付くべく候。もしみだりの儀これ有る者については、侍、小者によらず、親類ともに成敗すべき候事。ついては、礼物を出し候の百姓は同罪になすべき事。

 一、検地の者共、荷物もたせ候の人足、伝馬の儀は、村づたいに召し連れ申すペく候。その跡に乗馬一疋宛、その在所よりやとい申すべく候。このほか下々みだりに馬に乗り候事これ有るまじき事。

 一、在々所々小物成相改むべき事。

 右条々もし相違うの儀これ有る者は、面々越度と為すべき者也。

    元和二年六月廿日

      御検地衆

  以上の条文を考察すると、元和検地の特色としてあげられるのは、

 一、きびしい検地条令に基づき、細かく検地もれ、隠し田、荒地起返(回復田)、新開田を全部登録し、村の当高、引高すべき地目とその石高、その物成を列記した打渡状(確認通告状)を下付して、不動の基本を固めた。

 二、検地は一村単位に行い、村ごとの頁租制の確立と、村肝煎の任務を明らかにした。

 三、扶持百姓の整理、十村の義務権限を明確にし、組裁許十村の役料を鍬役米にした。

 四、夫役、小役を廃し、物成百石に対し百四十目の夫銀徴集を制度化した。

  以上、元和検地は古来からの検地にくらべ、実に入念に細部にわたり、水ももらさぬ綿密な、しかも罰則を規定した厳格な法令の下で実施された。石川郡内で初めての検地について、石崎謙氏の史考に

  天正十一年(一五八三)八月十七日付、石川郡専光寺村の「村々歩附帳」に大半小歩を載せ従来の一段は三百六拾歩が三百歩に更正されたのが知られる。

 と記されている。天正十一年頃は信長にかわって秀吉が天下統一に奔走する最中の頃で、前田利家が金沢に秀吉を迎え、河北・石川の二郡を加増されて尾山城主となった年である。

  この元和検地は最初に石川・能美・河北が元和二年(一六一六)に施行され、順に能登方面は同六年に及んでいる。

 即ち富奥の十四ヶ村とも元和二年に惣検地が行われており、さらに三十二年を経過した慶安元年(一六四八)にまた惣検地が行われている。

 三、上林、中林の刈上検地

  この慶安検地の結果において、どうしたことか、上林村と中林村をはじめ、郡内十四ヶ村が出高ではないだろうかと再検地の申請を行った。そのために慶安三年(一六五〇)これら十四ヶ村に対して特別に刈上検地(坪刈検地)が実施された記録がある。これは「庁事通載」という文献に記されており、左に掲げてみよう。

  石川郡十四ヶ村の刈上御改作

 慶安元年御領国の惣御検地仰せ付けられ候処、大分出高の村有り。石川郡にて十四ヶ村、その年は納所仕り、翌年半納所も仕らず、未進(未完納)に成り居り申し候。同三年に十四ヶ村は刈上に仰せ付けられ候の村々、乾垣内村・上林村・中林村・馬替村・橋爪村・云々。

 右村々へ御奉行(改作奉行ならん)御出て、足軽御付け成らせられ、その村々百姓に手懸けさせ成される。御郡より平夫出て、刈上(坪刈)仰せ付けられ候。有る物御図り立ち、四歩は百姓へ下され、六歩は御免相御図り成され候へは (六公四民の租税)、百姓共難儀仕り候に付、慶安四年ゆり直し御検地仰せ付けられ、高減り申し候。同年より十四ヶ村並びにそのほかも少々御改作仰せ付けられ候。

  この十四ヶ村の特別刈上改作検地は慶安元年の惣検地の際、相当出高(実際以上過大な草高のこと)の村があり、そのため年貢米納入が出来ず、未進(年貢米未完納)に追い込まれてしまった。一方、藩では厳重に年貢米取り立てをするので再検地を願い出た。そこで同三年、改作奉行自ら検地に村へ出向いて刈上げ(坪刈)を行い、実収量に対し六公四民の租税(百姓に四〇%、年貢税に六〇%)を申し渡した。今日の米作りならともかく、当時の稲作規模では零細農家であり、収量も坪七合が上々豊作の時代であり、すべて手動耕作だから一町歩(一?)耕作農家は大百姓であったのだろう。即ち、豊作の年でも七合の四〇%、二合八勺、一町歩(三、〇〇〇歩)で八石四斗(一、二六〇??)このうち雑税、肥料代、農具代、万雑がかりを差し引いた分が再生産に最も大事な飯米である。だから、いかに粗食の百姓でも「生かすペからず、殺すべからず」の限界を越えるわけだから年貢米完納は不可能である。「百姓共難儀仕り候」など簡単な問題ではない。結局翌四年ゆり直して検地し、草高が減少されたわけである。寛文十年の草高は、上林七百九十四石、中林一千七石、定免(税率)上林五ツ八分(五八%)中林六ツ(六〇%)であるから六公四民の率は大差ないが、草高が加滅されたわけであろう。

 四、改作法の実施

  加賀藩創始期は利家、利長の二代の間で固められた。三代利常に至ってその内政の充実に当たり、財政の根幹である農政に意を注ぎ、元和検地からさらに慶安の検地を実施し、領内の適確な草高(生産高)を把握して改作法の制度にとりかかった。この改作法の実施は慶安四年(一六五一)石川・河北の二郡を手始めに開始した。その内容について大要を記すと次のとおりである。

 一、知行方式の改正 従来家臣がその知行采地に対し、個々に課税徴集する弊害を改め、各村単位の年貢米を藩が各指定の御蔵(米庫)に納め、給人の禄高に応じ支給する方式で、家臣による采地村への直接年貢米取り立ては一切禁止した。そのため個々の采地間の公平な統制が出来、百姓も給人達もともに好都合であった。

 二、草高の推定 厳格な検地により、田畑の面積、土地の肥え具合い、地力の調査などを総合的に検討して草高(生産量)を推定した。これは毎年不動の基本収量評価であり、百姓の努力により、地力増進による増収(手上高)や荒地を新たに開墾して出来た田畑(新開田)などにより草高が更新されることを奨励した。

 三、定免法 これは税率(免)を一定に村ごとに固定するものであり、村ごとに草高、免を一定にし、個々の百姓についての税および徴集は定めなかった。即ち、草高×定免=定納、で税額は毎年一定であり、これを定納法とも称した。このほかに夫銀、ロ米、小物成、の諸税もあるが、徴税令書のように村御印(後出)に明示されて各村に下付されていた。

 四、百姓救済制度 従来苛酷な徴税などのため、各村では年貢の未進にともなう敷借米などが積もった村もあり、新しい制度の再生産にさしさわるのでこれを一切免除した。そして以後は百姓間の金や品物の借貸は一切禁止し、また、村に出入りする無頼の遊民(やくざ者)の取り締まりをきびしくした。さらに不作な年は少々無理でも年貢米はいったん皆済させ、余米が乏しくて春になり、雑穀に頼ってもなお再生産に事欠くような場合、村役を通じて藩米を貸し与えた。これを「作食米」と称し、秋の収穫時に返済させ、さらに不作が続くと豊作の年まで延期する救済策も設けた。そのほかとくに凶作の年で三割以上の不作の場合は、特別に年貢を軽減する方策も定められた。しかし、作食米や凶作軽減などは決して安易なものでなかった。

  以上、改作制度の概要を記したが、この改作法は決して百姓の立場を理解した富民富国の制度ではなかった。封建社会の支配者が案出した「百姓は生かすペからず、殺すべからず」の格言を巧みに法制化したにすぎなかった。

 五、村御印

  改作法により税制の基本が出来たので次は税の徴収であるが、その徴税令書に相当するのが村御印であろう。読んで字のごとく、この令書は各村ごとへ発行された。藩主の御印が捺印されていたので非常に権威があり、各村の肝煎が大事に保管していた。二日読みの定書が戦前の勅語ならば、村御印は御真影であり、藩主の村支配権を象徴する神聖なものであった。最初は明暦二年(一六五六)八月一日に発布されたが、十四年後の寛文十年(一六七〇)九月新しく書きかえられた。今日残されているのはほとんど後者のものである。もちろん、各村々には大事に残されていたが、現在まだ発見されないものもある。

 

 

  加州石川郡中林村物成之事

 一ヶ村草高 内二十石明暦二年百姓方より上るに付無検地極

 一千七石 免五ツ八歩、内三歩三厘明暦二年より上る

 右免付之通、新京升ヲ以、可納所、夫銀定納百石に付百四十目宛、口米石ニ一斗一升二合宛可出也。

 同村小物成之事。

  一、三匁      油役

  出来

 本米九十七石五斗

 一、十九石五斗      敷借利足

  明暦二年同三年ニ令免除

 右ちり小物成出来退転可有之条、十村又者取立人吟味いたさせ相極、其通可出者也

  寛文十年九月七日 印

            中林村百姓中

  加州石川郡上林村物成之事

 一ヶ村草高 内十八石明暦二年百姓方より上るに付無検地極

 一、七百九拾四石

   免六ツ、内三歩四厘明暦二年より上る

 本米三拾四石

 一、六石八斗       敷借利足

     明暦二年同三年ニ令免除

 右免付之通、新京升を以可納所、夫銀定納百石に付百四拾目宛、ロ米石に一斗一升二合宛可出者也

   寛文十年九月七日 印

               上林村百姓中

  

 

   加州石川郡下新庄村物成之事

 一ヶ村草高 内八石明暦二年百姓方より上るに付無検地極

 一、五百七石 免六ッ二歩 先免六ッ四歩之内二歩万治元年より引

 右免付之通新京升を以可納所、夫銀定納百石に付百四十目宛、ロ米石に一斗一升二合宛可出之。奉行人並十村肝煎誰々によらず何角申事候共此印面之外一円承引仕間敷候也。

    同村小物成之事

 一、百六十五匁   山役

 一、一匁      蝋役

 出来

 一、三匁      鳥役

   鷹場ニ付除

  右定小物成指引於有之者理に及べし。印不改内は此通可出也。前小物成之分者、出来退転可有之条、十村又者取立人に吟味いたさせ可相極、敷借米明暦二年、同三年に元利共永代令免許者也。

    寛文十年九月七日  印

              下新庄村百姓中

  加州石川郡栗田新保村物成之事

  一ヶ村草高 内二十石明暦二年百姓より上るに付無検地極

 一、八百六十三石 免六ッ一歩、内四歩六厘明暦二年より上る

 右免付の通、新京升ヲ以可納所、夫銀定納百石に付百四十目宛、ロ米石に一斗一升二合宛可出者也

      同村小物成之事

 一、百八十四匁      山役

 一、一匁         蝋役

 本米百二十八石五斗

 一、二十五石七斗     敷借利足

    明暦二年同三年令免除

  右小物成之分、十村見図の上にて指引於有之者、其通可出者也

     寛文十年九月七日 印

               粟田新保村百姓中

  加州石川郡藤平田村物成之事

  一ヶ村草高 内五石明暦二年百姓方より上るに付無検地極

 一、百九十六石 免五ッ九歩 内五歩一厘明暦二年より上る

   本米十四石

 一、二石八斗   敷借利足

 明暦二年同三年に令免除

 右免付之通、新京升を以可納所、夫銀定納百石に付百四十目宛、ロ米石に一斗一升二合宛可出者也

  寛文十年九月七日  印

               藤平田村百姓中

  加州石川郡藤平田新村物成之事

 一ヶ村草高 内八石明暦二年百姓より上ルニ付無検地極

 一、二百三十四石   免五ッ五歩、内九歩四厘明暦二年より上ル

   本米十六石

 一、三石二斗   敷借利足

  明暦二年同三年ニ令免除

 右免付之通新京升ヲ以可納所、夫銀定納百石ニ付百四十目宛、口米石ニ一斗一升二合宛可出者也

   寛文十年九月七日  印

            藤平田新村百姓中

  加州石川郡下林村物成之事

 一ヶ村草高 内二十石明暦二年百姓より上るに付無検地極

 一、九百二十二石

   免五ッ二歩 内八歩上る

 右免付之通 新京升ヲ以可納所、夫銀定納百石に付百四十目宛

 口米石に一斗一升二合宛可出之、奉行人並十村肝煎、村肝煎誰々によらず何角申事候共、此印面之外一円承引仕間

 敷候也

     同村小物成之事

 一、参匁         烏役

    鷹場ニ付除

  右ちり小物成出来退転可有之条、十村又者取立人吟味いたさせ可相極

  敷借米明暦二年同三年元利共に永代令免許者也

    寛文十年九月七日  印      下林村百姓中

 

  加州石川郡清金村物成之事

 一ヶ村草高 内十三石明暦二年百姓より上るに付無検地極

 一、四百四十四石 免五ッ三歩、内八歩一厘明暦二年より上る

  本米三十石

 一、六石       敷借利足

   明暦二年同三年ニ令免除

 右免付之通新京升を以可納所、夫銀定納百石に付百四十目宛、口米石に一斗一升二合宛可出者也

   寛文十年九月七日

            印

             清金村百姓中

  加州石川郡末松村物成之事

 一ヶ村草高  内二十五石明暦二年百姓より上るに付無検地極

 一、八百二十八石

  本米四十三石

 一、八石七斗     敷借利足

  明暦二年同三年ニ令免除

  右免付之通新京升を以可納所、夫銀定納百石に付百四十目宛、口米石に一斗一升二合宛可出者也

    寛文十年九月七日  印

              末松村百姓中

  更にこれを一覧表で示すと次頁のとおりとなる。

 

  これらの村御印の内容を調べると

 物成  田租のこと。古代大宝律令の「租庸調」の租に当たる。税のうち最も主なものであった。

 草高 検地により土地面積を測り、また田の肥えぐあい、地力などを総合的に推定した生産量。約二百歩の面積で米一石の生産量と定め、豊凶作の年でも一定していた。

 無検地極 検地を行わず推定した部分の草高。

 免五ッ八歩 免は税率で、五ッは五割、八歩は八分で、即ち税率五八%のこと。

 新京升 米を測るのは昭和の初めまで全部升目量であった。度量衡法」が制定されない時代は升目(ますめ)の規格も不安定であった。とくに百姓にとって大事な年貢米を測る規準だから大問題であった。従来の京升は慶長十五年(一六一○)に定めたもので、寛文八年(一六六八)にこれを新京升に改められた。新京升は京升にくらべて大きく、百姓には苦しい負担となった。

 

 夫銀 「これよりさき本藩(加賀薄)の諸士、采邑民より人夫を出さしめ、これを用いて公務を助けしを、(是前年高岡築城等のことに用ゆれば也)今年(慶長十五年)に至り農耕に妨げあるをもって、改めて邑民より夫銭を出して人夫に換う。今の夫銀なり。(一説に、夫銀始まるは元和三年、又、六年ともあり可追考)(三州志)

 定納 定納米のことで、豊凶作にかかわらず、一定の草高に定免を乗じた数量。

 口米 上納米が虫食いなどで目減りする分を補う余分の差し米という一説あり。万治二年(一六五九)より代官の給米になったので、代官米ともいった。その算出法は三州志に次のとおり記されている。

  寛文八年口米(石に付一斗一升二合宛)量算出

  この頃(慶長十五年)までは諸国量不同也。わが三州(加越能三国)は量法七二を法として、一斗量一升量の法を立つ。しかるにこの時京量とて諸国へわたる。これを国主に比するに京量の一石八升となる。云々。景周按、この後寛文八年(一六六八)に新京量とて、六四八二七の量諸国へわたる。この時京量の一石は、新京量にて一石三升二合となる。前の京量の過と新京量の過と両度の余分を合わせて一斗一升二合をもって口米と立つ。(三州志)

 小物成 田租以外の雑税で「定小物成」と「散(ちり)小物成」の二種ある。定小物成は容易に変更出来ないもので、例えば山林等の収入に山役として、他に野役、川役等がある。散小物成は百姓の副業収入に課すもので、毎年変更があるから、村肝煎、十村が調査して税額を定める。

 本米 藩は不作の年に百姓が再生産の食量不足する場合に、作食米と称する貸し米を豊年の年まで貸した。その貸米の量をいう。

 敷借利足 作食米を借りた利息をいう。これは米で支払う。

 ちり小物成 小物成で前述。

 鳥役 小鳥の狩猟による収入。ちり小物成に類する。藩主の鷹狩り指定の場所は禁猟で、税は免除。

 油役 百姓の副業で菜種を作り、それをしぼって種油を作る収入に課す税。

 蝋役 油役と同様、はぜの木の実から蝋をしぼってローソクを造る収入に課する。

 出来及び退転 ちり小物成に該当する場合は出来、廃業した場合は退転と称した。

 取立人 これは固定の役名でなく、納所役人を指す。

 御印 藩主の御印。丸の中に満の黒肉印。直径三?の大きさ。

 

 

 六、諸かかり

  百姓に課せられた重税は村御印に示されたものはもちろん、その他にも種々のかかりが徴収され、百姓の生計には税で明け暮れる封建社会の苦境があった。その主なものを列挙すると、

 打銀(うちぎん) 郡内土木費で道路、橋、藩のお蔵などの修理費に当てられた郡(こおり)打銀、地域用水費の用水打銀がある。

 鍬役米(鍬手米)(くわやくまい)十村の役料で、十五歳から六十歳までの男一人に年間米二升宛徴収。

 万雑(まんぞう)郡(こおり)万雑、組(くみ)万雑、村万雑があって、その経費は持ち高に主として割り当てられた。このうち村万雑は現在も継続している。

 その他 村肝煎給米(村の草高により一定量毎年徴収された)

     村小走手間(小走りの手間賃で村万雑内で給与。額は村の大小による)

     用水江代米(関係村共同用水費)

     用水番人手間(右に関係した賃銀)

     神社、寺院の志納

 七、年貢納

  村御印に定められた年貢米は、百姓個々の割で納めるのではなく、個々の百姓が村内での割当を持ち寄り、五斗俵に俵装を整え、村の肝煎がその上納に関して全責任を負った。一人でも未納者が出ると、村全体の責任となり、迷惑になるわけであった。村に強い共同団結の観念が現在までも及んでいる根源でもあろう。これらの年貢米は十二月二十日までに藩指定の御蔵へ納めなければならず、村をあげての最大重要事であった。もし完納出来ないような事態になると、その村は祭礼、冠婚などの祝い事はもちろん、普請事、商人の出入りによる物買いなども停止され、村役は捕えられ、全く村は暗黒の日暮らしに陥るわけである。肝煎を先頭に村人衆が年貢米納めに出立する日は、残された女子供まで無事に納まるよう神仏に祈って案じた、との古老の話をよく幼な心で耳にしたものである。藩の納入米蔵の所在は明らかではないが、年代により不同があり、藩末頃尾山(城下の金沢)と郡奉行所の松任にあったらしく、各村別指定の米蔵も判明しない。受付役人の検査も実に厳格であった。米質はくず米、もみの混入、乾燥は現在以上にきびしく、とくに量目が重視されたらしい。当時は米選具も不備であり、調整に苦労した。また、量目は升量で測り、測り方により不足することもあるので、余米まで準備したらしい。難無く納まると藩から年貢皆済状が肝煎に渡され、輸送していった村人もホッと安心の溜息をつき喜び勇んで村に帰った。村では案じながら留守をしていた者がみな村端に出て待っており、肝煎の手にかざす皆済状を遠くに見て小おどりして喜んだそうである。すぐ村太鼓を打ち鳴らし、女衆はいそいそとお正月のモチつき準備にとりかかり、村中一ヵ年の田作りの労苦も忘れる、心からの本当の忘年会が貧しい食卓を囲んで出来た。このような喜怒哀楽をともにする村の共同体の和合こそ、地域住民性の美風として後世に伝えたいものである。大戦中および終戦後の食糧難時代にこの百姓の後継者が担った供米制度も、全く同様な施策であったことも単なる偶然事ではないだろう。

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 ▲ 1:第一節 藩制のはじまり 2:第二節 藩の村支配 3:第三節 改作法と税制 4:第四節 田地割と新開田 5:第五節 藩政下の農業 6:第六節 百姓のくらし 7:第七節 藩政のおわり