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==第二節 加賀国及び石川郡==

 

第二節 加賀国及び石川郡

 一、加賀国

  「三州志来困概覧」に、「加賀古名は加我と書す。旧事紀国造本紀に見ゆ。国訓はヨロコビヲクハフルクニと云ふ。八雲御鈔に見えたり。もと越の一郡名也。国俗古来いひ伝ふ。云々」とある。

   雄略の朝に、三尾君の祖、石撞別命四世孫大兄彦を加我の国造に定め賜はること、同じく旧事紀に載す。是加我の名の見えたる初めなり。加賀の二字は天平勝宝(孝謙帝)元年(七四九)己丑十二月十五日、越前掾大伴池主より家持へ贈る書牘に、「依迎駅使事今月十五日到来部下加賀郡境」と万葉集(十八巻)に見ゆ。これなお加賀郡越前国に属する時のことといえども、加賀の字面公然として顕われし始也。云々。

   嵯峨の朝に至りて、弘仁十四年(八二三)癸卯三月、有司奏して越前国府濶遠にして民人愁苦するを以て、加賀江沼の二郡を割きて加賀国と為さんことを顧ふにより勅許すと。これ即ち加賀建国の起源也。

  加賀(加我、加宜)の名は随分古くから、しかも一郡名として記録されている。即ち五世紀の雄略天皇の代加我の字で見ており、加我国造とあるけれど、先考史家の説では「上古郡、国相通ず」といい、その後七世紀天武天皇の代に三越の国を定めると記されており、北陸地方(古代から越の国と総称する)を都の近くから順に越前・越中・越後と三越の国に分け、加賀郡は越前国に含まれていた。越前国の国府は当然今の福井県内にあったろうし、加賀郡ではあまりに遠く隔たっていた。弘仁十四年(八二三)、嵯峨天皇の勅許を経て加賀・江沼の二郡を越前国から分離して新しく加賀国を設けた。これが後の代までその名声を呼ぶ加賀国の誕生であった。

 二、石川郡

  「三州志来因概覧」に「方今定まる郡名は、江沼・能美・石川・河北是也。石川、イシカワは倭名抄の正訓也。石川郡風土記云。石川郡或印志川。東限里真崎。西限樫市。南限栗田川。北限雄奈嶽。」とある。

   而して是年弘仁十四年(八二三)六月に及びて、右加賀国江沼郡管郷十三、駅四のうち、五郷二駅を割きて一郡を建て、之を能美郡と号し、加賀郡管郷十六、駅四のうち、八郷、(按ずるに、中村・富樫・椋部・拝師・井手・笠間・味知・三馬の八郷なるべし)一駅(比楽「石川郡手取の本名なり」)を割きて一郡を建て、之を石川郡と号すること、同じく日本後記に見えたり。けだしこの時能美郡、石川郡を新に置きて、一国四郡始めて備はれり。(是能美、石川の郡名顕われる起源也)

  承和(仁明帝)元年(八三四)甲寅春正月、加賀国疫病行はれ是を賑給す。二月甲午、加賀国石川郡の人、財逆の女一たびに三男を産む。因って正税三百束及び乳母一人を給し、公粮を以て育養せしむ。

                (加賀国石川郡の六字此に初めて見ゆ。)

   「古蹟志」に、犀川は急流にして石多き清流なれば、古名は石川と呼びたりけん。仁徳記に

 

 

 とあるは

 

 

 と日本紀通證にいへれば、加賀国石川郡も此河名より負ひたる郡名ならん。

  即ち、石川郡の郡名が生まれたのは今を去ること一千百五十余年の遠い昔であった。最初は八郷一駅であったが、後に大野、大桑、玉戈の三郷も加わり、十一郷一駅となった。明治に至り廃藩置県の際、石川県と同名に定められたのもこの石川郡が藩の中心に位置し、かつその主動的来歴によるものであろう。

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富奥郷土史