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==第五節 豪族とその遺跡==

 

第五節 豪族とその遺跡

  南北朝時代からの富樫氏はもはや在庁官人であるよりも、加賀国内に土着した豪族武家として成長し、打ち続く戦乱とともに次第に多くの同族、部下を従える大勢力に発展した。「富樫氏の庶族国中に充満して、加賀の一大勢力となる」と史家は説いている。即ち、林・安田・山上・横江・近岡・倉光・板津・白江・宮永・大桑・佐貫・石浦・豊田・飯河・藤井・弘岡・松任の諸族など二十一家が数えられ、これらはみな富樫氏の分家といわれている。さらにその枝葉を考えると際限がない。ともかく、これらの家名が現在に至っても郡を中心に、市町村や部落名として伝わり、しかもそのほとんどが当時の郷庄保の名称である。これらのうちとくにわが郷土につながる郷庄保、並びに豪族やその遺跡など先賢の記し遺された文献をもとに考察を試みたが、既に耕地整理、土地改良、住居の移転改築などの急速な変化のためかなわず、遺跡消滅はまことに口惜しいことである。

 

 

 一、林氏

   「尊卑分脈大系図」

 

 

   「羅山文集附録三」

 

 

   「先哲叢談の道春伝」にも其祖先加賀国之人也と見ゆ。云々。

    思うに林氏は、富樫氏と同族にて、この石川郡林郷を所領としたため、林号としたのであろう。昔はその同族が多かったので、今もその子孫と称するもの石川郡福富村の邑長林間兵衛、先代林六郎右衝門、六郎左衝門など称せり。また、同郡増泉村の邑長、林喜左衛門。能美郡三坂村の区長林孫市。河北郡笠島新村の邑長林孫右衛門らは皆その子孫である。このほか金沢の酒尾某と称する町人らも皆その同族だという。云々。林の紋、三巴に一引両なり。

  これ等のほかに相当数多くの林氏一族もあっただろうし、また、その子孫も現在まで受け継がれている家柄もあるだろうが、確証を得るような残された記録が見当たらない。加賀藩時代の藩士に林姓も数家あり、郷土富奥村内や隣村にも林氏を名乗るものや、子々孫々に伝承されている旧家も多い。これらもあるいはその末孫であるか否か後考に望みたい。

 

 

 

 二、上新庄の林氏館跡

   「石川訪古遊記」に、

 

 

  この館跡も明治以前にはその片鱗がうかがい得ただろうが、明治以降わが国の農政の一転にともない、稲作耕種法の開発とともに、耕地の変動もあった。その最も顕著なのは耕地整理であり、それ以後は全くその影を留めるものが無く、従って記憶健在な古老といえども確答を求めるすべがなく、故人の記録の一端に頼るほかない。その文献も以上のように明確でない。林氏館存在の時代、その人物らも知るよしもなく、米廩故跡もその活用の時代相もわからない。藩政時代の年貢米収用に関係あったかどうかも判明しない。

 三、上林の林光盛館跡

   「石川郡誌」に、林光盛館跡上林にあって、その跡に神祠あり。又調馬場の跡を馬場田、米廩の跡を蔵屋敷というとある。

  林光盛の名は「尊卑分脈大系図」の林氏家系中に見えないが、林光明の二男に光茂と称する者がいる。あるいは「茂」と「盛」の誤りであろうか。

  また、光明の弟に林光成と称する者がいる。だが光成は「豊田氏を冒す。飯河、藤井、弘岡氏を産む」とあるから、全然居住地域が合致しない。ともかく、上林村は古くから林郷内の重要村であったから、林一族の者の館などもあったものと考えられる。

 四、中林の林則光館跡

  「石川郡誌」に「林則光館跡は中林にあり、址今六郎屋敷という」とある。(現在、小島貫月宅敷地)

  「尊卑分脈大系図」の林家譜によれば、

 

 

  即ち、林氏七世の子孫で木曽義仲の源氏挙兵に加勢し、武功のあった林六郎光明の曽孫である。承久三年(一二二一年、鎌倉幕府執権北条義時の頃)時の朝廷は後鳥羽上皇の院政時代で、上皇は義時追討の命を各地の守護、地顔に発したため起きた承久の変の最中で、鎌倉を中心に関東周辺に戦いがあっただろう。

 

 

 と伝えられているから、詳細な文献はないが、朝廷方の討幕軍に加わったのであろう。

 

 

 と伝えられている。

 五、末松の堡跡

  「石川訪古遊記」に

 

 

  この堡跡という地は村の西方にあって、やがて田地となったが、殿池、御田などという字が残っている。殿池は堀の跡だろうといわれる。堡主の名なども聞き伝えられていないが、昔この地に大名がいたようにいい伝えられている。

  訪古遊記の伝える末松堡は、今はその片鱗すらうかがうことが出来ないが、相当大規模なものであったらしい。

 「殿池(トノイケ)」(皇国地誌戸池(トノイケ)トアル)「御田(オンノタ)」(皇国地誌恩田(オンノタ)トアル)は現在も呼称されている。地域は廃寺史跡公園の西南部から南部寄り一帯の広い土地で、皇国地誌に記す「堀田(ホリダ)」「東堀(ヒガシボリ)」「西堀(ニシボリ)」「穴田(アナダ)」などは、時代を重ねるとともに順次村人の口から消えて、忘れ去られるのが口惜しい。次に一体この堡主は如何なる人物か、また時代も全く判明しない。さらに次項で記す大館氏とのかかわりの有無など、さらに後考を熱望したい。

 六、大館野と大館氏

 「石川訪古遊記」に

 

 

 

 とある。

 「永禄十一年(一五六八)撰反故裏書」に超勝寺謀逆の事を記して「朝倉金吾入道宗滴加州へ乱入す。是皆超勝寺教芳の偽妄謀略より起こりしかば、下間駿河法橋頼高加州へ下国ありて、大館左衛門佐晴光に相談し、一和のあつかいをなし侍る。云々」

 「明智記」に

 

 

 「陰涼軒日録」

 

 

  大館氏は永享(一四二九)以来御番帳に大館中務少輔、大館上総入道、大館祢々丸、大館五郎。また、御供衆之内に大館上総介入道祐善、大館駿河入道常安、大館七郎、大館刑部少輔持房。また、文安年中(一四四四-一四四九)の番帳に、大舘中務少輔、同五年同治部少輔とあり。

  この大館野は「石川訪古遊記」によると、大館氏の采地であった。大館氏は足利氏末世の時代、即ち加賀の一向一揆直後の時代に当たる。この大館左衛門佐晴光は、源氏大館系図に見えないが、「明智記」などにその経歴の一端が記されている。この左衛門佐についてその背景である当時の世相の大略を記すと、まず加賀の一向一揆における高尾城の富樫政親攻略は長享二年(一四八八)で、これを長享の一揆、または大一揆と称している。加賀の一揆が成功すると、これにならって能登・越中・越前においても試みられた。越前国では守護朝倉教景入道宗滴に敗れた一向宗の主謀者である超勝寺方は、国を追われて加賀国へ逃げ込んだ。彼らは敗残者の身でありながら加賀の一向宗の主領らの権力をねたんで、本願寺の威を借りてこれを制圧しようと図った。そのため享禄四年(一五三一)遂に加賀の一向宗は二分され、相対して戦った。これを享禄の乱といい、また、小一揆とも称される。本願寺の命を受け、下間駿河法橋頼高が超勝寺方に加勢、加賀一揆が敗退する。その後朝倉軍が加賀国の本願寺・超勝寺方と合戦、ために北国の産米が京の都へ届かず、時の将軍足利義輝がこの大館左衛門佐らを介して両軍の和解を企て、成功したわけである。ともかくこの大館氏は京の都にもその名の知られた有力な氏族であったらしい。しかし、この大館氏が末松にその采地を領しており、さらにその居住館を構えていたかどうか決定的確証が見当たらない。皇国地誌の字名に「於立(オタテ)」「於立入ロ(オタテイレグチ)」、また、現在の耕作者が呼称する「オオダチ」の地名田は、轟と本村を通ずる通路の西側一帯、即ち小字申の五十六番から八十八番に至る広い地域に及んでいる。この地域が昔の大館野であったのであろう。その他「広野作(コウヤヅクリ)」「野士作(ヤシヅクリ)」「大官田(ダイクワンダ)」「三枚大官(サンマイダイクワン)」「火懸大官(ヒカケダイクワン)」「殿田(トノダ)」「北城(キタノシロ)」「御城土取場(オシロツチトリバ)」「万場(バンバ)」「門田(カドタ)」など旧跡に因んだ地名も種々多くある。なお、前記の末松の堡跡との関係など互いに交錯しており、旧跡の片影も留めない今に至ってはその判別はますます困難になった。

 七、栗山宅跡

  「石川郡誌」に「栗山宅跡末松にあり。土堰存して口字形をなす。のち跡に神社を建てたというけれども其の伝なし。現に小字轟に栗山家三軒あり。その子孫なりと思われる。

  「皇国地誌」末松村の古跡に、栗山某古宅跡として、本村の南方、末松神社の地なり。東西二十間、南北二十間五尺、面積四百十六坪。土遺在し、口字形をなす。口碑にいう。古時栗山某ここに居る。田に「陣山」などの字あり。近方の耕田中に「石の唐戸」と称し、手水鉢のような石あり。周囲一丈八尺七寸。あるいはこれを古寺の柱礎という。また、この辺より古い瓦を掘り出すことあり。

  「皇国地誌」末松村の社。「末松神社」として、村社、東西二十間、南北二十間五尺、面積四百十六坪、本村の南方にあり。

  この栗山某古宅跡と末松神社の面積、位置、規模とも一致しており、口碑の記すとおり栗山宅跡であろう。この末松神社は結局、栗山宅跡にそのまま鎮座されたものと考えられる。なお末松神杜の称号については、単に末松村の神社だからその村名に因んだものか、あるいは清金村地内にあったと伝わる末松某館跡主の末松氏の支配権力に因んだものか、ともかくこの両氏の館を構えて居住した年代が明確でないのが残念である。明治四十四年頃、この末松神杜は轟八幡神と合併合祀され、社号を大兄八幡神社として現在に至っており、その境内の位置や規模も末松神社と変わらない。石の唐戸云々は近年発掘調査された末松廃寺の項にゆだね、その子孫と思われる轟の粟山家三戸は現存している。(一戸は現在本村に移住)

 八、末松館跡

 「石川郡誌」に「清金に末松某の館跡あり。遺濠の形曲尺の如くなりしもの近時に至るまで存せしも、今は失われたり。館主の伝また欠く。」とある。

 九、上林地頭館跡

  「白山宮荘厳講中記録」

 

 

 「社蔵」延文元年(一三五六)六月十六日寄進状の連名、沙弥玄猷判、藤原光顕判、とあり。

  さらは文猷は光顔の文なるべし。尊卑分脈大系図に載せたる大桑系図の内に此名見えず。

 「尊卑分脈大系図」従五位下林大夫光家、子大桑三郎利光、其子佐貫小三郎光行、其子同弥二郎光則、其子大桑又

  二郎信光。

 「混目集」に、越前の斎藤家、加賀の大桑家、ともに家紋九曜の星也。

  一三五〇年頃に上林に地頭職が在館していたことが、白山荘厳講中記録により判明されている。そしてその地顔職は大桑玄猷と称する人物である。大桑氏は林氏の支流であり、今の大桑町にその城跡があったようだ。しかしこの大桑氏の家系には玄猷の名が見えないとのことだが、一体この地頭大桑玄猷と称する者はどんな系統なのかわからない。泣く子もだまると云う地頭の権威も、当時は白山の神威を戴いての上のことであり、一方、この村人連も白山の神威のお陰をこうむっていて、神に奉仕する神事や神振に対し一人も反抗の様相がなく、地頭も一時は敵対する構えであったが、ついに屈服してしまった。即ち、農民が地頭に対抗する形態として、神威をかるという手段でもあったらしい。その館跡など今は何も残っていない。

 十、新庄村の杉谷四郎左衛門

  「加賀古跡考」また、この倉嶽に昔、井口村の林次郎右衛門、新庄村の杉谷四郎左衛門、籠城したといい伝えられているけれども、時代など知れがたい。

  三州志「故墟考」巻之四、長享二年(一四八八)に至って富樫政親遂に釈賊のために這城に死し、城陥る。この後は賊魁此城(鞍嶽城)に拠ると見えて、天正八年(一五八〇)佐久間盛政、吉野、劔、鞍嶽、四十万に放火せり。この時、嶽の城陥ること七国志などに見ゆ。土人相伝える。この城に賊魁新庄邑の杉谷四郎左衛門居たりというは、この時なるべし。

  「石川訪古遊記」高尾落城などのことを論じて、

 

 

  「大外記中原康富記」「季瓊日録」「官地論等諸実録」。

 

 

   又同記に

 

 

  加賀古跡考によれば、新庄村の杉谷四郎左衛門が倉(鞍)嶽に籠城したことのみを記し、三州志の故墟考には、天正八年(一五八〇)佐久間盛政が鞍嶽を攻め放火し、落城させたことが七国志に見え、その時ちょうど、鞍嶽に杉谷四郎左衛門が籠城していたと伝えている。一体この杉谷四郎左衛門とは如何なる人物か。石川訪古遊記によれば天正八年の十年前、即ち元亀元年(一五七〇)、富樫族人左衛門某が鞍嶽に走り、一事を為したとある。この元亀元年は衰徴した富樫泰俊、晴貞兄弟と、その子息が本願寺一向宗徒に滅ぼされ、根絶した年である。富樫族人の左衛門某が鞍教に走ったとあるから、あるいはこの杉谷四郎左衛門と同一人物であろうかとも考えられる。越中人水巻忠家云々は全く年代が異なり、混同の誤りであろう。新庄村の杉谷四郎左衛門と伝えられるが、その居跡などに関しては一切伝えられておらず、判然としない。また、単に新庄村とのみでは上下いずれの村かも知る由がない。

 十一、下新庄の粟野五兵衛居跡

  「石川訪古遊記」

 

 

 「宝永誌」同村領の内に昔阿波野五兵衛という者の屋敷跡として居跡残れり。今は百姓屋敷になりたり。

  三州志の「故墟考」に、石川郡富樫庄下新庄村領に館跡あり。粟野五兵衛住まいすと。思うに粟野は粟生野であろうか。ただし、宝永誌には阿波野に作れり。

  「加越能旧跡緒」に同領の内、かつて阿波の又兵衛と申す者居住の由にて、屋敷跡今に有り。

  石川訪古遊記によれば粟野宅跡が判然と残っているように記されているが、耕地整理六十年後の現在では一切その影を留めていない。ただ皇国地誌の字名に「殿田(トノダ)」「磐石(バンセキ)」「平岩(ヒライワ)」「賀石(ガイシ)」等の名があるが、その由緒はわからない。加越能旧跡緒に阿波の又兵衛と出ているが、どちらも判別できない。明治十五年、同村の万歩帳の内、その地積等調査事項に「所々石塚日裏之田に附可申事」とあり、耕地整理前にはなんらかその跡も認められたのであろう。

 十二、粟田備後第跡

  「石川訪古遊記」に、

 

 

  粟田村は数百年前に新保村へ移住しており、訪古遊記に記されているのはそれ以前のことで、粟田備後宅は村の東南、三十苅村と接する方面にあって、その支配地は両村にまたがっていたのではないだろうか。ともかく、粟田備後宅という呼称があるからには、粟田村と相互になんらかの関係があったと考えられる。「皇国地誌」の字地に、「館」「屋敷田」などの呼び名が残っているのも、故あるものと思う。現在は再度の耕地整理、土地改良工事のためにその跡は見るべくもない。また、粟田備後とはいかなる者か、いつ頃の時代の居住か、その家系などなんらの伝承がない。ただ、この村に粟田姓の家が一戸あり、現在は金沢市に転出しているという。

 十三、矢作村の藤岡伴道居跡

 「宝承誌」に、矢作村領の中に「殿の土居」という所あり。昔富樫の家臣藤岡伴当(故墟考番道に作る)という者居住せし跡あるよしいひ伝えり。

 「石川訪古遊記」に、

 

 

  考えるに「官地論」長享二年(一四八八)六月七日、高尾籠城討死人の中に、藤岡豊後守というあり。伴当とはこの人であろうか。「能登誌」に、鳳至郡諸橋郷内鵜川村に城跡あり。藤岡平右衛門尉といいし人の居城のよしいえり。この近郷山田郷内に番頭谷村というのもあって、それぞれ由あり。

 「三州志故墟考」に

 

 

 「加越能旧跡緒」に、矢作領の内、殿の土居と申す所有り。富樫家臣藤岡はんどうと申す者が住まいしたので殿の土居と申す由。

 「皇国地誌」矢作村の古跡として、本村の北方にあり。里俗殿土居(トノドイ)と称す。今十坪ばかりの荒蕪地にして柿樹二三株あり。阪東あるいは番道に作る。富樫氏の臣なりという。

  以上各文献が同様に記しているように、藤岡伴道は富樫政親に仕えていた将であり、高尾城陥落に際し政親とともに消えた人物である。また、その居宅も矢作地内北部、諏訪野森あたりであった。

  この矢作村では威勢があり、村人の尊敬も篤かったらしい。氏の姓に因んだ「藤岡諏訪神社」の伝に「村社にして武御名方命を祀る。富樫氏の家臣藤岡伴道本社を崇敬せるよりて名づくという」とあり、また、「皇国地誌」の記す字地に、「殿土居上(トボドイカミ)」「殿土居下(トノドイシモ)」「三土居(ミツドイ)」「土居中(ドイナカ)」「三土居下(ミツドイシタ)」「三土居東(ミツドイヒガシ)」などあり、その居宅の規模も豪勢なものであったらしい。藤岡氏の家譜や詳細な伝など残っていないのは惜しいことである。

 十四、衣掛氏宅跡

  「石川郡誌」に衣掛氏宅跡矢作にありて館主は富樫氏の臣なりという。

  衣掛氏は富樫氏の臣であったと伝えられるのみで、その時代や家譜など全く明かでない。藤岡伴道のように一向一揆に関係したのか否かもわからず、その宅跡も明らかでない。皇国地誌の小字名には、この矢作村領内に長右衛門屋敷、○○屋敷と称する地名がとくに多く、あるいはこれらにかかわるのではないか、さらに後考を要することが多々ある。

 十五、太平寺村の高橋宅跡

  「石川郡誌」に、高橋頼次宅跡は太平寺にあり。今わずかに小丘を残す。頼次は一向宗徒の中心人物だったという。

  「富樫記」長享二年高尾城攻めの時、高橋新庄衛門家忠は六箇の軍兵五千余人をもって、押野の山王林に陣を取る。

  「三州志ケン嚢余考巻之五」に、高橋新左衛門の一党をはじめ、六箇の賊衆を率いて押野に雲集す。云々。笠間兵衛、高橋新左衝門を唱師として、賊二千を能登の境へ到らしむ。(上文に笠間は馬市に屯し、高橋は押野に屯すとあり。然るに今又能登境に到るとは不審なり。)

  「景周」(三州志著者富田景周)思うに河北郡木目谷村領に今、土地の人が城山といい伝える所あり。百年前に高橋藤九郎という者が居住し、それから七左衛門というまで五代この所に居住す。七左衛門の子からこの所の土着民になったという。とすれば新左衛門はこの族なるべし。

  この太平寺村に居住したと伝えられる高橋頼次と「富樫記」に記された高橋新左衛門はともに一向一揆に際し、片や中心人物、片や軍兵五千余の将と記されており、おそらく同一人物か、そうでなければ同族と考えられるのが至当であろう。景周の考える高橋藤九郎という人物は、一向一揆後約二百九十年後であり、同族であろうとは推測にほかならない。今日に及んでその宅跡云々も「わずかに小丘を存す」のみでは考えるすべもない。

 十六、諏訪野森

  「石川訪古遊記」に

 

 

  「官地論」長享二年(一四八八)高尾城を土賊が取り巻いた時に劔白山の衆徒が会議したのは、国中の大事これにすぐぺからず。いざ合力せんと総勢二千余人諏訪口に陣どる。また、能美の軍兵宇津呂備前守を大将として五千余騎、布市諏訪森に陣をとる。云々。

  布市諏訪森と記されているが、富樫館を去る南行千百七十七ブの地点、即ち矢作村に至る地域であると考えられる。さらに

  「亀尾記」に粟田の松は伝えられるところによると熊野の神木なりとて、「幣かけの松」と呼べり。古木にして雅状あり。この辺は諏訪野山王林などといって、昔は大社もあって深林だったという。

  とあり、また、矢作村の鎮守神社名も「藤岡諏訪神社」と号するように、この諏訪野森は矢作村から粟田村に及ぶ広範囲な森であったのだろう。長享二年の一向一揆の際、宇津呂備前守の率いる五千の大軍が布陣したとあれば、この矢作、粟田の両村はもちろん、その近隣の村々の百姓衆は一向宗の宗徒であるはかりでなく、また、積極的であろうと消極的であろうと必然的にこの作戦を支援、協力したことであろう。惜しいことにその記録や遺品などなんら後世に伝えるものがないのは、多分その後の支配権力者が後への影響を考慮し、一揆思想減却のため処分したものであろう。「皇国地誌」粟田新保村の宅地に、「松木田(マツノキダ)」「東平(ヒガシヒラ)」「北平(キタヒラ)」「野中(ノナカ)」「野田(ノダ)」「柴木田(シバキダ)」(又はシバキリダ)

 などあり、また、この諏訪野森は鳥獣のすみかとして狩猟には格好の場であっただろう。字地名に「囮畑(オトリバタケ)」「鷹白(タカシロ)」「雀田(スズメダ)」「雁食(ガンクイ)」「鳥屎(トリノクソ)」などがあるのも偶然なことではないだろう。

 十七、太平寺の陣跡

  「亀尾記」に、天正五年(一五七七)九月十五日、上杉謙信は能登七尾城を攻略し、長家父子庶子迄も討ち取り、これを椋部(クラベ)の浜にさらし、それから松任を攻めた。しかし鏑木右衛門はよくこれを迎え討ったため謙信は太平寺に陣取り、灯明寺を頼み和議が成立した。この結果、松任と太平寺の間に対面の事が定まった。が、鏑木が出向したところを謙信が謀って鏑木及び灯明寺を殺した、と松任本誓寺記にあるという。

  「松任本誓寺々記」

 

 

  「越登賀三州志、ケン嚢余考巻之八」謙信長族の諸首を掠部浜にさらし、これより松任城に向かう。この時河田豊前も八千の兵を率いて馳せ向かうところに、安土から七尾への援軍が来ると聞き、謙信は城(城主鏑木頼信)を急に攻め落とし、越後へ帰国す。

  上杉謙信は松任城の鏑木氏を攻略しようと、太平寺に陣を張ったことが、記録されているが、その陣容のことなど詳細は一切伝えがない。松任の本誓寺に伝わる寺記によると、謙信は実に卑怯な策略を弄して鏑木氏を討ち取ったとあり、非武士道に義憤を覚えるが、源平合戦の頃はいざ知らず、下剋上と弱肉強食の戦国の最中であればさもあろうと思う.

 十八、三林善四郎

  「三州志の故墟考巻之四」に天正元年(一五七三)より三林善四郎、この林郷内の上林、中林、下林を押領し、三林と号して賊魁をなす。が、天正八年に柴田勝家のために滅ぼされる。上、中、下三林の名も三宮古記の暦応二年に見え、白山荘厳講中記録の延文元年にも見えれば、古き地名なり。

  「越登加三州志のケン嚢余考巻之八」に、十一月二十日、勝家その臣毛受勝助をして大捷を告げ、かつ賊魁の首十九級(混目集に、若林長門守、同雅楽助、同甚八郎、宇津呂丹波守、同藤六、岸田七郎、云々、窪田大炊、三林善七=善四郎の誤りなり)を安土へ献す。(信長これを安土の松原にさらすとあり) しかして佐久間玄蕃は尾山城によって道場を改め、石垣を築き、御山を尾山と改字す。

  「北陸七国志」天正八年閏三月、柴田勝家加賀討人の段に、佐久間玄蕃允盛政謀略をめぐらし、尾山城を攻め取りて、敵将三林善四郎、云々、以下の敵徒ことごとく討ち取って、加州平均に及ぶ。云々。

  「三壼記見聞集」には三林善吉とす。

  「石川郡誌富奥村の寺院」に下林定林寺について、三林善四郎かつて上林、中林、下林を領し、天正年中柴田勝家に滅ぼされしかは、子隼人剃髪して円了と号し、庵をここに建てたり。

  三林の姓にちなんで上中下の三村の村名が呼称されたと考えるより、林郷領内のこの三村が上林、中林、下林と名付けられ、さらにこの三村を林郷の支配者からどういう方法かわからないが押領して三林の姓を名乗ったと考えるのが妥当のように考えられる。ともあれ、この三林善四郎の生い立ち、素姓に関しては全くその伝えが無く、三州志の富田景周は「賊魁を為す」と称しているが、時代性や権力者的主観によることもあろう。ともかくこの三林幸四郎は三村を中心にこの地域を領有し、支配していたことは諸文献の示すとおりであろう。下林村の古老の伝承によれは善四郎は下林鎮座の薬師日吉神社を深く崇敬し、また柴田勝家に滅ぼされた後もその子隼人が定林寺の前身となった弔い庵を下林の地に建て、自ら出家して円了と称したことなどから推測すると、善四郎の本居は下林村にあったように考えられる。なお、この定林寺は代々三林姓を名乗り伝えており、当村内にも善四郎ゆかりの語り伝えなどが多い。

 十九、太平寺関跡

  「石川訪古遊記」に

 

 

  「亀尾記」に太平寺村の地はむかし丹羽長重が小松在城の時この地が領界だったので関をかまえたという。今藩臣広瀬氏祖前川千之助なるものこの関守をなすと、広瀬家譜に見ゆ。

  この太平寺関は豊臣秀吉の末期から関ヶ原の合戦に移る混沌とした時代、一方、加賀藩の創始が利家公により着々と固められていた頃である。謙信の太平寺陣地、利家の太平寺関といい、北陸道に面した太平寺村は戦略的要所であった。関跡の所在として古老の伝えによると、北陸道に沿う稲荷村境い通称四ッ塚と呼ぶ個所であったらしいが、今は何の跡も見ることが出来ない。

 二十、矢矯里

  「廻国雑記」に、加賀国にいたり、云々。

   こよひほ矢矯の里といへる処にやどりけるに、暁の月をながめて、

    『こよひしも矢はぎの里にゐてぞ見る 夏も末なる弓張の月』

  「金沢人酒屋某家伝」に本姓林氏、富樫の末流にして昔、富樫家子兄弟二つに別れ、林の系を継ぎたる中に、兄が子孫は石川郡福留村の邑長林六郎右衛門という。弟の子孫は同郡矢作村へ立ち越し、この村の庄右衛門方に居て矢をはぐ事を業とす。これは天正年中(一五七三-一五九二)のことにて、その後慶長の頃(一五九六-一六一五)の頃に至り金沢へ出で、今の塁屋橋の辺箆倉の地に居て、矢作を業としたるよしいい伝えり。

  「森田柿園按ずるに」此家伝にて見れば、矢矯の邑名は往古よりこの地に矢作人多く居たるよりの村名にて、天正の頃までもなお矯ぎ出したると見ゆ。さてその名残りにてそのさきこの村より、はま矢といふものを作り出したり。

  「古跡考」に、是毎春三月、小児の遊ぶ所にして、その名をはま矢といふ。往昔は矢作村より作り出して売りける故、其村の名として残りたり。今は矢作はすべて八日市村より作り出すといえり。

  「石川訪古遊記」に、

 

 

  「冠辞考」弓削河の註に、職人令、造兵司の下の雑工部の集解に、弓削、矢作などあり。さる手人の住みし所を後に弓削の村、矢作の村などといったのであろう。

  矢作(やはぎ)は訓のとおり矢を矧(は)ぐことであり、「作」を動作にちなんで「はぎ」と読んだのである。「矯」は「ためる」と訓じ、曲がったものを真っすぐにする動作にちなんでやはり「はぎ」と読んだのであろう。種々文献の伝えるように、十六世紀末から十七世紀にわたる頃にこの村で矢が作られていたのは疑うべくもないと考える。さらに林郷の林氏の系で、弟の子孫が同村で矢作を業としたらしいが、林氏家系譜の中に該当するような者も見当たらず、明確でない。また、この村の庄右衛門と称する家の子孫も、現在に至っては古老らに尋ねたが判明しない。天正の頃からは小児の遊ぶ「はま矢」を作り、売り出すと伝えられている。この「はま矢」は「破魔矢」のことであり、子供の玩具として、その「破魔」の呪(まじない)を縁起とし、武人の武器ではなかった。現在でも神社からお護り用に売り出されている。

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富奥郷土史