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==第三節 郷・庄・保==

 

第三節 郷・庄・保

  弘仁十四年(八二三年)加賀国成立時の加賀郡は管郷十六、駅四、さらにその内から石川郡が生まれたが、その石川郡は八郷一駅であった。

   中村郷       拝師郷

   富樫郷       井手郷

   椋部郷       笠間郷

   三馬郷       味知郷

   比楽駅

  その後、加賀郡はさらに河北郡、河南郡に分割され、その郡境の河川流域の変遷により、大桑郷・大野郷・玉戈郷の三郷が新に石川郡に加わり、十一郷一駅と三州志来因概覧に記されている。さらに同図譜村籍(文政前の調べとみられる)には次のとおり十一郷八庄が記録されている。

    ○石川郡

  金浦郷   五村 各村名略

  湯涌郷  十三村 〃

  石浦庄   五村 〃

  犀川庄  十八村 〃

  富樫庄 五十三村 矢作・下新庄・粟田新保・上新庄(外略)

  河内庄 二十五村 各村名略

  林 郷  十九村 太平寺・位川・下林・三納・藤平田・藤平田新・中林・上林(外略)

  押野庄   三村 各村名略

  中奥郷 二十六村 清金(清金新)・末松(轟、たんぼう)(外略)

  山島郷 三十五村 各村名略

  笠間郷   七村 〃

  中村郷 二十六村 〃

  横江郷  十五村 〃

  米丸郷   六村 〃

  大野庄 二十七村 〃

  戸板郷  十二村 〃

  鞍月庄  十六村 〃

  長屋庄  十二村 〃

    右通計三百二十八村

  これ等の郷庄は行政的区画名であり、ほかに地域の通称的郷名や支配所領地としての郷名も多数あった。例えば上林郷、中林郷、下林郷、三林郷などである。又この郷庄区画もその時代により種々に変遷があったが、富奥村の十四ヵ村の兼帯所属は富樫郷(又は庄)・林郷(古くは拝師)・中奥郷(中村郷より分割される、中奥保とも記される)の三郷庄以外の所属についての記録は見当たらない。

 一、富樫郷・庄

  「和名抄」に石川郡富樫「土無加之」

  「光明院実暁記名字部」に富樫「トガセ」とあり、

  「惣国風土記」石川郡富樫「或砥借」公穀七百六十二束、三畝田、假粟六百二十五九、桑、楡、桜、桃、栗、柿等并鶴、鵲、鴎、鷺、鹿、猪革肉を貢ぐ、革は武庫部に献じ、肉は典薬寮に送る。

  考えるに和名抄によれは、上代は「土無加之」といったが、惣国風土記の頃は既に今のように「土加之」といったのであろう。「或砥借」とあるにてはいちじるし。上代は、「富なに」という地名はみな「土無なに」といったとみえて、和名抄、山城国の郷名に富野「止無乃」、周防国に富田「止無多」などがみえる。富樫という地名の起源はさだかでない。

  庄号に転じたのはいつの時代からか明らかでない。推測すると一条天皇の御代に富樫家の祖藤原忠頼が加賀介に任じられ、永任の勅許を受け遂に子孫が土着し、富樫を称号とすると富樫記にみえるので、富樫氏の庄園として代々領したことをもって庄号を立てたのであろう。いま野々市から東南の山の手へかけての五十二ヶ村を富樫庄、あるいは富樫組と称している。また、犀川上山伏宝光寺伝記を考えるに、富樫時貞=(天文四年(一五三五)加賀介、加賀守護)=の時代、富樫一郷の諸杜支配を命じたるという。いま、兼帯する処の三浦・橋爪・同新村・藤平田・同新村・三納・下林・位川・太平寺・粟田・矢作・野々市・同新村・馬替・額新保・大額・額乙丸・三十苅・額谷・四十万・高尾・寺地・円光寺・伏見・山科・法島・泉野・出村・三小牛・平栗・清瀬・小原・倉嶽・堂・後谷の村々に、法久寺の持ち分である窪村を加へ、すべて三十五ヶ村、昔からの兼帯処といった。思うにこれは富樫時代の庄内であろう。だが、三浦村はいま中村郷に属し、橋爪、同新村は中奥郷に属し、藤平田・同新村・三納・下林・位川・太平寺の六ヶ村は林郷に属しているから、これらは後に押領したのであろう。(加賀志徴による)

  この富樫郷は随分古い時代からの名で、加賀志徴によると富樫氏の庄園として庄号を立てたのであろうが、しかし富樫の名は富樫氏発祥前からあって、むしろ富樫と称する地名に本拠を構えたから、富樫氏の姓が生まれたのであろう。即ち、上代の土無加之と称した頃は、富樫氏以前であったわけであるとみるのが至当と考えられる。しかし、庄号を附したのは、庄園にかかるためであろう。日本後紀に記された嵯峨天皇の朝、弘仁十四年(八二三)に、加賀郡管郷十六郷四駅中に富樫郷は数えられていると見るべきで、富樫氏の祖藤原忠頼が加賀介に任じられたのは一條天皇の御代の永延年間(九八七―九八九)である。なお、この富樫庄郷に兼帯するところは富奥十四ヶ村のうち最初は半数以上を数えたが、白山社の神領拡張や、富樫氏の衰退の半面、林郷の伸展などのために常に一定していなかったようである。藩制時代に至り、富樫組として一時(文政四年)十ヶ村を数えたこともあり、明治の代、富奥村成立に際しその命名にも係っている。

 二、林郷

   「和名抄」石川郡拝師。「波也之」

   「三宮記」正和元年(一三一二年)五月十二日、請文、法花不断経田、林郷一町九段、彼岸田、林郷八段、灯油田、林郷六段、新十一面寺、林郷七段、云々。

  考えるに、古郷名の拝師も林であっただろうが、和銅六年(七一三年)の勅によって拝師の二字にしたのを、その後またもとへもどし林字を用いるようになったとみられる。

   「仙覚万葉抄」に、

 

   「出雲風土記」意宇郡拝志郷の下に、

 

  とあれば、この林も往古は樹林などがあって林といったのを、郡郷の名が二字にさだめられた時、拝師の二字にしたとみられる。

   「津田鳳卿の石川訪古道記」に

 

 云々とある。

  思うに和名抄、大隅国贈於郡志麻郷の下注に、

 

 とあるのを見れば、拝師を林の一字としたのもかなり古いことである。

  「和名抄」

 

 

 (加賀志徴巻九)

  この林郷も富樫郷と同様、いや、もっと古くからの称号であろう。和銅六年(七一三)に諸国風土記を撰ずる際に林の一字を二字に改めて拝師、拝志と定めたように石川訪古遊記にも見え、出雲風土記に、

 

 

 と記されている。なお、加賀国の建国の弘仁十四年の加賀郡管郷十六郷中にも、富樫郷とともに拝師郷も数えられているとみられ、古い名である。富樫氏の支流林氏ももちろん、林郷を本拠とした故林氏の姓を称したとみるべきであろう。さらにこの林郷は三林郷・上林郷・中林郷・下林郷の称号の出た源郷でもある。またこの林郷に兼帯する村々は時代により常に変遷があった。地名辞書には、

  「今林村・額村・富奥村なるべし。月橋の北とす。富奥の大字に上林、下林の残れるは本郷の根元なるべし。」

  とあり、中世の古管郷の頃は明確でないが、地名辞書のとおり富奥村の多数村がかかわっていたであろう。藩制時代には林組として、主として富奥村南部の各村がその組下にあった。

 三、中奥郷・保

  「石川訪古遊記」

 

 

  「後太平記。明徳三年(一三九二)正月四日」のうち、及び「本朝武家高名記」雨書とも中典と書いてあるのは、中興の誤りで、字体がよく似ているためである。

  「応永二十一年(一四一四)四月十九日、足利義持将軍、倉光藤丸へ賜わる御教書」に、中奥保内中三町二段、柏野三分二、云々。

  「白山宮荘厳講中記録」正中二年(一三二五)四月四日、臨時祭礼競馬次第に、

 

 

 の事を記して、

 

 

 とある。(加賀志徴)

  石川訪古遊記によると中奥郷は、最初中奥保として中村郷から分割されており、三州志来因概覧に弘仁十四年(八二三)加賀郡管郷の中十六郷の中に中村郷を載せてあるが、中奥保は見えない。即ち、天暦以来は中村郷の内に含まれており、応永(一三九四―一四二八)前に中村郷から分離して中奥保と称したとみるべきであろう。一向一揆の長享二年(一四八八)には既に中奥保として清金村(新村)・末松村(轟田畝垣内)兼帯が記されている。保から郷に変更されたのはそれ以後であろう.また、白山宮荘厳講中記録に中興の文字が記されているが、その由緒もはっきりしない。この郷内に居住したといわれる中興掃部助、中興亀寿丸の姓との関係も判明しない。さらに中典の文字は先考史家の説のとおり全く誤字であろう。この保郷の兼帯村として清金村・末松村があり、藩制時代に至って中奥組として、一時は(天保の組改正)富奥十四ヶ村の半数七ヶ村がこの組に所属したこともあり、明治に入り富奥村成立に際し、その村名の命名にもその一字が引用されている。

 四、上林郷・中林郷・下林郷・三林郷

  「三宮古記」徳治二年(一三〇七)上林郷・中林郷・下林郷と三郷に分出す。降って二百七、八十年の後、元亀(一五七〇―一五七三)、天正(一五七三―一五九二)の頃は、賊魁善四郎といへる者、この林郷を押領して自ら三林善四郎と称す、上林・中林・下林今は林郷内の村の名にあり。

  「三宮記、正和元年(一三一二)五月十二日の文書」に上林郷分、大般若田二町八段、彼岸田四段、燈油田四段、三宮燈油田四段、新十一面寺五段、以上五町、中林郷分、大般若田三町、不断経田三段十五代、彼岸田四段、燈油二段、新十面寺二段、鐘打三段、三宮燈油三段、馬頭堂三段、以上五町十五代。下林郷分、不断経田一町三十五代又一段。

  考えるに、「続日本後紀巻三」に山城国葛野郡上林郷。又「三代実録巻二十二」にも同郡上林郷と見へ、「和名抄」に同郡上林(加無都波也之)下林(元毛都波也之)とあるので、この三林も当然呼ぶべき格であるが、今はとくにとり上げない。

  一説にそのさき、この三林を合わせて三林郷ともいったのでその領主を三林何某と称したといわれている。

  「白山社蔵」

 

 

  玄献は上林の地頭大桑禅門のことだという。

  「白山宮荘厳講中記録」

 

 

 とある是也。

  「白山古文藻」

 

 

  この三村名の郷及び三林郷名は、主に鎌倉末期から戦国末期の文献に見られる。しかもその文献は白山社主体の文献が多く、従来の古い昔からの郷庄の呼称と異り、一時代的呼称の傾向がある。即ち、林氏一族の支配下と、白山の神威が深く浸透し、その社領地であったこと、三林善四郎の繁栄が一代の短い世代であったため、その後の支配者の治政下に残らなかった感がある。しかし、先代の各史家が記すとおり、林郷の最も要所であったことも深くかかわっているのであろう。とくに上林郷には地頭職の館もあり、この三郷には林一族の住居館跡も、各文献に見られるが、現在はその片影も見られない。

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富奥郷土史