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==第六節 さまざまな伝承==

 

第六節 さまざまな伝承

 一、唐戸石

  「石川訪古遊記」に、

 

 

  「柿園説」この石は末松村を離れて二軒村家飛あり。この家より西の方田の中にあり。これを里人唐戸石と称しまたこの石の周辺にある田をば石の唐戸と字せり。およそ石の大きさはさし渡し六尺ばかりの円形の石にて、その正中に直径一尺八寸ばかり、深さ四寸ばかりの穴を掘りたる石也。今片側埋まり、すじかいに残りたる故、石の厚さを見るに四尺ばかりに見ゆ。里人のいえるには、先年松任の住吉社へこの石を寄進せんとて、人夫をかけ掘り出そうとしたが、その石の根はおよそ一丈あまりもあり、人力に及ばずしてやめたり。その時かたがりたりといへり。しかれども今見るところ、さほど根深き石とも見えず。実際は鉢形なる如く見ゆ。云々。能登国鹿島郡所口の近辺にある国分村の国分寺跡なる礎石と見くらべるに、実によく似ていて、石面のくぼんだところは国分村のものよりはこの唐戸石がことにあざやかにして、尻張に彫刻せり。かの国分村にあるのは上代国分寺の塔の礎石也ということなれば、この唐戸石もそういう礎石なるべし。里人のいえるには、むかしこの地に大なる館ありたるよしにて、このあたりにある土地より菱の紋がついた古き瓦を掘り出すこと折々ありといえり。おもうに、これはそのさき大地の遺瓦によってかの法福寺跡といい伝える地とさほど隔てざれば、もしかしたら法福寺という寺の礎石ではなかろうか。

  この唐戸石は発掘された場所と、轟の法福寺廃跡と全く離れており、前述の末松廃寺にかかるものであって、昭和に至り廃寺跡発掘により塔の礎石であることも考古されるに至った。

  なお、この唐戸石にまつわる伝説などもあり後述する。

 二、末松の法福寺廃跡

  「石川訪古遊記」に、

 

 

  「加賀志徴巻九」に轟村の西方にて寺垣内と称し、二百歩ばかりの処、無毛の地なるまま、今もその遺跡ありて、土居の跡なども残れり。この寺は法福寺といいたるよしにて、そのあたりにある田をは法福寺と字す。いにしえ大地なるよしいい伝えり。

  今は地形的に何の影も留めていない一面の水田であるが、田の呼称として「保福寺(ホフクジ)」「寺角(テランカク)」の名が残る地域がある。本村から轟に通ずる道路中間の東側一帯がその場所である。その他「寺田(テラダ)」「堂田(ドウダ)」「明堂(アカリドウ)」「奥堂田(オクドウダ)」「参願田(サングワンダ)」など寺院堂宇にゆかりあるかと思われる地名も散在している。それらと含めて概略推測すると随分大規模な構えの寺院と思われるが、時代考証や由緒など全く伝えがない。

 三、徹通和尚荼毘場

  「舘残翁著加賀大乗寺史」に、延慶二年(一三〇九)九月、徹祖示寂に関して、各仏事例の如く終え、ただちに山門を出て荼毘(だび)場に至り下火の式を挙ぐ。

   荼毘場は今の石川郡富奥村字太平寺ホ二十番地古宇「タビ」という地で、往時供養塔など櫛比荘厳を極めたものの廃絶し、今は大乗開山荼毘の古碑一基が復旧存置しあり。云々。

   また、徹通を荼毘せる曹洞屈指の尊ぶべき遺跡は、現今の石川郡富奥村字太平寺ホ七十九番地にあって、古宇を「タビ」と称す。往古はすこぶる壮厳で境内やここに通じる路傍には供養の碑石羅列し、毎年の孟新盆には大乗寺現住職が威儀を正し、行装厳しく、野々市にある開山塔や白山水の霊地とともに丁重なる回向をなしたり。

   しかるに明治に入り寺運の不振と、時勢の推移により、その地が開墾され、その後土地整理のため、意義ある旧跡もすべて美田と化し、少しも旧観をとどめず。碑石も転々としてその行き先も確ならざらんとす。昭和二年に編者はこれを遺憾として同地の有志に図り、墓碣を捜し出し、同地ホ二十番地に建設復活せしめたり。

  「亀尾記」に、太平寺村の太平寺は禅宗曹洞派にて、明心の開基と云う。云々。今この地に大乗寺開山徹通の灰塚あり。

  舘残翁の記すとおり「大乗開山和尚荼毘墓」の石碑が初めて建てられた字地ホノ七十九番地は美田と化し、さらに最近は宅地造成のためにいよいよ判別出来なくなり、ただひとつ伝えられた石碑だけがかろうじて同字ホノ二十番地(町道中島線の西側緑、部落中程)に建っているだけである。

 四、太平寺の明峰和尚塚

  「宝永地誌」に、太平寺村領の内松林に明峰和尚の塚あり。

  「加越能金砂子、三州道の草、金城旧記、三州旧跡志」などに、

 

 

  「残翁曰く」この時明峰の闍維は永光寺とともに空尽なりしと伝ふれは、霊骨は光禅寺より分骨し奉り、これをこの地に収歛して明峰の墓とし、墓側を守る太平寺の開創と為りたる也。

  「大乗寺史概説」に、明峰も微祖と同じく今の石川郡太平寺の地に荼毘し、同地古字松原(ニノ三十二、ロノ三十二を中心となせる土地)に明峰の古墳ありたるも、今は無し。

  「三州地理志稿」に、

 

 

  観応元年(一三五〇)大乗三世の住持職明峰寂し、その荼毘は開祖徹通の荼毘場であった太平寺村で執行されたことは前記の文献の示すとおりである。松林にその塚ありとのことだが、今はその面影も無く、松林もすでに美田と化し、ただその場所が田地番として語り伝えられているだけである。

 五、太平寺跡

  「大乗寺史概説」に、明峰の高足不借玄位がこの地に太平寺を開創し、大乗開山荼毘の霊躅と、本師明峰の境を守りたるその純孝は讃仰するに足る。今や星移り物かあり、その寺絶えてただ村名に残るのみ。

  「太平寺村古老談」として、太平寺跡、石川郡富奥村字太平寺地内、古字「ラントウ」ク二百二、ク二百三、ク二百四、約六百坪、古字「寺の越」ク二百五より百九まで、千五百坪、このほか「新堂川」および隣村郷村字堀内古字「門の前」と称する地を含む。

  この寺跡は今は全く見られず、明治末期から大正初期に行われた耕地整理の頃は、地形などからその跡が幾分うかがえたと古老は伝えている。

 六、下林の七郎丸地本

  「加賀志徴巻九」三宮記に、

 

 

   ある説に、今諸国の村名に某丸といふもの、皆いにしへその地を領したる人の名にて、名田といふものこれなりといえり。云々。分とは領分ということならむ。

  白山社の神楽舞師の名が七郎丸でなかろうかと記されている。そしてその七郎丸の領有した二町の料田が下林村にあったとのことであるが、他にそのような文献が見当たらない。三宮記の記録に残っているのだから間違いないことであろう。延文四年頃は富樫十七世高家から十八世氏春の時代であり、上林地頭大桑玄猷が白山の神人を制圧することが出来なかったほど白山の神威が堅固な時代である。即ち地頭職を圧するほど神威が林郷の各村に強く浸透していたわけである。

 七、粟田川

  「石川訪古遊記」に、

 

 

  「惣国加賀風土記」に

 

 

  現在の手取川も昔は広い石川平野を地形にまかせて、思いのまま曲折しながら教派にわかれて流れていたらしい。石川訪古遊記によると手取川を白山河と称し、その分流を粟田川と呼んだらしいが、今はその名も無い。藩制末坂尻肝煎の枝権兵衛が白山の安久濤淵の岩山を掘り、トンネルの取り入れ口を作ったのは富樫用水で、その用水路と粟田用水路が伏見川に合流しているなど、全く一致しており、当時は川幅も水量も大きく、引き舟や丸太流しなど鶴来方面の林産物を金沢の城下へ輸送するのに利用したらしい。現在は七ヶ用水中の富樫用水本流としてかんがい水利に供し通称コロ川と呼んでいる。

 八、末松の高野

  「加賀志徴巻九」に、この地は同村領ながら垣内五、六軒の家ありて、それをば轟村と称し、その家腰より往来の左右をば轟野上呼べり。今は社地などわずかな雑木生えたれど、夜中はキツネ、タヌキなどが色々往来の者へ怪異をなすよしいい伝えり。

  この地も明治末期から大正に及び耕地整理が行われ、同時に開田も行われ、今は肥沃な水田が整然と連なっている。この往来と記してあるのは、清金を経て太平寺から北陸道に通ずる通称太平寺街道であろう。またの名を坊主殺街道とも呼んだ。現在この街道は、消えたが、轟の西方、法福寺廃跡近辺と思われる地域には、県立の身体障害者職業訓練所が出来、ケモノなど想像もつかない情景に変わっている。

 九、太平寺街道

  「亀尾記」にこの街道は下林、清金、木津、三反田を経由、三口のわたしを越して、寺井より小松へいたる近道なり。これを僧ころしとも坊主殺し街道ともいう。それは昔賊ありて、この太平寺の僧を殺せしよりの名という。

  この街道は明治の代まで残っており、道路網の開発していない当時は城下町金沢に通ずる重要な道で、地方道路として県道に匹敵する要路であったそうだ。道幅は二㍍足らずで、曲折や上り下りが激しく、路傍のところどころにススキなどが茂った道であったと古老は語っている。

  また、坊主殺し街道というのも異説があって、長享の一向一揆の折、一向宗に味方しなかった寺院の僧侶を捕えて移送、道中殺害した道であるとの伝承もある。また、別に天正年間、佐久間玄蕃盛政加賀国へ来撃の折り、ここで敵対する本願寺の僧侶を殺害した場所であろうともいうが確たる記録はない。

 十、新庄の白山社

  「宝永誌」に、下新庄村領之内に神社あり。白山権現也、養老元年(七一七)に「ぶゑい寺」という真言寺より建立したるよし。飛騨の匠が建てたということで、九尺四方ばかりの社が四十年以前までありたるよし。破損の後は百姓どもより雑木をもって再建したりという。

  宝永元年(一七〇四)より四十年以前は寛文(一六六一頃)の初め也。今この村の産神に神明社也。この社なるか。

  「加越能名勝記」下新庄村に白山権現の社あり、養老年中にフエイ寺という真言の寺より建立ありし由。飛騨の匠が建てし由にて、九尺四方の社が寛文の初め頃までありしと也。破損以後、雑木をもって百姓共建置き申す由。

  以上の文献に記されているだけで、なんら考証の資料も見当たらない。また、古老などのいい伝えもなく、当区鎮座の神社は現在菅原神社である。

 十一、新庄の棺石

  「石川訪古遊記」に、

 

 

  この石棺とは石で作られた箱のようなものと辞書にあるが、いかなる物か詳細に知る由がない。ただ「居民之を発し風雨起こる。懼(おそ)れ止む」と記されているから、多分神仏に関係するのではないかと推察される。たまたま上新庄の氏神富樫郷八幡神社境内の一隅に、石造り箱型の小祠を発見、扉を開けて見たがなんら安置されておらず、村の伝えによると神社に合祀したらしい。即ち水田底から発掘された石棺がこの石造りの小祠とも考えられる。

 十二、矢作の早作瓜・茄子

  「宝暦十三年調帳」によれば

 

 

  小堅瓜とは学名「しろ瓜」。俗名「かた瓜」。即ちしろ瓜の小型のもので、案外早生種のものであろう。皇国地誌の矢作村物産として、「産額二百六十個、種類三十苅等」とあり、あるいはこの品種かもしれない。茄子は「産額八百八十個」とあり、とくに当時は促成栽培法などの技法や設備があったわけでなく、麦畑の間作で播種育苗し、夜間はわらづとでおおって保温し、極く薄目の人糞尿を上手に使い、生育を促進すると早穫りが出来たらしい。この矢作村は昔から野菜作りが得意であったらしい。宝暦十三年(一七六三)調帳だから、今から二百余年前、藩制中期の頃である。これらの早作りの瓜や茄子は尾山城下の武家台所で多分に珍重がられたことであったろう。

富奥郷土史