<< part3へ [part4]

==第四節 富樫氏の盛衰と一向一揆==

 

第四節 富樫氏の盛衰と一向一揆

 一、富樫氏の起源と繁栄

  富樫氏の祖先といわれる鎮守将軍藤原利仁は千余年前、昌泰、延喜の頃(九〇〇余年、醍醐天皇)の人で、その子次郎叙用が初めて加賀に住み、富樫氏をおこした。その孫の忠頼は加賀介(国司の次官で在庁官人)に任ぜられ、加賀国に赴任して国務に専念した。(その任地は不明だが、富樫の地名が今に残る地域らしい)三ヶ年の任期を終え、都に帰任すべきであったが、その任地の人達が彼の徳を惜しんで重任を乞うたので、さらに三ヶ年再任されたが、信望いよいよ厚く、遂に長徳元年(九九五)永住の勅許を受けた。忠頼は都から下った貴族出の身分であり、地方豪族より一層権力が強く、土地の大小豪族や百姓を引きつけ、一方荘園の領主である都の有力者との関係を巧に利用して一族の所有地や支配力を広めることが出来た。累代世襲し、富樫庄に城郭を構え、(城跡不明)またその子孫も多くの諸族を生み、一族同門国内に繁栄するにいたった。

  家国(七世代)の代に至り、富樫介と称し、野々市に府を構えた。泰家(十二世代)は治承四年(一一八〇)木曽義仲が北陸道から都へ上る道中、倶利伽羅、篠原の合戦に、分家支流である林氏(六郎光明)とともに一族の勢力を挙げて義仲に加勢し、平家軍を敗走させた功績は大きい。加賀武士が世にあらわれたのはこれが初めであるといわれている。文治元年(一一八五)平家が壇浦に滅ぶとともに、頼朝は守護、地頭を設けた。泰家はまず左衛門尉に叙され、加賀の守護職に任じられたと伝えられる。(異論もあり明確でない。)勧進帳で有名な安宅の関の物語もこの頃である。

  高家(十七世代)の代に至り、足利尊氏から守護職世襲の教書を受け、応永二十一年(一四一四)室町幕府成立後清春(二十一世代、義満の一字を賜う)は名実ともに加賀一国を支配する守護大名となり、富樫氏最盛時代を迎えた。

 二、富樫介・林介

  「統太平記巻九」往昔、武家に八介を定め置かせられたり。所謂八介はまず、出羽に秋田城介、坂東には相州に三浦介、両総に千葉介、上総介、これを三介と号す。そのほか伊豆に狩野介、遠江に井伊介、加賀に富樫介、周防に大内介是也。云々。

   考えるに八介といふも、皆其国の郡郷の名にて、云々。

   わが加賀国においても、富樫介、林介、板津介、白江新介などが見える。中にも林六郎光明が祖先貞光、「加賀介、林介と号す」とあるのをみれば、元国介より出たる称号なる事とも聞こえしかど、なおよく考えるに、元はさもあれ、既に鎌倉の時代に至り、武家が起こりてよりは、国介に擬し、各居住する地名に介とふ言を加へて称したるにや。                             (加賀志徴巻九)

 三、一向一揆と富樫氏の衰亡

  満春(二十一世)の子教家(二十二世)は早世。その嫡子成春(二十三世)は叔父の泰高と守護職争いで富樫家は二家に分裂、成春の嫡子政親(二十四世)二男幸千代ともに幼く、一女は加賀本願寺派と対立する高田の専修寺に嫁した。泰高は政親を養子に迎え、和解したようだが、政親、幸千代の兄弟がまた相争うようになった。一方、都では応仁の乱の最中であり、また、文明三年(一四七一)本願寺八代法主蓮如の代に至り、上人自らが加賀国にきて、精力的に布教活動を展開、仏教王国と称せられるほどに本願寺派の勢力は教義とともに百姓大衆にまで浸透して来た。蓮如の三男蓮綱は波佐谷の松岡寺に、四男蓮誓は山田の光教寺に、七男蓮悟は若松の本泉寺の住職となる。これを三山と呼び、最も本願寺派の勢力を強化していた。即ち、専修寺派に寄った幸千代は圧せられ、さらに守護職の権限が弱体化されるのを案じた政親は本願寺派と対立し、結局、宗門本来の争いと、富樫氏本末間の権力争い、さらに郷侍の抬頭とが結合して、我国でも類のない一向一揆が勃発するに至った。時は長享二年(一四八八)五月十日、野々市大乗寺の本陣には叔父の泰高が迎えられ、高尾城の政親に対し一斉攻撃が開始された。この戦いは全く今日でいうクーデターと同様、被支配者が支配権力者を排除するもので、時代的に全く奇想天外の感がある。政親は高尾山上の露と消え、その将臣矢作村の藤岡伴道氏も討死した。何分にもこの一揆にかかる騒動は、支配階級として最も警戒することであり、後世にその禍根を残さぬために刀狩りとともに、種々の記録文献や伝承までも消滅させたのであろう。しかし、わずかの文献によって考察を試みると、まず矢作から粟田に達する諏訪野森には宇津呂備前の率いる五千人の大軍が陣を敷き、額谷口には大窪道長の率いる河原組の大軍が集結し、(安吉城から本村を通って進軍)郷土の百姓衆のほとんどが一向宗徒とあっては、好むと好まざるとにかかわらず、何らかの形でこの一揆に関係したと考えるのが至当であろう。

  忠頼が一条天皇の永延元年、加賀介として下国して以来五百有余年間、郷土の支配権を持続して来た富樫氏も、二十四世政親の代に至って遂に事実上の滅亡となった。その後加賀国は享禄、天文の乱と本願寺内の波乱を経て、八十年余の間、尾山御坊を中心とする本願寺の治政下にあり、織田、豊臣、徳川の天下統一事業を経て、江戸幕府下の薄制時代に入った。

[part4] part5へ >>

富奥郷土史