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==第二節 公民館と村==

 

第二節 公民館と村

 一、村役場内に事務所

  初めて公民館が出来た時は、役職員の関係とか、建物の都合とか、経費の工合いとかがあって、独立した事務所を置くことが困難であった。このため村役場の隅に小さい書類だなをおいて事務をとることにしてあった。従って役場に富奥公民館の事務所の標札がかかげられたのであって、発足当時は書類といっても文書綴りがあって発信類と受信類に役職員名簿が綴り込まれたものであった。

 二、聖農修練舎を公民館活動の場とする

  わが富奥で聖農修練舎として使用した建物は、明治四十年頃、今から約六十五年ほど前に、時の第三代村長小林栄太郎が交通不便な時代に、優秀な教員の誘致および優遇施設として教員住宅に建設したものである。それが鉄道馬車から電車、さらにバス、あるいは自転車や自動車と交通機関が発達して、通勤が便利になってからは、順次宿泊する人が少なくなり、従って利用度の低い建物となってきたのである。しかし、戦後でも雪の深い時には金沢市をはじめ、遠い所から通勤された先生方がこの施設を利用して泊っていた。

  この教員住宅の半分を聖農修練舎と称して、もっぱら篤農青年の養成に利用してきたのである。建物は木造かわらぷきで、部屋の広さは三十畳くらい。このほかに床の間、押し入れ、便所をつけた建物であり、この農民道場「聖農修練舎」は昭和十二年三月、当時農会長で青年篤農家であった中島栄治氏(前野々市町長)によって創設されたものである。

  この聖農修練舎には次のような舎訓が示されていて、この道場に集まる人々はこれをよく守り、後日、富奥村を背負って立つ人材が数多く出た。

   舎訓

 一、一円融合  二、報恩感謝  三、努力奮闘  四、物心一如  五、研究改善

  事業としてはおおむね次のようなものが行われた。

  1、富民研究会例会(毎月一回) 

  2、青年学校一夜講習会 

  3、農事研究発表会

  4、輪読会 

  5、常会(毎月一回)

  婦人会=婦人会託児所、料理研究発表会、家事講習会

  青年団=農事座談会、勤労作業、合宿講習、農業経営改善講習会

  以上のように建物は利用され、こうした伝統と歴史をもつ建物を、公民館が発足当時からこの施設を転用して公民館活動の場としたものである。だからわが公民館は出来ると同時に独立の施設を持った。狭いながらも青空公民館ではなかったことだけは心強かった。青年や婦人の集いの場として、住民の憩いの場として、よく利用されてきたのである。

 

 三、「村の家」運動

  「村の家」は聖農修練舎の姉妹施設として、昭和十一年にはじめて当時の農会長中島栄治氏によって作られたもので、この部星の広さは畳十枚の小さい室であるが、特色として農村の更生と農民の修練は「イロリ」を中心とする家族的会議からとして、「村の家」が必要であると見たところにある。イロリには当地方の農家をしのばせる鯉の形をした自在があり、昔の茶がまをつるしてお茶を入れたものである。

  「村の家」運動のねらいは、打算的智農主義から義農的力農主義によるべく、農民精神の作興を図り、真の農民の天職を認識せしめ、確固たる人生観を把握して不動の農村振興をしよう、という点にあったのである。そのために毎月一回集会を開いて、村民の融和、村の政治、郷土産業、村の経済、村の教育、村の文化などについて、集まった人々、とくに青壮年によって意見交換が行われ、隔意のない語り合いが行われ、それが郷土の発展に貢献したものであった。

  聖農修練舎と村の家は二つにして一つの共通の認識をもって、共同目的の達成に向かって進められたものである。この運動は昭和十一、二年頃から終戦に至るまでの約九年間、村の生産教育を主とする社会教育の中核体としての役割を演じて、村の向かうところを示し、村民の指導に当たってきたのである。この間には支那事変があり、大東亜戦争があって、高度国防国家建設のために尽くしたものであることはもちろんである。こうして国家危急存亡の秋を切り抜けてきたことは、われわれの記憶から永久に離れないであろう。

  この由緒ある「村の家」もわが公民館発足と同時に、聖農修練舎とともに公民館の施設として活用することになったのである。

 

 

 四、篤志家志村三次氏とわが公民館

  富奥村が生んだ郷土の出身者で現在は大阪市に在住(昭和四十六年八月死亡)の立志伝中の人、東洋洋傘株式会社社長志村三次は富奥村字下林の志村弥三郎の三男に生まれた。小学校五年まで富奥小学校の児童として教育を受け、幼少にして大阪に働きに出かけ、洋傘関係の問屋に勤め、その後つらい生活をなめ苦心と苦労を重ね、ついに東洋洋傘株式会社を経営するように大成、その社長となり、大阪実業界に重きをなす存在として尊敬された一人である。

  その志村三次が小学校時代のことを思い起こして、当時の恩師二羽校長の教訓が自分を今日あらしめるに至ったと感激し、その恩師の御恩に報いる意において昭和十六年に「健民館」(現在の公民館)を富奥村の要請に応じて快く寄付されたもので、当時村民から志村さんに対して深い敬意と感謝の念が捧げられた。

  この近代的装備をこらした建物は、健民館として利用され、戦時中から戦後にかけて日本医療団の経営する診療所として利用され、昭和二十八年からは石川郡中央病院の出張所として使用されてきたものである。それが石川郡中央病院富奥診療所が新築されたので、昭和二十九年四月一日から富奥村公民館としてこの意義深い由緒ある建物を活用することになったものである。

  わが村ではこの公民館にふさわしい建物をもって公民館運動を行うことになったので、活動はしやすく、利用は盛んになり、村人からは喜ばれ、その成果は大いに見るべきものがあった。

  この建物のおかげで公民館活動が適正に行われ、富奥公民館は郷土社会の生活文化の振興と社会福祉の増進に貢献する所が大であるとして、文部省及び県教育委員会からそれぞれ昭和二十九年十一月に表彰を受けることができた。この功績はわが郷土のある限り永遠に伝えられることである。

  ただ、この歴史ある建物も三十数年たった今日では内外ともに老化し、その機能に支障をきたすようになってきたので、昭和四十七年に内部、四十八、九年に外部の大改修をし、面目を一新した。

  これは地区民の声援が町当局を動かしたのであるが、町教育委員長中野久男、教育長中田哲、社会教育課艮佐久間由孝、町議会議員作田庄一、竹内恍一、松村功、西村康賢、西本敏雄、西尾忠の各氏の御尽力があったことを記し、地区住民と共に感謝の誠をささげたい。

 

 五、学校統合と公民館

  昭和三十年富奥村と野々市町の合併がなり、一町一学校がとなえられ、またこれが学童教育上最もふさわしい姿であるとの指導により、伝統ある富奥小中学校も廃止統合にふみきることになった。

  かねてからわが公民館では施設の充実が望まれており、小中学校が統廃されるのなら今まで使用して来た由緒ある作法室を公民館の一部にと、全地区(富奥)あげての運動となり、その敷地として明治四十年代に建設された聖農修練舎が古くなってきたのでこれを取りこわし、この地に設置が定まり、現在の公民館の大広間として、社会教育の場として数多くの人々や団体が使っている。

 六、町村合併と公民館

  昭和三十年四月一日から時代の要請である町村合併によって隣の町であった野々市町とわが富奥村が対等合併を行い、ここに一町一村からなる人口六千余を数える新興野々市町が誕生したのである。そこでわが公民館も新しい野々市町の公民館としての第一歩を踏み出した。そして新たに野々市町公民館設置条例を次のように作った。

  野々市町公民館設置条例

  (設 置)

 第一条 社会教育法第二十一条第一項の規定に基き、本町に公民館を設置する。

  (名称及び位置)

 第二条 前条により設置する公民館の名称及び位置を次のように定める。

    野々市町野々市公民館(野々市町オ八番地)

    野々市町富奥公民館 (野々市町字中林チ七十八番地)

  (職 員)

 第三条 公民館に左の職員を置く。

     館長 一人  主事 一人  書記 一人

  (運営審議会の委員)

 第四条 法第三十条の規定による公民館運営審議会の委員の定数は、野々市公民館にあっては十二人、富奥公民館にあっては八人とする。

     委員の任期は一年とする。

     委員の費用弁償については旅費支給条例を準用する。

  (本条例の実施に必要な規則)

 第五条 本条例の実施に必要な規則は別にこれを定める。

   付 則

   1、この条例は公布の日から施行する。

   2、野々市町公民館設置及び使用条例(昭和二十三年野々市町条例)及び富奥村公民館設置条例(昭和二十四年富奥村条例)はこれを廃止する。

   3、この条例施行の際、現に委員の職にある者の任期は第四条の規定にかかわらず昭和三十一年三月三十一日までとする。

   この条例は昭和三十年八月十八日、野々市町条例第五十六号として公布。 以上

  この条例によってわが公民館は合併以前と同じように、旧富奥村を対象とした独立公民館として、野々市公民館とともに新しく形成された野々市町の社会教育の振興に当たることになった。

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富奥郷土史