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==第六節 各種社会教育団体==
一、青年団
時代ははっきりわからないが、昔から富奥には各部落ごとに若連中または「若い衆」という青年の集団があった。八、九歳から十四、五歳までの子供連中で別名「前髪若い衆」と呼ばれ、使いの小走り、ゲタの整理、さら洗いなど年長者の命に服していろいろな雑役にあたった。また十四、五歳から三十歳までは若連中、または「若い衆」と呼ばれていた。この「若い衆」は部落にとっては頼もしい存在であって、一朝有事の際にはそのあふれ出る活動力に物をいわせて大いに郷土のために立ち働いたもので、時には厳然とした長幼の秩序とそれにともなう制裁があった。部落内の適当な家(主に分家して世帯をもった世帯出、新宅)を若衆宿(わかいしやど=青年娯楽部の前身)として集まり、雑談にふけったり、碁や将棋などをし、笛や太鼓をならし、尺八を吹き、三味線をひき、音楽をたのしんだものである。時にはそれぞれが家庭から野菜やニワトリなどを持ちより「カクセツ」といって会食をし、大食いの「カケゴト」をして遊び興じた。また、神社の奉仕作業をし、夜学会を開き、その他団体的事業を受け取り、これを行うことを常とした。
梅雨が上がって夏の土用になると、部落の大太鼓を持ち出し、締め直し、毎晩のように虫送り太鼓を打ちならし、年長者は年少者に打ち方、荷ない方、あるき方など教え、自分の部落の「虫送り」から近村(部落)へまで出かけ、太鼓を打ち鳴らし、鳴りや打ち方を争い合ったものである。後にはだんだん村一円の行事となり、明治三十年頃に結成された富奥村青年会がこれを取り上げ、会唯一の行事となった。夕やみせまる頃から各部落より各々太鼓を打ち鳴らし「タイマツ」をともし、行列をつくって自分の部落の田を回り、だんだんと中央(小学校々庭)に集まり「大かがり火」を中心に太鼓打ちを競い合い、終わって、虫送り角力(草角力)を開いた。これが今日も続いている富奥の虫送りであり、虫送り角力大会の前身である。
また、盆には踊りが立ち、秋祭りには「シシ」や「ギオンバヤシ」を出して豊作を祈り、豊作を祝った。とくに粟田のじょんから、上林のじょんからと、歌のふしや踊りに特有なのがあり今日まで残っている。
「若衆報恩講」といって毎年十一月から十二月にかけて、各部落で若い衆自らの手で報恩講が行われた。毎年、新入団員にお経を教えるためにお経の先生をまねき、正信偈の練習をし、習ったものである。戦争末期には物資の不足や団員の減少で、戦後は仏心が衰え、社会情勢が変化して、若い衆自らが勤めることが少なくなり、いつとはなしに部落の行事となって続いているところが多い。
大正五年六月十五日、各字支部を廃し初めて富奥一円を統一した富奥村青年団が設立し、国、県、郡、村と系統ある団体として結成され、青年団活動は国家に通じるものとなった。
上からの指導の下で結成された青年団であるから、団長は小学校の校長、副団長は学校の先生であり「官制青年団」という批判と混乱が起こった。富奥青年団では大正九年十二月、他に先がけて「半自治制」をしき、団長は従前どおり小学校長、副団長は団員から選出し、村からの援助を受けながら団員自ら運営にあたった。時の団幹部は次のとおりである。
団 長 小学校々長 村北栄太郎 副団長 中島喜寿
庶務部長 宮川隆正 学芸部長 宮崎吉良 運動部長 石尾徳二
産業部長 橋田兼一 会計部長 中村精憲
その事業とするところは主に講演会、合宿講習会、軍隊慰問、社会見学、娯楽会、敬老会、弁論会、虫送り、角力、剣道、体育会などである。特筆すべきは角力、剣道、弁論が得意で「天下の富奥」と謳歌された時代があり、角力、では石尾徳二、藤田永三、西尾守知、佐久間由秋らが強く、各地大会に出場し、郡下では常に一位となり、石川郡代表として唐戸山大会に数年連続出場した。その応援に団員はもちろん、村長をはじめ村の有志多数(常に五、六十名)が遠く羽咋までも徒歩で出かけ、声をかぎりに応援をした。その時の応援団長に竹内一朗、宮川隆正、それにリーダー格に松任農学校仕込みの中島栄治、この三氏によって整然とした応援が行われ、統制のとれた勇壮な「富青団歌」を謳歌したものである。時にはその余勢をかって和倉温泉まで行軍をし、古源栄次郎村長さんを中心に富青の前途を祝し、郷土富奥の将来を夜を徹して語り合ったというエピソードも残っている。
社会教育が重視されてきた結果、明治四十二年一月十日、当時の小学校長丹羽清吉氏が学友会を組織し、毎年二、三回の話会などを開いて青年修養の場が初めて持たれ、明治四十五年一月十日の総会において各字に支部を設け、一層その発展に努められた。
大正三年に講話会、運動会、産業品評会などを催し、補習夜学を奨励し、漸次青年団設置の基礎が固められた。
表 彰 状
石川郡富奥村青年団
団員輯睦シテ克ク修養ニ務メ施設亦宜シキニ適シ其ノ成績見ルへキモノ尠ナカラズ仍テ奨励金五拾円ヲ授与シ茲ニ之ヲ表彰ス
大正九年二月十一日
石川県知事従四位勲三等 土岐嘉平 印
一方、剣道も盛んで、中林道場出身の中村精憲をはじめ石尾徳二、田中初治、西川次一、宮川隆正らが各地、各団の大会に出場して、多くの優勝を獲得した。大正末期から昭和の初めにかけて各青年団に弁論大会が盛んになり、西野与作、中島栄治らが各地の大会に出場し、多くの賞を獲得、その気風は団の後輩にも良い刺激を与えた。このこと即ち団結心の強固、出席率の大なることの二点が認られ、大正九年二月十一日に石川県知事の表彰同十二年三月には内務、文部両大臣表彰を得、名実ともに全国一の青年団として認められたのである。以来団員の意気があがり、結果は実にたのもしいものがあった。
表 彰 状
石川県石川郡富奥村青年団
修養ニ関スル施設並訓育ノ状況其ノ宜シキヲ得成績顕著ナリトス依ツテ其ノ賞トシテ金五拾円ヲ交付ス
大正十二年三月二十七日
文部大臣正四位勲二等 鎌田 栄吉 印
内務大臣従二位勲一等 水野錬太郎 印
青年団活動が盛んになるにつれて、自治青年団という名のもとに団長を団員の中から出そうという機運が高まり、わが富奥青年団でもいち早くこの機運にのり、昭和二年八月の総会においていよいよ団長を団員中より選ぶこととなり、初代団長には宮川隆正氏が選出され、待望の自治青年団が生まれたのである。
昭和六年には満洲事変が起こり、戦争の危機をはらんだ時勢は緊張の一路をたどり、国防国家の思想は年とともに強化され、青年団活動も国の要請に率先協力の姿をたどった。
青年団結成以来の団長は次のとおり。
村北栄太郎(小学校長)、古河徳吉(同)
昭和二年自治制初代 宮川隆正
三代 竹内一朗
四代 新明修二
五代 仏田勝政
―数代不明― 神田直信
昭和九年 藤井善治(副団長作田庄一)
同 十年 谷 孝正(同 島崎一之)
同十一年 堀江秀吉(同 山口他吉)
同十二年 長納外行(同 土田 勉)
同十三年 村太武範(同 上野由雄)
同十四年 中野助盛(同 吉村音雄)
同十五年 上野由雄、金村信哲(同 中島 潔)
同十六年 小学校長兼任前田資智(同青年学校指導員 東 周二、部長 中島 潔、青年学校教員 岡田一郎)
世をあげて非常時体制下に突入、戦争遂行のためか各役員は年配の公職者となり、団の編成は六つの部を設け、各部長に初めて団員が就任しているありさまで、現在その事実をふり返ってみると異様に思う外ない。そうして富奥の各部落を九つにわけ、九班を作り各班長を設けた。
昭和十七年団長 川口源太郎(小学校長)、副団長 東 周二、部長 村井幸次郎、岡田一郎、
同 十八年団長 川口源太郎、副団長 稲垣太十丸
その当時の盆踊りは皇国農村富奥音頭を作詞し(曲はじょんから節の替え歌)大いに食糧増産に、戦争に勝ち抜くためにがんばったことがうかがわれる。昭和十八年以降は戦争末期のため記録がなく記述することが出来ないが、昭和十五年「紀元二千六百年」「令旨奉戴二十周年」奉祝大日本青年団動員大会が全国を三部(東部、西部、北部)にわけて開かれた。これは愛国精神を昂揚し、大陸発展の気魄を旺盛ならしめ、興亜青年道に直進せんことを誓うとともに、戦時下における青年団体制に新しい秩序を植えつけて、真に国家の負担に堪え得る全国一体の青年組織に組み替えるためであった。(本団は北部大会に村井幸次郎が参加)また、昭和十四年には興亜青年勤労報国隊が結成され荒漠千里の満洲国の開発に全国青年団代表が送られた。本団からは十四年に西本敏雄、中村朝雄、十六年に中島潔を送った。
昭和二十年八月十五日、記念すべき終戦の御詔勅が降った。戦争は終わった。応召していた青年は解放され、続々と村に復帰した。なつかしの郷里に帰ってみると土地は過度に酷使したためにやせ衰えているし、作物は肥料不足で十分な成育を遂げることができないありさまである。従って食べ物は不良して住民は栄養不足に陥り、国民保健上憂うべき現象を呈していた。さらに人心は不安と動揺に襲われて、道義人倫は地を拂い、社会人心はなんともいいようのない荒れ果てた姿となった。戦いには敗れ、土地は荒れ、人心までが暗く荒れ果てている。これではならない。われわれ青年の力でなんとかして家を興し、郷土を建て直し、新しい解放された気持で新しい祖国日本を築こう。そうした気分が応召から帰って来た青年の等しく抱いた心境であった。この同志同憂の青年が顔を合わすと「どうだ。われら青年の力を結集して新しい村造りをやろうではないか。この現状には忍び難い。そのためには一つ青年団を作ろうではないか」と、先に帰郷した青年から次々と帰る者が意気投合してここに新森晃、中村朝雄、小林喜一、宮岸伝次、小林孝次、山原タケシ、西本敏雄、小林巌らの青年が相集まって青年団組織の話が持ち上がった。そして長年の伝統と歴史をほこる富奥青年団が、その年の碁の十二月十三日午後三時から富奥村国民学校作法室(現公民館大広間)において復活、記念すべき晴れの民主青年団の結成式が行われた。それは感激に満ちた歴史的光景であった。
石川県富奥青年団々則
第 一 章 通 則
第 一 条 本団ノ目的及ビ綱領左ノ如シ
1、目 的
本団ハ団員ヲシテ国民ノ本義ヲ体シ品性ノ向上ヲ図リ体力ヲ増進シ実際生活ニ適切ナル智能ヲ磨キ以テ民主主義日本ニフサワシキ善良ナル公民タルノ素養ヲ得セシムルヲ目的トスル
2、綱 領
イ、我等ハ日本国民ノ本義ヲ体シテ日本古来ノ美風ヲ遵守スルコト
ロ、品性ノ向上ヲ図リ質実剛健ノ気風ヲ養成スルコト
ハ、運動ヲ励ミ衛生ヲ重ジ体力増進ヲ計ルコト
ニ、実生活ニ適切ナル智能ヲ練磨シ以テ国家ノ発展ヲ推進スル精神ト素質トヲ具備スルコト
第 二 条 本団ハ富奥青年団ト称シ富奥村ヲ以テ設置区域トスル
第 三 条 本団ノ事務所ヲ富奥国民学校ニ置ク
第 四 条 本田ハ第一条ノ目的ヲ達スル為メ左ノ部ヲ設ケ概ネ付記ノ事業ヲ行フ
1、庶務部
会議ニ関スル事項事務、施行事業ニ関スル事務、団員ノ入退団、道路指導標ノ補繕修理、団永久記録ニ関スル事務ソノ他第一条ノ目的ヲ達スルニ適切ト認メル他ノ部二属セザル事項並ビニ事務
2、会計部
本団ノ一般会計、特別会計、団員貯金、基本財産保管及ビ其ノ事務、其ノ他会計一般事務
3、産業部
稲作増収研究、自給肥料ノ増産及ビ利用研究、病虫害予防駆除、副業ノ研究、品評会、産業ニ関スル講演会、農事講習会、農事視察、ソノ他産業ニ関スル一切ノ事項
4、文化部
文化講演会、輪読会、討論会、講習会、敬老会、盆踊、団報発刊、図書館ノ利用、農村文化向上研究会、農村娯楽ノ建設研究、見学等文化事業一切
5、体育部
体育競技会、村民体育大会、虫送、相撲、水泳、遠足、登山
第 二 章 団 員
第 五 条 本団ノ設置区域内ニ住居スル満十四歳以上満二十五歳以下ノ男子ヲ以テ団員トスル
第 六 条 団員ノ入退団期日ハ毎年四月一日トスル
第 七 条 本団員ハ本団役員選挙ニ参与シ役員ニ選挙セラレル権利ヲ有スル
第 八 条 総会ニ於テ本団員ハ発言権ヲ有シ団長ニ対シ意見ヲ求メルコトヲ得
第 九 条 団員ハ団長ノ指揮ニ従フノ義務アリ
第 十 条 団員ハ本団経費ヲ分担スル義務アリ
但シ特別ノ事情アルモノハ役員会ノ決議ヲ以テ団員負担ヲ軽減スルコトヲ得
第十一条 団員ハ本団役員ヲ担任スル義務アリ
第 三 章 役 員
第十二条 本団ニハ左ノ役員ヲ置ク
団長一名、副団長一名、部長各部一名、副部長各部一名、分団長各部落一名、
顧問若干名、参与若干名、理事一名、其ノ他必要アレバ団長臨時委員ヲ任命スル
第十三条 団長ハ団員中ヨリ団総会ニ於テ選挙ス
副団長ハ団員中ヨリ総会ニ於テ選挙ス
各部長、副部長ハ団員中ヨリ総会ニ於テ之レヲ選挙ス
分団長ハ各分団ヨリ之ヲ選任、総会ニ於テ之レヲ決定ス
顧問ハ村公職者各種団体長及ビ団先輩中ヨリ役員会ニ於テ選任、総会ニ議決ノ上委嘱スル
参与ハ富奥国民学校職員ヲ以テ之レヲ委嘱スル
理事ハ青年学校教師ヲ以テ之レニ当ル
第十四条 団長ハ団務ヲ処理シ団ヲ代表ス
副団長ハ団長ヲ補佐シ団長事故アル時ハソノ職務ヲ代理スル
各部々長ハ団長ノ命ニ依リ所管事務及ビ事項ヲ処理スル
副部長ハ部長ヲ補佐シ部長事故アル時ハソノ職務ヲ代理スル
分団長ハ各分団(区)ニアリテハ団長ノ指揮ノ下ニ団務ヲ処理シ団ノ本部ニアツテハ各部々長ヲ補佐シテ部務ヲ遂行スル
第十五条 役員ノ任期ハ一ヶ年トスル、役員ハ任期満了後ト雖モ後任者ノ就任スルマデ其ノ職務ヲ執行スルモノトス
第十六条 役員ハ凡テ無報酬トスル
第 四 章 会 議
第十七条 会議ヲ分チテ総会及ビ役員会トス、必要ニ応ジテ役員会ヲ開クコトヲ得
第十八条 総会ハ通常会及ビ臨時会トシ通常会ハ毎年三月中旬及ビ四月一日ノ二回之レヲ開ク
臨時会ハ必要ナル場合之レヲ開ク
第十九条 総会ニ於テ行フべキ事項左ノ如シ
1、歳入出ノ予算報告ニ関スルコト
2、決算報告ニ関スルコト
3、不動産ノ処分並ビニ買受譲受ニ関スルコト
4、団則ノ改正ニ関スルコト
5、役員ノ選挙ニ関スルコト
6、重大案件ノ審議
7、其ノ他団務ノ報告ヲナスコト
第二十条 役員会ニ於テ決議スべキ事項左ノ如シ
1、総会ノ議決ニ附スベキ事項ノ審議ニ関スルコト
2、財産ノ管理処分ニ関スルコト
3、歳入出予算及ビ団経費ニ関スルコト
4、各部二属スル事項ノ立案計画及ビ実行方法ニ関スルコト
5、其ノ他団長ニ於イテ必要ト認メル事項
第二十一条 総会及ビ役員会ハ団長之レヲ招集スル
第二十二条 総会及ビ役員会ハ団長ヲ以テ議長トスル、議長ハ議事ヲ整理シ会議ノ秩序ヲ保持ス
第二十三条 総会ハ団員総数ノ三分ノ一以上ノ出席スルニアラザレバ開クコトヲ得ズ、但シ急施ヲ要スル場合ハコノ限リニ非ズ
第二十四条 議事ハ出席者ノ過半数ヲ以テ決ス、可否同数ナル時ハ議長ノ決スル所ニ依ル
第 五 章 会 計
第二十五条 本団ノ事業年度及ビ会計年度ハ毎年四月一日ニ始り翌年三月三十一日ニ終ルモノトス
毎会計年度所属ノ歳入歳出出納ニ関スル事務ハ其ノ会計年度内ニ完結スルモノトスル
第二十六条 本団ノ経費ハ団財産及ビ団員ノ勤労ニヨリ生ズル収入並ビニ一定額ノ団費ヲ徴収スルヲ以テ之レニ充ツ、尚不足アル時ハ其ノ事業施行都度臨時徴収スルコトヲ得
第二十七条 毎会計年度ニ於テ本団ノ経費ニ充ツル所ノ定額ハ其ノ年度ノ歳入ヲ以テ支弁スべシ
第 六 章 雑 則
第二十八条 本団ニ左ノ帳簿ヲ備ヘルモノトスル
第一類 基本財産台帳(紀元二千六百年記念植林ニ関スル書類)
経費出納簿、慶弔会計簿、領収証綴
第二類 沿革史、団所有帳簿台帳、団則及ビ諸規定綴、団員名簿、往復書類綴、
施行事業記録、役員名簿、会議録、施行事業参考書類綴
第二十九条 本団々則実施ニ関スル必要ナル規定ハ別段ノ定メアルモノヲ除ク外ハ役員会ノ決議ヲ経テ団長之レヲ定ム
第三十条 本団ハ別二慶弔規定ヲ設ク
第 七 章 附 則
第三十一条 本団々則ニシテ改正ヲ要スル場合ハ総会ヲ開キ之レヲ定ム
この団則の外に慶弔規定を定めて後団則に依り役員選挙の結果次のように決まった。
団 長 新 森 晃
副 団 長 宮 岸 伝 二
理 事 宮 崎 一 郎
庶務 部長 小 林 喜 一 同 副部長 西 村 栄 吉
会計 部長 山 原 タケシ 同 副部長 中 野 久 男
産業 部長 小 林 孝 次 同 副部長 中 村 安 栄
文化 部長 中 村 朝 雄 同 副部長 中 村 一 郎
体育 部長 小 林 巌 同 副部長 西 尾 忠
分 団 長 西 忠 雄 (中 林) 栗 山 直 二 (末 松)
西 本 敏 雄 (上 林) 西 尾 忠 (上新庄)
西 村 信 一 (下新庄) 中 村 朝 雄 (粟 田)
中 村 本 輝 (矢 作) 三 納 博 (三 納)
村 田 省 三 (藤平田) 進 村 幸 信 (藤平田新)
杉 野 博 (下 林) 高 納 潔 (位 川)
平 野 外 信 (太平寺) 五 香 晃 (清 金)
顧 問 竹 内 一 朗 (村 長) 中 島 栄 治 (農業会長)
西 川 他 吉 (校 長) 上 野 義 夫 (先 輩)
西 村 喜 吉 (先 輩) 長 納 外 行 (先 輩)
藤 多 三 夫 (先 輩) 中 島 潔 (先 輩)
参 与 杉 原 勇 吉 (教 諭) 宮 本 正 一 (教 諭)
舘 惣 吉 (教 諭) 高 島 孝 正 (教 諭)
林 ナ ツ (教 諭) 女 子 教 員 一 同
役員選挙が終ってから昭和二十年度中の事業を次のように定めた
昭和二十年度事業計画
一、演 芸 会
男女青年団合同、昭和二十一年一月十三日
於富奥村国民学校講堂、全村民対象
二、傷病軍人慰問演芸会
日 時 昭和二十一年二月五日
場 所 国立金沢病院に傷病勇士慰問
男女青年団合同で慰問演芸会を行うこと
三、合宿講習会
日 時 昭和二十一年二月九日から二泊三日間
場 所 聖農修練舎及び村の家
参加者 男女青年団員
ここに初めて戦後青年団の基礎が確立した。そして活発な青年団活動が展開されるようになった。当時の青年たちが時の世相に憤慨し、発奮興起して青年のあるべき道を求め、青年の力を結集して新しい村造り、新しい国造りを志し、着々とその歩を進めた態度はまことに激賞に値するものであって、これがわが村の青年団育成に大きな効果を挙げ、以後の青年教育振興上に与えた影響はすこぶる大なるものがある。
二十 年 団長 新森 晃 副団長 宮岸傳二
二十一年 団長 小林喜一 副団長 山原 タケシ
二十二年 団長 河村順一 副団長 中村一郎
昭和二十三年に女子青年団と合併し、組織の改正を行い、次代に飛躍する第一歩を踏み固めた。
二十三年 団長 小林 巌 副団長 中村安栄、北岡和子
二十四年 団長 西尾 忠 副団長 西村康賢
二十五年 団長 西村康賢 副団長 橋田 章、(交替で)中村憲造、長井澄江、森昌昭
二十六年 団長 森 昌昭 副団長 中島康雄、寺西喜余志、北川詠子
二十七年 団長 竹内恍一 副団長 宮川昭一、村上 尚、本 外子
二十八年 団長 宮川多喜蔵 副団長 田中 功、宮岸 隆、宮崎郁枝
二十九年 団長 佐久間由孝 副団長 長 保、高桑 繁、中野敦子
三十 年 団長 高桑 繁 副団長 山本喜久雄、長納紀美子
三十一年 団長 北岡長爾 副団長 長 稔、長井 稔、田中牧子、
(交替)団長 杉内 保 副団長 北岸外喜雄、山原道夫、田中牧子
三十二年 団長 本井健次 副団長 神田利行、沢村 衛、西本外枝
三十三年 団長 杉内 保 副団長 山原道夫、本 正行、中村淳子
三十四年 団長 安田光男
三十五年 団長 吉岡克己
昭和三十年町村合併により野々市町となった。旧富奥地区の団員をもって今日まで活動を続けてきた青年団も同様に発展、飛躍するため野々市町統合青年団として発足し、地区青年団を町青年団の富奥支部として歴史ある団活動が続いている。
三十五年度 野々市町青年団富奥支部長 吉岡克己
三十六年度 同 神田欣治
三十七年度 同 山口 彰
三十八年度 同 島崎清一
三十九年度 同 藤井良彦
四十 年度 同 山田健志
四十一年度 同 島崎孝次
四十二年度 同 松本和久
四十三年度 同 藤多 隆
四十四年度 同 山口 勉
四十五年度 同 小林孝之
四十六年度 同 栗山源一郎
四十七年度 同 西本正明
四十八年度 同 本井正夫
時代の要請と変遷によって、また団員数などの関係上、伝統と歴史ある富奥青年団、富奥支部団の名称も同年かぎりで消え、四十九年度より支部団が廃止されたことは、誠に残念なことである。しかし地区青年の発展、町全体の発展のための改組であるならばやむを得ないところであり、今後の野々市町青年団の活動に期待したい。
二、処女会
大正十年頃であろうか、嫁入り前の女子の集まりの会合であり、小学校の校長がその会長に、女の先生方が指導にあたられた。活動は男子青年団に準じていたが、女子としてとくに裁縫、お茶、生け花、料理などの会合が度々行われ、また新しい野菜を取り入れ、その作り方を研究し、食べ方を習った。当時、会員数は約七十名であり盛んなものであった。昭和二年には女子青年団と改称され、入退営軍人の歓送迎、軍隊慰問、農事視察講習会、敬老会などの行事を行った。その後数年にして男子青年団と合体して一つの組織となり、その活動もそれぞれ特性を生かしたものとなった。
三、婦人会
婦女会または婦人会とも呼ばれていて、その目的は尼御講や真宗大谷派婦人法話会で、ともに宗教心と婦徳の涵養に努めたのがそもそもの始まりかと思われる。しかし、団体として最初に結成されたものは愛国婦人会で、明治三十五年には県支部が結成されている。これは日本が日清戦争で輝かしい勝利を得、その後軍隊の慰問や軍人遺族の援護や慰問袋の発送などの事業を主とし、また、関東大震災には慰問品、救済金を被災地に寄贈していて、一般大衆を対象とした修養の団体ではなかった。
昭和五年十二月に家庭教育振興に関する文部大臣の訓令によって、各地域ごとの婦人会結成を奨励され、わが村でも時を同じにして富奥村婦人会が発足し、婦人の集いとして婦人自身の実生活に必要な知性の向上と婦人の健康の増進、さらに生活技術の研修にあたった。それが昭和七年十月に陸海軍両省の指導の下に「大日本国防婦人会」が新しく結成され、各帥団管区ごとに地方本部を持ち、昭和八年になると県下の町村で国防婦人会が結成され、わが村でも富奥村分会が結ばれ、高度国防国家建設のための団体として活躍することになった。戦時体刑における婦人の力はまことに偉大であり、数多くの事績を挙げた。愛国婦人会も国防婦人会も、同じ村内の婦人を会員として動いていたのである。ともに上っぱり、白エプロンに、白地に黒く会名を染めぬいたたすきをかけて、出征軍人を送迎した姿が印象的である。しかし昭和十六年、太平洋戦争が起こると、その活動も国防一色に塗りつぶされ「高度国防国家体制に即応するために、皇国伝統の婦人として奉公の実をあげる」ことを目的に三つの婦人会を解散して昭和十七年二月、「大日本婦人会」が発足した。紺の上っぱり、白たすき、白はちまきの勇姿で、初代会長は古源節さん。以来三年有余、戦争が苛烈さを加えるごとに国民生活が苦しくなり、物が無くなり、乏しい食糧事情の中で、廃品の回収や貴金属の供出、貯蓄の増強、軍事援護、防空訓練などに精魂をこめ、ただ戦勝を目ざしてがんばり抜いた。戦争末期の昭和二十年の六月には本土決戦に備えて、大日本婦人会も解散して国民義勇隊の一員となり、防塞の構築や、竹槍で体当たりの訓練など精神力の高揚につとめた。しかし、そのかいもなく、精神力をたのみとするわが戦力は科学力と物量を頼みとする連合軍の戦力に及ばず、遂に敗戦に終わったのである。が、これら婦人会の戦時中における活躍と功績とは、大東亜戦争史上特筆大書すべきことである。
次にわが村では終戦の昭和二十年の末頃に「母の学校」という名のもとに、栄養料理の講習会や、尊い犠牲の戦病死者の遺骨の歓迎などを行事として、終戦の混沌とした社会情勢の中で婦人活動を続けた。それがいつとはなしに地域婦人会となって民主々義を標榜し、民主社会の実現と家庭の民主化に主眼を匠くようになった。そうして婦人の地位と教養の向上を図ることによって、新しい事態に対処するようになった。昭和二十二年五月三日、新しい日本国憲法が施行になり、その憲法にもとづく戦後第一回の総選挙には初めて婦人参政権を得た。過去における日本の社会では婦人の地位が低く、軽んぜられたが、民主憲法によってその存在が重視され、地位が向上したことは単に女性のみの幸福でなく、人間普遍の原理と男女共存の大義に鑑みて男性もともに祝うべきことである。これからの社会は男女共同の責任において、その改善と進歩を図らねばならない。
わが村の婦人連は以上のような諸点から、よく検討を加え、民主主義社会における正しい婦人の力を結集し、その力によって組織的活動を強化するため会の規約を造ろうと種々準備を進め、昭和二十四年四月十六日に設立総会を開催し、次のような新規約を決めて活動を展開することになった。
富奥村婦人会規約
第一条 この会は石川郡富奥村婦人会と称する。
第二条 この会は会員相互の親睦を図り、農村婦人としての智徳を進め、家庭教育並びに生活の改善進歩を期するを目的とする。
第三条 本会の会員は本村に在住する婦人をもってする。会費は年五〇円として、毎年四月上旬に集める。
第四条 役 員
本会の役員は分けて会長、副会長、書記、会計とする。これらの役員は無記名過半数投票によって選出され、その任期は二ヵ年とする。
第五条 役員の任務
第一項 会長は本会を代表し、副会長は会長事故ある時はこれを代理する。
第二項 書記は会長の命により庶務を掌る。
第三項 会計は一切の収入、支出を正確に記帳し、団体によって認められたものに限り、その支払いをする。
第六条 会 議
第一項 役員会は年三回、四月、十一月、三月に開く。但し必要に応じて会長がこれを招集することができる。
第二項 総会は毎年三月これを行い、必要に応じて臨時総会を開くことができる。
第七条 本会の経費は会費により、会計年度は毎年四月一日に始まり、翌年三月三十一日に終わる。
以上の会則に基いて新役員を次のように決めた。
会 長 宮岸文子 副会長 中野久子、中島勲子 書記兼会計 藤多敏子
そして新会則によって新しい活動陣容を整え、新しい足取りの第一歩を印したのである。これが戦後におけるわが婦人会の歩みであって、混迷する社会に処して正しく伸び、幾多の困難に遭遇しながらよくこれと戦い、これを克服して今日の婦人会の基礎を作り上げた。当時の役員の方々の骨折りは容易でなかったと思われる。
戦後の歴代婦人会長名は次のとおりである。
初代 宮岸文子(昭二二~二六年)
二代 中野久子(昭二五~二八年)
三代 宮岸常盤(昭二九~三一年)
四代 宮岸文子(昭三二~三七年)
五代 土田文子(昭三八~三九年)
六代 中島澄枝(昭四〇年)
七代 村本外喜(昭四一年)
八代 藤多敏子(昭四二~四九年)
四、青年夜学塾
終戦後の学制改革によって、戦前からあった青年学校が昭和二十三年三月で廃止になった。青年学校廃止後の青年教育をいかにするかは、当時の社会における大きい問題であった。高等学校や大学に入って学ぶ青年は、青年時代を学校教育によって過ごす機会を与えられるが、全国五百万人にのぼる勤労青少年に教育の機会を与えないということは、社会的にも大きな問題であって、当時の不健全な社会傾向に鑑み、勤労青少年の不良化を防止する手段として、さらに知性や教養の向上の点からみても、おろそかにすべきものではないということはだれしも憂慮したことである。
こうした考え方をもつものはひとり識者のみではなかった。世の親たる者の等しく心配したところであった。また青年団でも問題として大きくとり上げられ、それが具体化して青年夜学塾として昭和二十三年の夏から学習活動が始まった。青年団が運営に当たり、それから三年間、昭和二十六年三月まで続き、勤労青少年からは大きな期待をもって迎えられたのである。
青年夜学塾は毎週火、金曜日の夜間、二時間程度に行い、科目としては村の政治について村長を講師に招いて話を聞いた。村の経済と農協活動については農協組合長を、郷土の産業については村の篤農家を、補習教育は中学校の先生を講師として迎え、教えを乞うたのである。
こうした学習活動を続けるうちに青年の郷土に対する認識が深まり、郷土に対する愛情が高まってきたことは、喜ばしい現象である。同時に大きな収穫でもあった。青年夜学塾はこうして村の働く青年の学習意慾から出発して、青年自身のために大きく役立った。青年学校廃止当時不安を抱いた村の親達を不安から救うことができ、憂慮した識者達もこの塾の運営などの成果が予期した以上であったので眼を丸くしたのである。この青年夜学塾がその後に富奥青年学級と改称され郷土の働く青年のためになる学級として時代の要望にそって伸びていった。
五、富奥青産研
敗戦後の混乱した社会の中において、青年の自己研修の意欲から新生青年団が生まれ、青年の自主性によって運営されてきた。が、一般的にレクリエーション青年団の傾向が強かったので、これをもっと郷土の産業、自己の職業と結びついた活動にすることが青年を向上させ、郷土を振興させるに効果あるという観点から、石川県青年産業研究協議会が生まれた。
本地区(富奥村)における青産研活動もその際に発足したもので、青年団内における産業研究活動として昭和二十五年十二月から始められた。だが青年団活動と青産研活動を同時に行うことは、青年の負担が重すぎるという見地から、青年団の要望として青年団の退団者によって企画運営をやってもらい、グループ研究には団員も参加するという方法をとってはどうかとの要望があった。このため一ヵ年の活動を反省して昭和二十六年十一月に改組し、青年団退団から満三十歳までを会員とすることとして、郷土の産業の課題研究を行い、郷土産業と真剣に取り組み、これに解決を見出していくことにしたのである。
以来九年にわたって郷土の産業と取り組み、その問題点の究明に努め、郷土産業の振興を図るべく運営と活動に研究と努力を続けてきたのである。
結成の動機は稲作単一農業地帯にある青年として、自己の職業に対する職業愛の精神が薄弱で、産業に対する研究心が低調な傾向にあることから、職業愛の精神の高揚と郷土産業に対する研究心を振るい起こさせることにあった。
「運営方針」
1、郷土産業と取り組み、その盲点の解明、解決に当たる。
2、郷土産業の隘路や問題点の発見に努める。
3、郷土産業の振興策の研究。
「重点的目標」
1、経営の合理化をはかる。
2、技術の高度化をはかる。
3、地力の培養に努める。
4、職業愛の精神の高揚を期する。
5、職業に対する研究の振起を図る。
「運営機構」 委員会と幹事会
委員会は次の者をもって組織する=公民館運営審議員
幹事は次の者をもって組織する =青産研代表、青年団代表、公民館長、公民館主事会長、副会長、会計、庶務をおく。
「研究グループ」
水稲グループ=水稲の合理的裁培の研究。
裏作グループ=裏作の科学的研究。
畜産グループ=家畜飼養管理の合理化の研究。
土壌グループ=土壌改良方法の研究。
経済グループ=農業経営の合理化の研究。
「事 業」
1、講演会、講習会、討論会の開催。
2、グループ研究会の開催。
3、県外先進地の視察、県内先進地の視察。
4、展示圃の設置、品評会の開催。
5、反省会、研究発表会の開催。
「財 政」
収入は村補助金、会費、寄付金。支出は事務費、会議費、講習会費、討論会費、グループ研究会費、視察費、品評会費、反省会検討会費、研究発表会費、参考図書費。
富奥生産研は過去九年の長い間、郷土産業と取り組み、その問題点の発見に努め、これが解決策を研究し、郷土産業の振興策を研究して、いささか郷土産業の発展に寄与し、富奥村産業の基礎造りをし、今日の富奥地区の発展に多大の功績をあげた。
次に初代からの会長名を記す。
初代 宮川多幸蔵(昭和二六年度、青年団の産業部長として兼務)
二代 中村朝雄(同二十七年度)
三代、四代 山原 タケシ(同二八~二九年度)
五代、六代 中村憲造(同三〇~三一年度)
七代 中島久雄(同三二年度)
八代 本 正行(同三三年度)
グループ研究に活躍された方々は次のとおり。
畜産グループ 宮川多喜蔵
裏作グループ 山本喜久雄、木林光二
経済グループ 竹内恍一
土壌グループ 村上 尚
水稲グループ 山崎 忠
六、体育協会
富奥村は昔から体育競技の盛んな土地柄である。戦前は青年会、青年団を中心にして秋の取り入れが終わった十月頃、毎年、部落を単位とした団体競技に力を入れ、村全員の参加の下に社会体育大会が催された。戦後、村人の健康増進を図るということが公民館の一目的とされ、この目的を達する手段として昭和二十五年に初めてわが公民館に運動部を、時の館長宮岸清氏の肝入りで新設、その初代部長に藤井善治氏が推された。その年の十一月、村民運動会が開かれ、公民館としては予期以上の成果を収め、意義深いものがあった。この体育大会が富奥体育協会を結成するきっかけともなり、村民の体位向上と郷土の体育文化の振興上大きい収穫であった。しかし、これを健全娯楽として住民一般に普及する必要があるとの観点から、体育活動を普遍的なものにして、住民の健康増進に役立たせるには、体育協会といったような専門的組織を作った方がよいとの意向が公民館内に高まり、第二回の村民運動会後、二十六年十一月三日に富奥村体育協会が結成された。
それ以後この体育協会が体育行事の中心となって、わが村の体育文化の振興に目ざましい成果を挙げてきた。この体育協会発足について努力した竹内一朗、藤井善治、米林勝二、吉村音雄ら各氏の功績はきわめて大きいものがあった。
昭和二十七年二月一日、大阪市で毛布卸商として活躍している竹内信吉氏(粟田出身)から、立派な大優勝杯が寄贈され、体育大会に錦上華をそえることになり、いやが上にも振興気分を高めることとなったことも忘れ得ないことであり、感謝にたえない。
昭和三十五年野々市町公民館の改編により、多くの成果をおさめた富奥村体育協会の名も消え、野々市町体育協会と合流し、発展的解消をとげた。
歴代の会長名は次のとおりである。
竹内一朗 米林勝二 上野由雄
その後野々市町一円の体育協会が結ばれ、現在に至っている。
町体育協会長 北村信一 同副会長 小林信好
七、日本ボーイスカウト石川第五隊結成
日本ボーイスカウト連盟は昭和の初年からスカウト憲章を作り、全国にわたりこの運動を行っていた。ボーイスカウト運動は青少年の閑時を活用して、主として野外自然の境地を教育の場として行う社会教育活動である。青少年の人格と健康と技能と奉仕心の育成を主眼とし、有為な人材と、よき公民を作ることを目的としている。
そのために日本ボーイスカウト連盟では三つの誓いと十二のおきてを次のように定めて、これを実行するように指導している。
三つの誓い
一、神と仏と国とに誠を尽くし、おきてを守ります。
二、いつも他の人を援けます。
三、体を強くし、心をすこやかに徳を養います。
十二のおきて
1、スカウトは誠実である。
2、スカウトは忠節をつくす。
3、スカウトは人の力になる。
4、スカウトは友誼に厚い。
5、スカウトは礼儀正しい。
6、スカウトは親切である。
7、スカウトは従順である。
8、スカウトは快活である。
9、スカウトは質素である。
10、スカウトは勇敢である。
11、スカウトは純潔である。
12、スカウトは慎み深い。
わが村の公民館と青年団では当時(終戦後)の世相から青少年教育の重要性を考え、このスカウト運動の趣旨と精神に共鳴して、時の青年団文化部長小林信好氏を昭和二十五年六月十六日から四日間、小松市本折町の本光寺で開かれたボーイスカウト石川県連盟主催のボーイスカウト指導者公認講習会に派遣した。さらに同年七月六日から四日間七尾市和倉町における県連盟主催の指導者公認講習会に当時青年団の年少優秀メンバーであった小林修、山本喜久雄、佐久間由孝の三名を講習員として派遣し、指導者としての訓練を積ませた。その後同年十月二日から七日間、北信越隊長研修所に小林信好氏を送って、隊長としての訓育を経験させ、隊組織の準備を整えた。結成大会は昭和二十五年十月三十日に行われた。
隊組織は次のとおりである。
組 織
一、隊員登録名簿 仏田孝治、小林外吉、吉本外茂次、村井征栄、森 順治、
安田光男、福田智康、高桑 勉、小林健一、西村尚倫、
本井外次、木林和行、長納一二、平野道夫、中島 貢、
石尾忠彦、西村孝信、北村雄造、宮岸芳勝、本 正行、
荒井 昇、神田欣治、田中 節(以上二十四名)
二、指導者 隊長 小林信好(青年団文化部長)
副長 小林 修、山本喜久雄、佐久間由孝
隊委員長 宮岸 清(公民館長)
隊委員 竹内保之(小中学校長)、西尾 忠、西村久勝(公民館主事)、
小林喜一、西村康賢(青年団長)、田中忠信(村助役)、米林勝二(大学講師)、
香城学(民生委員)、
隊育成会長 山原七郎(村長)
こうした組織と指導者をもって、わが村におけるボーイスカウト運動は出発した。そうして活発なスカウト運動が繰りひろげられた。このボーイスカウト運動は小林信好隊長並びに小林惨、山本喜久雄、佐久間由孝の三副隊長の犠牲的精神と献身的努力、その情熱によってよく指導され、維持育成されたのである。このボーイスカウト運動が当時の青少年をよく導き、啓発した功績は大きいものがあった。この運動がやがてわが村における青年学級を盛んにし、青年団活動を活発にする基となったのである。
八、健寿会
戦後公民館の事業の一つとして「老人の家」があった。これによって老後生活を楽しく明るくすこやかに営み、社会の一員としての任務と使命を果たそうではないかとの老人層有志の発意によって昭和三十一年十一月五日、結成準備会が公民館で開かれた。このとき会則の細部、名称、結成大会の期日などを決め、待望の老人教育の教室として社会教育に乗り出すことになった。かくして昭和三十一年十一月十八日、富奥在住の四十五歳以上の男女全部を網らした富奥健寿会が発足した。
十一条からなる会則と三つの方針による運営が定められ、結成当時の会員数は百十七名の多数であり、会の運営のよろしきを得て年々会員数も増し、今日では二四〇名の多きにのぼっている。
会則のうちその目的によると、同会は会員が終身青年としての自覚のもとに、身と心の若さと健やかさに努め、新時代に即応した知性と感覚を養う。また家庭および社会における人生生活を正しく、楽しく、幸福に、さらに有意義な暮らしを営み得るように、よりよい人間としての研修と実践を行う、とある。また、事業として農閑期の第二日曜日を定例会として講演会、懇話会、討論会、映画会、親睦会、慰安と社会見学をかねた旅行などの行事が行われている。
次に設立当時の役員名を記す。
会長 宮岸 清、 副会長 宮川隆正、 会計 長井太吉、 庶務 北岡清松、
監事 長豊 富、栗山信政、 幹事 安田正一 外十五名
歴代の会長は次のとおりである。
初代 宮岸 清(昭和三一年十一月就任)
二代 長井太吉(昭和三七年 一月就任)
三代 山原七郎(昭和四〇年 一月就任)
四代 宮川隆正(昭和四三年 一月就任)
五代 金田 亮(昭和四九年 一月就任)
十、富奥地区協義会
富奥村は昭和三十年四月、野々市町と合併した。その後郷村、押野村の一部を加え、新生野々市町が発足した。しかしこの四地区統合の町一体化は容易な事でなく、各地区共々、融和と協調性を高めるため、その与論の結集を図り、町政の推進に寄与する事が急務であった。
富奥地区においては、この趣旨に添い、地区内在住で町政の運営に関与する役職者、各施設、団体の代表を以って構成する富奥地区協議会が自主的に組織された。合併以来既に二十年間、当協議会は、伝統の一村一心の標榜の下に、培われた親和と協調の村民性を結集して、全町一体化による円満な町政の発展を念じながら、時に臨み、事に応じて町政の推進高揚と、その運営の末端への浸透に尽して来た。
従って当協議会の事業活動は地区内外共に華かな存在ではなく、全く地味な、しかも礎石の如き、陰の存在である。次にその目的、事業に対し規約の一部を引用しよう。
野々市町富奥地区協議会規約抜萃
第一条(名称)この会は富奥地区協議会という。
第二条(目的)この会は富奥地区の自主的発展を期し、且つ、町政の円滑なる運営と堅実なる発展に協力することを目的とする。
第三条(設置区域) 省略
第四条(事業)この会は第二条の目的遂行のため次の各項に掲げる事業を行う。
( 一 )産業経済に関する事項
( 二 )学校教育に関する事項
( 三 )社会教育に関する事項
( 四 )土木交通に関する事項
( 五 )児童福祉施設に関する事項
( 六 )社会福祉施設に関する事項
( 七 )文化事業に関する事項
( 八 )厚生施設に関する事項
( 九 )保健衛生に関する事項
( 十 )町政協力と調整に関する事項
(十一)其の他本会の目的を達する適切なる事項
第五条(以下省略)
歴 代 会 長
中島栄治 昭和三十三年度
北岡清松 昭和三十四年度~三十七年度
宮川隆正 昭和三十八年度~四十年度
作田庄一 昭和四十一年度~四十二年度
山田一郎 昭和四十三年度~四十七年度
藤多三夫 昭和四十八年度~四十九年度
十一、健寿学級
野々市町中央ならびに地区公民館の指導の下に、老人を対象として発足した健寿学級がある。昭和四十七年度より開催されて現在に至っており、学級のあゆみは次のとおりである。
昭和四十七年度
○ 六月 三十日 第一回学級、開級式、講師、町社会教育主事増山了昭氏、参加者六十名。
○ 七月二十六日 第二回学級、仏教講演会、講師、金沢・金剛寺任職西村制以師、参加者九十五名。
○ 十月二十三日 第三回学級、末松廃寺跡草むしり、県立百々鶴荘見学、参加者八十五名。
○十一月 十五日 第四回学級、郡谷寺参詣、我谷ダム、栢野大杉、小松老人ホーム、松寿園見学と山中温泉一泊。参加者五十八名。
○十二月 二日 第五回学級、老人衛生講演会講師、米林梅子医師、参加患二十名。
○昭和四十八年二月二十六日 第六回学級、芦原温泉方面研修見学、参加者三十六名。
昭和四十八年度
○ 五月二十八日 第一回学級、白山比咩神社参拝と県立林業試験場視察、志良山荘で休憩、参加者二十一名。
○ 六月二十六日 第二回学級、出雲大社参詣と山陰路見学の旅(二泊三日)参加者三十九名。
○ 七月 十五日 第三回学級、講演と映画の会、講師県社会福祉協議会更生課長、三野秀夫氏の老人のいきがいについて、映画は老人向二巻、中央公民館佐久間主事、参加者二十七名。
○ 八月 九日 第四回学級、仏教講演会と物故会員の追悼法要。講師、一ッ屋、藤原利技師、参加者九十名。
○ 十月 二日 第五回学級、白馬大仏詣でと姫川温泉(一泊二日)の旅、参加者八十九名。
○昭和四十九年三月六日 第六回学級、越中井波別院詣でと庄川温泉一泊の旅、参加者四十五名。
昭和四十九年度
○ 五月 十九日 第一回学級、本学級と百々鶴荘老人会との友好親善交歓会、出席者、学級九十三名・百々鶴荘百十名
○ 六月 八日 第二回学級、美川温泉にて健康と慰安の会、参加者八十名。
○ 七月 一日 第三回学級、弥彦神社参拝と佐渡ヶ島巡り、参加者三十八名。
○ 八月 二日 第四回学級、仏教講演会、講師安田智玄師、物故会員の追悼法要、参加者百十名。
○ 十月 二日 第五回学級、善光寺詣と上山田温泉の旅、参加者七十六名
○十一月 十三日 第六回学級、那谷寺参観と白寿荘一泊の旅、参加者五十五名。
年次学級長
昭和四十七~四十八年 宮川隆正
昭和四十九年 金田 亮
十二、雅楽会
富奥の雅楽会といっても、これはもともと館畑村針道音楽会の末流である。大正三年頃、上林の西村長太郎、
大西正行、小林孝義の三氏が、そのころ隆盛であった針道音楽会に参加し、技術を習得せられたのに始まる。その後昭和三年針道音楽会と分流し、小林孝義、西村長太郎の両氏が主幹となり、石川県雅楽研究会を創立。当時の会員は石川郡富奥村、舘畑村、松任町、旭村、能美郡川北村等にわたり、人数は二十名程度で、石川郡内はもとより、金沢市、小松市、能美郡、河北郡などの各神社の祭典や各寺院の大法要などに奏楽奉仕した。かたわら雅楽の研究、普及に努力し、宮内省雅楽部の楽師を招いて学び、また伊勢神宮主催の雅楽講習会にも数回受講し、能登の穴水町などへも足を運んで新進の育成につとめた。
しかし昭和三十年頃から会員は次第に死歿減少し、今では同好者は七、八名になり、富奥では上林の大西加寿雄、北川清一、末松出身で現在松任市在住の木村栄松の三氏のみで後継者のないことが憂慮されている。
十三、若草句会・短歌会
富奥公民館では、昭和三十一年十二月、中島喜寿館長の世話で、黒田櫻の園先生を講師に迎え、地区内の住民を対象に、第一回の俳句初心者講座を開設したのに端を発し、その後も講座を続け今日に及んでいる。また、三十八年ころより富奥診療所長米林梅子先生のご紹介で、若草短歌会が復活し、金沢大学の藤田福夫先生のご指導を受け、次第に同人が増えつつあったが、先年藤田先生が名古屋へ転任され、直接のご指導を得られないのが残念である。
岬の家捨水北風に吹きちぎれ 黒田櫻の園
茂吉築紅牡丹図に近々とありし半時の気のぬくみはも 藤田 福夫
十四、富奥愛盆会
昭和四十七年年一月、藤多三夫、山田一郎の両氏が世話人となって、盆栽愛好者五十余名が富奥公民館に集い発足。規約を作り、会長に平野栄吉氏を選び、事業計画を立て、毎月一回の定例会を開き、県盆栽愛好会の諸先生方を招じて実地講習をし、基礎智誠を身につける。苗木、鉢類、盆栽用具等の共同購入、会員廻り持ちの批評研究。一鉢持ち寄り研究。交換会の開催。八月の招魂祭及び十一月の文化祭には盆栽展示会及び即売会を開催。先進地の視察旅行として、四十七年度愛知県稲沢方面明治農協等。四十八年度関西の本場宝塚市山本町、川西市寸稍園等。四十九年度関東大宮盆栽町及び川西市安行町等。文化祭に見る展示会の出品は素人の寄合いながら、進歩をしたものと思う。
十五、白藤会
夫と死別、または離別された家庭の主婦で、幼い子供の養育をしている方々の集まりが「白藤会」である。
この会は、当初昭和十八年頃数名の人々によって、急変する社会の荒波にもまれながら、雄々しく生活して行くなかで、お互いになぐさめ合い、はげまし合って行くことを目的に誕生した。
会として組織されたのは、二十五年四月で、会長加藤時。四十年四月より東芳子。四十七年より宮岸のぶが就任、現在に至っている。
会員数は現在五十四名である。
十六、謡曲教室
昭和四十二年五月、当時の富奥公民館長が提案され、同志をつのって謡曲教室が開かれた。毎週二回(農繁期を除き)午後八時より謡いの声が公民館に聞えるようになった。講師に向米吉先生を迎え今日におよんでいる。受講生は多い時には二十数名をかぞえ、行事として、一月、七月にはおさらい会や謡曲大会、他教室との交歓会などを開いている。
十七、民謡教室
昭和三十七年二月十八日に小林孝次らが中心となり、穴瀬友吉先生を迎え会員七人で発足した。その後会員も増え十五人となり、小諸馬子唄外十五曲を習い、三十九年八月三日、おさらい会をして一応終会とし、四十年十月十二日より山田弥吉先生を迎えて、教室を再会。生徒数十八人で、常盤炭坑節外十三曲を習う。四十一年二月二十日、富奥農業協同組合総会のアトラクションに出場したが、同年八月二十五日をもって終会とした。しかし農繁期もすぎ、米の収穫も終わった十一月八日、再び穴瀬友吉先生を招いて教室を始め、江差追分外八曲を習得。四十二年八月一日に終会したが生徒数十名であった。
四十二年十月十七日、杉山健男先生について再び教室を始め、一週間に一回公民館で練習。生徒数は、その間に若干の増減はあったが、現在は十六名である。習得した唄は、大島あんこ節外八十曲。次に四十三年以降のあゆみは次のようである。
四十三年 二月 二十日 富奥農業協同組合総会アトラクション出場
四十四年十二月 十四日 兼六民謡会主催のおさらい会、北国講堂におけるコンクールに出場、西本恭子入賞
四十五年 九月 二十日 金沢陽風園民謡慰問
〃 十二月 六日 押野民謡教室と合同にて第一回おさらい会。八幡温泉居村屋において
四十六年 二月 二十日 富奥農業協同組合アトラクションに出場
〃 八月二十二日 金沢陽風園慰問
四十六年十一月 五日 金沢刑務所慰問
〃 十二月 十二日 小松松寿園慰問
四十七年 一月 八日 押野・出城公民館民謡教室と合同にて第二回おさらい会、八幡温泉居村屋において
〃 三月 十日 末松・石川身体障害者職業訓練校慰問
〃 四月 十六日 金沢刑務所慰問
〃 十二月 三日 上林百々鶴荘慰問
四十六年 一月 四日 押野・出城公民館民謡教室と合同にて第三回おさらい会、八幡温泉居村里において
〃 三月二十五日 金沢陽風園慰問
〃 六月 三日 野々市町敬老会余興に出場
四十八年十一月 十一日 杉山民謡教室連合会(富奥、押野、出城、金沢市外電話局、番匠)第一回発表会、松任福祉センターにおいて
四十九年 一月 五日 押野・出城・市外電話局と合同にて第四回おさらい会。八幡温泉居村屋にて
〃 二月 二十日 富奥農業協同組合総会のアトラクションに出場
〃 三月 十七日 上林百々鶴荘慰問
〃 六月 七日 野々市町敬老会余興に出演
〃 七月 十四日 松任市出城地区敬老会余興に出演
〃 十二月 一日 押野・出城・金沢市外電話局と合同で第五回コンクールおさらい会を上林百々鶴荘で開き、中村三郎、小林高一、向田初三郎、坂池良夫入賞
十八、音楽教室
子女の音楽的情操を育てる目的で昭和四十三年二月、富奥公民館長が中央公民館の佐久間主事とオルガン教室開設について懇談。設備資金面での困難にぶつかる。翌三月、楽器の設備は講師負担で開設が決まる。電動オルガン八台、エレクトーン(電子オルガン)一台備付。四十三年四月六日受講生二十三名を迎え「オルガン」(音楽)教室開講。これは講師宮岸洋二氏の努力によるものである。毎週土曜日開講。主として小学生、中学生が初歩から練習を始める。なかには高校生や一般の方も参加されたが長くて一年程度でやめる。(月謝は七〇〇円とする)
四十四年三月三十日、第一回エレクトーン演奏発表会で成果を発表。生徒二十一名が二十六のプログラムを披露。
四十四年四月入れ替わりもあったが二十一名の参加者により引き続き開宣され、エレクトーンC-1Bを購入、四十五年三月二十二日、第二回エレクトーン演奏会を開き、二十二名の生徒にて二十六のプログラムを披露した。
四十六年三月二十八日、第三回のエレクトーン演奏発表会を開催、十五名で二十五のプログラムを披露。はじめて三台のエレクトーンでアンサンブルをし、発表内容も年とともに充実。
四十七年三月十九日、第四回発表会を開催、十名の生徒数であったがプログラムは十九曲と多く、四年間続けられた五名の生徒により充実した内容であった。
四十八年四月一日、第五回発表会を開催、十一名の生徒が二十四のプログラムを発表、演奏技能も年々高度なものとなり、古典、ポピュラー、ラテン、デキシー、ロマンなどの曲を披露。さらにエレクトーンC-2一台を増す。
四十九年三月十七日、第六回エレクトーン発表会を開催、十名で十七曲のプログラムを演奏、内容、技能ともに充実して盛会であった。四月に入り新しい生徒が加わり総員二十一名で、毎週土曜日に開かれている。
富奥郷土史