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第十章 経済更生と一村一心

 

==第一節 経済更生の遠因と動機==

 

第一節 経済更生の遠因と動機

  明治維新の大偉業を成し遂げてから、日本はそれまで幕府の鎖国政策で遅れていた文化文明を一挙に取りかえすべく、あらゆる分野において思いきった政策を取り入れた。そして発展のための目覚ましい努力が続けられて、国民総意のすべてを国力の増強と基礎確立に向けて進め、日清、日露の戦いを大勝利に導き、日本の地位は世界的にも高まっていった。

  それからの日本はさらに耐乏の生活の中から国力の充実に努力し、第一次世界大戦争に参加し、ついに世界の五大強国の一つとして、富国強兵の道をひた走りに走り続けたのである。それが昭和になってから急速に軍国の道を歩んで、やがて満洲事変となり、支那事変から大東亜戦争へと突入してしまったのである。

  しかし、昭和になってからの日本経済は、あまりにもその底辺の浅い政策から、富国強兵の道とはうらはらに次第に国内不安が高まっていった。

  関東大震災が大正十二年九月一日におこって、その後の復興のために発行された膨大な手形処理をきっかけに金融パニックが始まり、小さな銀行などは取りつけ騒ぎから倒産が相つぎ、国内の人心は極度の不安と不況に陥っていったのである。当時の田中義一内閣は、それらの国内不況状態から国民の目をそらすために、中国大陸への積極的政策を展開していった。そのため、昭和四年頃から史上未曽有の一大恐慌時代となり、世界各国もまた不況時代に入って日本経済はさらに苦しい状態となり、国民の生活もまた窮乏を続けた。日本経済は大きく動揺し、崩壊し、物価は下落し、失業者は国内にあふれ、当時の推定では三〇〇万人を越えたといわれている。

  とくに農村はこのしわよせをまともに受けて疲労困ぱいは極度に達し、その惨状は見るに堪えなかったといわれている。野菜などの暴落はとくにひどく、汗水流して作ったキャベツなどは値段が安くて市場に出荷しても赤字となるため、車に積んでは涙ながらに川に捨てたといわれている。主食の米にしても値段は大暴落を来たし、昭和六年度の米価は一石当り(一五〇㌔)実に一五円六七銭という驚くような安い価格で、農村は明日の生活にすらことかく状態となった。

 一石当りの米価が一六円から一八円という低価格が三~四年間も続いたために、農村の生活はついに行きづまり、零細農家は生活のために娘を次々と売るという悲惨な状態が起こったのである。

  わが富奥村は一戸当たり耕作反別が二㌶に近く、石川県でも有数の耕作面積に恵まれた立地条件にあったので、人身売買などのいたましい生活はなかったけれど、やはり産業組合の借り越し負債額はほとんどの農家が限度額をオーバーし、どうすることも出来なかった状態であった。

  中にはその負債の重荷に堪えかね、田畑、家屋敷を売って村を去る情景が各部落で現われたのである。部落の戸数が減っていったのもこの頃の不況時代であった。昭和七年当時の平均農家の収支計算を参考までに記せば次のようであった。

 <収入>

 種 類    金 額     付 記

 玄 米    四五六円四七  二六石八斗五升三合売却

 蔬 菜    三・七〇    芥子菜七〇銭、茄子三円

 雑 穀    五・二五    大豆五斗代四円五〇銭

                小豆五升七〇銭

 紫雲英    一・八〇    一斗分

 藁工品    一五・五六   むしろ、なわ、こも

 貯金利子   一三・〇〇

 雑収入    二〇      ボロくず代

 合 計    四九五・九八

 <支出>

 種 類    金 額     付 記

 経常費

 公租公課   九八円九〇   租税九〇・五九

                諸負担八・三一

 肥料代    一一二・九二  水田一一一・八〇

                畑一・一二

 種苗代    四・〇〇

 飼料代    一・〇〇

 農薬代    〇・三〇

 雇用賃    六・四〇

 耕馬貸借料  二五・〇〇

 負債利子   五八・二七   組合利子三六・一二

                銀行利子二二・一五

 農具費    一五・〇〇

 籾摺賃    一六・八〇   四八石分

 農舎費    五・〇〇

 合 計    三四・五九

 生計費

 飲食費    六六円一二   副食費のみ

 被服費    一〇八・〇〇

 光熱費    二四・九〇   電灯、木炭、薪炭

 什器費    二・〇〇

 慶弔費    四八・〇〇

 娯楽修養費  一八・〇〇

 諸 掛    一八・〇〇

 教育費    八・〇〇    文具、教科書等

 衛生費    三二・〇〇   医療費、売薬代

 嗜好品代   二三・〇〇   たばこ、酒、茶菓子代

 交際費    二四・〇〇   協議、打ち合わせ費等

 保険料    一八・〇〇   月一・五〇銭宛

 修繕費    一〇・〇〇

 合 計    四〇〇・〇六

 支出合計   金七四三円六五銭

 収支差引 欠損金二四七円六七銭

  となっている。農家全体の九〇%は、ほとんど欠損金の大、小の差はあっても同じ状態であった。この頃は産業組合に三千円ほどの定期貯金を持っている農家は十戸もなかったし、一戸の農家で三千円の貯金を持っていたら金満家とされていた。また、一万円の貯金を持っていた農家が二~三戸ほどあったとか。そんな農家を万長者といっていた頃である。

  富奥産業組合において昭和七年の村全体の債権調査の結果をみると、負債額三十四万八千六百七十円となっている。当時の戸数三一八戸として、一戸当り千円以上の多額の負債があったわけである。この負債の利子を一割とすれば、年間三万四千円となり、当時の田地一坪当たりの価格を二円とすれば、六㌶余りの金が流出することになる。このような状態から農家窮状は十分察しられ、農業経営全般にわたる改善こそ急務であることがわかったのである。この事が本村の経済更生運動の動機となったのである。

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富奥郷土史