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==野菜園芸の共同栽培と出荷==

 

第六節 野菜園芸の共同栽培と出荷

 一、清金、末松のスイカ

  当時の富奥農会の筒井技師の指導により、土質の調査からスイカ栽培が適応しているとのことで、講習会などを開き、また遠く奈良県の大和西瓜栽培地を祝察したが、原種子をわけてくれないので大和スイカを買ってその種子を村へ持ち帰ったと聞いている。

  村では富奥スイカの採種圃を作って甘味と肉質で喜ばれるスイカの出荷に努めた。いま、スイカ栽培組合に関する記録のないのが残念である。確か組合員は清金四名、末松十二名くらいだった。

  富奥スイカの栽培は、その年の暮れのうちに田の土を納屋の中に運んで、油粕、鶏糞、米糠、人糞などを混入、肥土を作り、春三月種子をまく方法だった。その頃はいまのように病気もあまり発生しないし、見事な玉をつけたスイカ畑は、夏の朝など畑へゆくのが楽しみであった。

  夜は十二時頃まで収穫され、組合の広い作業場に集荷し、山と積まれたスイカの玉をひとつひとつ大、中、小に分類し、当時としては数少ないトラックに乗せる作業が夜を徹して行われた。トラックの情み荷作業中に落として割れたスイカは真紅な色をし、作業で汗にまみれた人達は争ってそのスイカをほおはって食べたものだった。たいてい一朝ごとにトラック二~三台を計画的に出荷し、近江町、住吉市場で売りさばいたのである。

  幸い、指導と栽培技術がよく守られたので、最初の年から評判がよく、粒のそろったことと、色、味がよいのでたちまち近江町、住吉市場での人気を独占し、富奥スイカの名を高からしめたものである。もちろん、それまでに漕ぎつけるのには中島栄治氏をはじめ、筒井技術員、地元の人達が金沢の新聞社、あるいは県庁、料亭などへ無料で食味してもらうために、何日となしに宣伝とサービスをくり返したことか。そうした苦心と努力がようやく実って前記の富奥スイカの名声が出たのである。

  当時としては驚くほど豪華な、カラー印刷のポスターを要所に配り、どこもまだ取り入れなかったスイカに色刷りのレッテルをはるなどして、販売に苦心を払ったのである。いまにして思えはまことになつかしい思い出である。

  その他清金、末松のミノウリ栽培も人気を博したものである。

 二、太平寺の甜瓜の栽培

  太平寺農業改良組合では野菜園芸として甜瓜の共同栽培を行った。これもまた、指導と技術の共同統一によって、見事に選果されたものが夏の青果物として、黄色に実った甜瓜にレッテルをはり、そのとろりとした、なんともいえぬ甘味は近江町市場の人気を独占したものである。各部落はこぞって経済更生計画のひとつひとつを実施にうつし、成功にみちびき、不況にあえぐ富奥村の更生に大きく貢献していったのである。

 

 

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富奥郷土史