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==第五節 上林の共同養鯉場==

 

第五節 上林の共同養鯉場

  これは水田を池として鯉を放流し、養殖するものである。

  当時、農家の人達のすさまじいまでの経済更生意欲は、次々と県下に先がけてどこも実行していないことを、思いきって実施した。養魚場もまた数少ない発想の中から生まれた、農家の人達の血みどろの実践活動であった。先に述べた粟田新保にも現在の豊田日吉神社のすぐ後ろの南の方に、水田を池に変えて富樫用水から導水した、当時としては実に規模の大きな養魚場がつくられ、トマト加工栽培と並んで大きくその名をとどろかして、金沢の一流料亭などへさばかれていった。

  ここでは富奥村上林養鯉組合を紹介して、当時を思い起こしてみよう。

  一、組合の名称 富奥村上林養鯉組合

  二、組合員数 十九名

  三、共同設備 養魚池敷地四百二十歩、工事費五百七十円

  四、養魚法の大要  注水量割合五、一秒間三石とする。(カツコ内は割合)

   四月上、中旬(一・〇) 四月下、五月上旬(一・五) 五月中、下旬(二・〇)

   六月上旬(二・五) 六月中旬(三・〇) 六月下旬(四・〇)

   七、八、九月上旬(五・〇) 九月中旬(三・五) 九月下旬(三・〇)

   十月(二・五) 十一月(二・〇) 十二、一、二月(〇・五) 三月(〇・七)

   投餌標準

   月 別  投餌割合    主 要 餌 料       投餌回数   一回で食べる時間

   四 月    一    米糠、豆粕、田にし、醤油粕     一    一時間内外

   五 月    四    さなぎ粕、泥虫、みみず等    二~三    三〇分内外

   六 月   一五    〃               四・五     〃

   七 月   二〇    さなぎ、野菜屑         七・八     〃

   八 月   三〇    塩               九~一二    〃

   九 月   一〇    〃               五~六     〃

   十 月    五    〃               三~四     〃

   十一月    一    〃               一~二     〃

   〔備考〕 五月上旬頃、水温摂氏十四度から投餌する。五月中の餌料は植物性のものを与える。即ち、麩を千尾につき一升~一升二合、練り餌とする。八月中水温が三十度を越せは、日中給餌をさけて朝夕に行う。病気の鯉が多い時は植物性餌料を与えて、なお発生すれば給餌を止め、注水量を多くする。取り揚げ二、三日前に給餌を止める。

  五、昭和九年度収支決算

   収入の部  五九五円

    うち組合費一九〇円(組合員一人十円宛、十九人)売上高三一五円(百匁内外、二千尾、百八十貫、単価十七銭五厘)

    繰越魚七〇円(五、六十匁以下のもの八百尾、四十貫)雑収入二〇円(不用品売却代五円、奨励金十五円)

   支出の部  四二二円三六

    うち事務費一〇円(消耗品五円、主任手当五円)会議費二三円(総会費)鯉苗代八七円五〇(購稚魚五十貫代)

    餌料代九三円三〇(蚕蛹百八十貫代五十四円、大豆粕四叺代十一円、大麦二俵代十円、塩一叺代一円五十銭、

    塩虫二俵代十四円五十銭、麩一袋代二円三十銭)雇人費一二円(販売人夫二十人賃)

    借地料七〇円五六(四百二十歩借料米、二石五斗一升、この金七十円五十六銭)

    視察費六円(県外視察手当)償還金一二〇円(借入金償還)

   収支差引利益金 一七二円六四

  〔備考〕鯉の稚魚十五匁内外のもの三千尾を放流、最小限四百貫収穫の目標であったが手取川のはんらんで成長最盛期に一ヵ月間、給餌不能となったため、初期の成果があがらなかった。なお、給餌その他で人夫百二十人を要したが、これは組合員が交替で出役したものでとくに話し合いで賃金を支払わず、前記決算には含まれていない。

  以上養魚について記したのだが、この養魚についておもしろい話が残っている。

  当時、松任農学校の校長は五坪茂雄先生で、その頃の各町村では先生の話をよく講話として聴講したものである。先生は非常にたくみな話しぶりだった。たまたま、わが富奥村にこられ、経済更生の一環として鯉の養魚こそ一石二鳥であると力説され、もうけと栄養と若者の躍動心を養うこんなぼろい経営はないと話された。前記の人達が半信半疑で取りかかって富奥の鯉の名を天下にとどろかせたのである。瓢箪から駒が出たようなものであった。

  ピチピチと網にすくわれた三十㌢以上の大鯉が、当時の農家の若人達によって養魚場から水揚げされ一年の成果がみのり、鯉のはねあがる姿に心おどり血わく若人達の歓声が、いまもなお聞こえるようである。

  以上二つの計画実行は昭和七年頃の経済不況時代に、画期的な多角経営方針であり、わが村としては特筆すべきことであった。農業不況時代の不安定な心の中に、やればやれるという明るいニュースの一つでもあった。

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富奥郷土史