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==第九節 村の家(聖農修練舎)の誕生==
経済更生の計画を達成し、豊かな村づくりを進めるためには、物心両面の心がけがなくては到底この困難に打ち勝つことは出来ない。それには経済的農業経営、農家生活の計画と並行して、心の面での修練がなくてはならない。先にその面において一村一心を合い言葉に村民が心を合わせて進むことを誓ったが、いま一つ実践面に心のよりどころとする何かが欲しいし、必要なのではないだろうか、との考えが人々にあった。
これに対し農村の豊かな生活を目指して指導を続ける若いリーダー中島栄治氏は、これからの農村はなんとしても青年の力であり、健全な農業後継者育成がなくてはならないと決意し、ここに全国でも珍しい「村の家」なるものをつくった。これはいろりをかこんで若い青年達が自由に意見を交換し、自分の研究を発表できる場として、そこから心の修養を培い、視野を広め、若人達との友情を高めていこうという、まったく新しい試みで、村人達はもちろん、石川県下でもが然注目のまととなった。その頃、東京を中心として全国的に村の家運動が提唱され、遠く満洲まで広まったといわれていたが、国内でこの村の家を実際に運動として実践したのは、わが富奥村のほか数少ないものだったらしい。そのため国内の中央部からの名士の訪問が相つぎ、研修を続ける青年達を驚かせたのである。わが村の青年達はもとより、石川県下各地からの青壮年達の参加するところとなり、村の家はまさに農民研修の一大道場となった。
昭和十一年度に富奥村が経済更生特別指定村となるや、当時四四〇円の経費をもって元の教員住宅の一部を改造し名実ともに農民道場の設備を整えたのである。昭和十二年三月落成し、県知事を迎えて開舎式を挙げた。そして「村の家」も含めて聖農修練舎と名づけた。
以後は、村の家・聖顔修練舎を中心に、以前に増して青壮年達の講習や懇談会などの行事が展開され、石川郡の催し物などはほとんどこの道場を使ったほどであった。村人たちはいつの問にかこの道場を「聖農塾」とも呼び、さらに後日になってからは「中島大学」ともいって、ここへ来ないと心の落ち着きを失うような親しみを覚えていったのである。昭和十二年六月にはさらに一、七五〇円の多額を投じて四十坪の集合と六坪の舎屋の建設が行われ、同九月に完成した。また、物置小屋が空いたのでこれに経費三九〇円を投じて、茶の間十畳一室、研究室十坪を整備し、別に五五〇円をもって内装備品を購入し、最終的には三、〇〇〇円以上を投じた立派な道場となったのである。
聖農修練舎々訓
一、報恩感謝 すべて神仏に感謝し、すべてに報恩の誠を致せ
一、努力奮闘 苦難を喜んで迎え、努力と奮闘を惜しむなかれ
一、物心一如 経済の更生は建全なる精神生活に胚胎す
一、研究改善 絶えず研究に努め、工夫改善に遷せ
一、一円融合 己を修め、家を斉へ、一円融合の実をあげよ
聖農修練舎心得
一、身を殺して忠を尽くし、大君を安んじ奉るべし
一、両親の命必ず背くべからず
一、堅く志を立て、時、中道を求むる態度を失うべからず
一、座作進退を切に礼儀を正しくすべし
聖農修練舎々則
第 一 条 本舎ハ健全ナル農村富奥ノ建設ニ資スル為農場ヲ中心トスル実習的訓練及農民精神ノ陶冶ヲナシ以テ農
村中堅人物ヲ養成スルヲ以テ目的トス
第 二 条 本舎ヲ聖農修練舎ト称ス
第 三 条 第一条ノ目的達成ノ為村内各種団体交互主催ノ許ニ合宿講習会、講演会、輪読会、農事研究ヲ実施ス
第 四 条 毎年度末本舎職員並二経済更生委員会々合ノ上翌年度ニ於テ実施予定行事ヲ定ム
第 五 条 本舎ノ行事ハ概ネ左ノ要領ニテ之ヲ行ウ
1、神前礼拝 2、農村更生歌合唱 3、舎訓朗唱 4、皇国運動(やまとはたらきの体操)5、その他
第 六 条 本舎ニ於テ行ウ行事ノ費用ハソノ指導主体ニテ負担スルモノトス
第 七 条 本会付属焼場ハ本村立青年学校生徒ヲシテ之ヲ経営セシムルヲ本体トスルモ各種団体員ハ本舎ニ於ナル会合毎ニ農場ニ出テ
作業ニ肌スルモノトス
第 八 条 本舎ニ次ノ職員ヲ置ク 舎長一名、副舎長一名、主事一名、理事若干名
第 九 条 舎長ハ本村長之ニ当り副舎長ハ本村助役、主事ハ木村青年学校長、理事ハ各種団体長之ニ任ズ
第 十 条 舎長ハ舎務ヲ総理シ副舎長ハ舎長ヲ補佐シ舎長事故アル時ハ之ヲ代理ス、主事ハ舎長ヲ補佐シ管理指導ヲ掌リ理事ハ事業実施ノ首班トナル
第十一条 本舎使用規定ハ別ニ之ヲ定ム
こうして経済更生指定村からさらに特別指定村へと、中島栄治氏を中心に村当局と村民が一体となって、血みどろの奮闘を繰り広げた。春も夏も冬の日も、時には夜の明けるのも忘れて議論し、時には切歯やくわんし、手を取り合って涙をぬぐい、若い命をひたすらに農村の未来像を築かんと勉学修練を続けたのである。後年、戦争が激しくなり終戦まで村の活動の大きな原動力となったのも、すべてこの聖農修練舎での青年達であった。
一村一心の石標樹つ
五ヵ年計画も達成した昭和十三年、役場前に五ヵ年の実績を記念してみかげ石に「一村一心」と刻んだ石標を建てその後も村民の心の指標として長く伝えることにした。
ただ、敗戦という衝撃的な日本の惨状は、これらの苦しく耐え抜いて来た数多の尊い実績を、あまりにもはかなく無残に打ち砕いてしまった。そしてなにものにもかえがたい大きな犠牲として真剣な若き青年達の努力を無にしてしまった。悲しい敗北であった。農業と、村への愛着と、国に尽くすことへのひたむきな純粋な心も、いまはうつろな無感動の響きでしかない。しかし、そこに育まれた豊かな心の面がせめてもの一つの救いである。
いまはただ一つ、場所を公民館横に移されて、じっと直立不動にたたずんでいるみかげ石の「一村一心」の石標がひっそりと忘れられたかのように残っている。
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富奥郷土史