メニューに戻る

第七章 学校教育
(第十一節 育友会)
目次へ

<< part10へ [part11]

==第十一節 育友会==

 

第十一節 育友会

  学校教育の充実を図り、さらに重要性を高めるために、村財政範囲の中でもかなり高い教育費をかけてきたが、学校教育は現場教育のためいろいろな教育材料が要求されるので、富奥村でも終戦までは教育後援会をつくって、父兄はもとより、村全体の組織として学校教育の推進的役割を果たして来た。

  就学児童の父兄というより、村全体を含めた人々で後援会を組織していたのが当時の特徴であった。だから後援会でどうしても出来ない場合は、村当局へお願いしてその効果を実現していった。

  昭和二十年八月十五日、戦争に敗れて日本全土は荒廃し、人々の心は虚脱状態となった。その荒れ果てた中にも学校教育は目的を失いながらも続けられたが、アメリカ占領軍のマッカーサー元帥の指令により、日本解放の中でもとくに学校教育の根本を改革することが第一にあげられた。この結果、まず、学校教育のうちでも日本が最も重要課目としていた修身、歴史、地理、体操(とくに武道)などの教育は全面停止を命ぜられて新しく社会科が採用されたのである。また、米国から日本の教育を改革するための教育使節団が派遣され、前記のような改革と教育制度の革新についての報告書が手渡されたのである。これに基づき国会においても昭和二十二年三月、教育基本法を制定し、学校教育制度の改革を始めたのである。昭和十六年からの国民学校の名称は看板を取りはずし、また、青年学校の軍事教練も禁止され、国歌君が代の斉唱も日の丸の掲揚も望ましくないとされ、すべての軍国色と将来への軍事的要素を学校教育から取り除いて、明治五年の学制発布から連綿と続けられた教育勅語中心の学校教育は、ここに終幕を告げた。そしてそれまでの保護者会をマッカーサー指令により、先生と父母の会を略してPTA協議会という名称にしたのである。

  PTAは就学児童の父兄を対象として、先生も父母も子供とともに民主教育を身につけることを特徴としている。学校教育は六・三・三制に切り換えられ、PTAの活動はさらに多忙となり、これまでと全く異ったものとして、父兄達の間に論議をかもしながらも盛んになっていった。

  そして次第に年月を経るにつれてその名称も今日では育友会と変えられ、PTAの頃とはいくらか落ちついたものとなって来たようである。

  富奥村でも昭和二十二年からPTAが結成され、先生と父母と村とが一体となり、成果をあげて来たのである。次の人達が歴代会長として活躍され、尽力された。

 昭和22〜23 山原七郎   昭和24〜25 東田幸一  昭和26〜27 宮川隆正

 昭和28〜29 宮岸 清   昭和30   栗山信政  昭和31〜32 金田 亮

 昭和33〜  中村精憲   昭和34〜35 上野由雄   昭和36〜37 浦 秀雄

  ところが、昭和三十二、三年頃から急激に本村の児童数が減少するようになり、複式授業をしなければならないという事態にまでなって来た。その頃から小学校の統合問題が論議されだした。そして昭和三十六年になって小学校はついに統合され、富奥小学校の伝統ある歴史と名称は消えてしまった。と同時に富奥小学校育友会も浦秀雄育友会長を最後にその永い歴史を閉じたのである。時代の流れとはいえ心さびしい限りである。参考までに当時の育友会の一年間の収支決算があるので、活躍と年中行事を回顧してみよう。

  小学校創立五十五周年記念事業協議割として、富奥村の拠出方法は次のようにして集金された。

  平均割 二  所得割 四  資産割 四

  平均割は戸数に四八〇円を乗じた金額、所得割は耕作反別に反当収入一九、〇〇〇円を乗じた額に〇・〇二七五を乗じた額、給料者は全額の八割三分から基礎控除八〇、〇〇〇円を引いた額に〇・〇二七五を乗じた額、資産割は固定資産税年税額に〇・一を乗じた額となっているが、あくまで参考までであって、各区においては適当に再割当てされて、差し支えないが、合計額は確保してほしいということになっていた。現在だと、かなり論議を呼びそうだが、とにかく村内在住者は以上のように協力したのである。

   創立五十五周年記念寄付者芳名 (出身者)

 金 二拾壱万七千円  大阪   北陽繊維株式会社殿 粟田

 金 拾 五 万 円  大阪   竹 内 信 吉殿  粟田

 金 拾  万  円  大阪   志 村 三 次殿  下林

 金 五  万  円  浜松   庄 田 和 作殿  上新庄

 金 五  万  円  大阪   西 野 定 吉殿 粟田

 金 四  万  円  金沢   松 尾 宝 作殿 清金

 金 壱万五千円    金石   増 江   博殿 末松

 金 壱万五千円    金沢   阿 部   忍殿 末松

 金 壱万五千円    飯田   福 田 文 子殿 末松

 金 壱  万  円  野々市  西 川 季 吉殿 三納

 金 壱  万  円  金沢   塚 崎 太 郎殿

 金 壱  万  円  金沢   藤 田 勝 政殿 清金

 金 壱  万  円  瀬戸   村 上 六三郎殿

 金 壱  万  円  金沢   林   誠 治殿

 金 壱  万  円  大聖寺  佐久間 由 秋殿 上新庄

 金 壱  万  円  大阪   谷 内 金 子殿 末松

 金 壱  万  円  大阪   中 西 清 吉殿 清金

 金 壱  万  円  金沢   野 田 い と殿

 金 壱  万  円  金沢   本 井 次 吉殿 清金

 金 壱  万  円  金沢   永 島 信 幸殿 上林

 金 壱  万  円  松任   上 野 栄 吉殿 清金

 金 壱  万  円  ブラジル 清 水 外 栄殿 清金

 金 壱  万  円  金沢   成 田 大 龍殿 清金

 金 壱  万  円  村内   浦   秀 雄殿 上新庄

 写真機        金沢   中 谷 義 信殿 上林

 テ ン ト      大阪   竹 内 長 松殿

 レリーフ       村内   米 林 勝 二殿 中林

 金 庫             富奥農業協同組合殿

  昭三十二年十月二十三日

     富奥小学校の歴代校長

  清金小学校

         奉職年月日

  朝 輝明 明治十八年七月〜明治二十年四月

      (校長代理)

  中林小学校

  永山 垣豊 明治二十年四月〜明治二十年五月

  小林庄太郎 明治二十年六月〜明治二十九年三月

  倉本  諒 明治二十九年四月〜明治三十二年二月

  中村 克正 明治三十二年五月〜明治三十五年三月

  下林小学校

   平澤 鍋吉 明治二十年四月〜明治二十一年三月

   岸田 釣二 明治二十一年三月〜明治二十二年十一月

   鳥居太三郎 明治二十一年十二月〜不詳

   丹羽善次郎 不詳     〜明治三十年三月

   山本 貞一 明治三十年四月〜明治三十一年五月

   飯島 満正 明治三十一年五月〜明治三十二年四月

   高橋勝太郎 明治三十二年四月〜明治三十五年三月

  粟田新保小学校

   湯浅 尚志 明治二十年四月〜明治二十年九月

   西田 成美 明治二十年十一月〜明治二十一年五月

   中島保太郎 明治二十一年五月〜明治二十三年五月

   榎並 亮平 明治二十三年六月〜明治二十四年四月

   福村 秀信 明治二十四年五月〜明治二十五年二月

   山田 俊勝 明治二十五年二月〜明治三十五年三月

  富奥小学校

   高間 清策 明治三十五年三月三十一日〜明治三十七年三月三十一日

   丹羽 精吉 明治三十七年四月一日〜明治四十四年十二月二十二日

   和田 秀雄 明治四十五年四月一日〜大正三年三月三十一日

   村北栄太郎 大正三年四月一日〜大正十五年九月一日

   古河 徳吉 大正十五年九月一日〜昭和四年一月三十一日

   橋本助太郎 昭和四年二月一日〜昭和七年三月三十一日

   待田与三松 昭和七年四月一日〜昭和十二年三月三十一日

   松田作次郎 昭和十二年四月一日〜昭和十四年六月三十一日

   前田 資知 昭和十四年七月一日〜昭和十七年三月三十一日

   川口源太郎 昭和十七年四月一日〜昭和十九年三月三十一日

   西川 他吉 昭和十九年四月一日〜昭和二十一年八月三十一日

   川上  覚 昭和二十一年九月一日〜昭和二十二年三月三十一日

   竹内 保之 昭和二十二年四月一日〜昭和二十六年三月三十一日

   吉村 一二 昭和二十六年四月一日〜昭和二十八年三月三十一日

   松本 喜好 昭和二十八年四月一日〜昭和三十一年三月三十一日

   山本与三吉 昭和三十一年四月一日〜昭和三十六年三月三十一日

  

 

 

[part11] part12へ >>




 ▲ 1:第一節 学制の施行 2:第二節 小学校誕生 3:第三節 各小学校の推移 4:第四節 合併創立=富奥尋常高等小学校 5:第五節 富奥尋常小学校の沿革 6:第六節 農業補習学校、青年訓練所、青年学校 7:第七節 女子裁縫学校=農業補習学校女子部 8:第八節 国民学校 9:第九節 戦後 10:第十節 教育委員会の発足 11:第十一節 育友会 12:第十二節 涙の閉校式 13:第十三節 同窓生名簿