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第七章 学校教育
(第七節 女子裁縫学校=農業補習学校女子部)
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==第七節 女子裁縫学校=農業補習学校女子部==

 

第七節 女子裁縫学校=農業補習学校女子部

  石川郡誌によると、明治四十一年七月、本村小学校に付設し専任教師を置く、とある。

  農村の女子を対象として、嫁入り前に教養を身につけさせることを目的としたものであった。主として和裁を一日中習うのである。時には子供のお守りを兼ねて裁縫を習う女子もいた。一週間に二回ほどお花のけいこもあった。月に二、三回は料理の講習もあったらしい。しかし明治から大正の初めはほとんど和裁のみであった。

  大正十四年九月三十日には女子裁縫学校を廃して、村立農業補習学校女子部と改称した。裁縫だけではなく、女子にも農業に関する知識と、一般教養が必要だということで授業に取り入れられたのである。裁縫学校から補習学校に学んだこのころの女子の大半は、和裁にかけては一人前であったが、戦争が激しくなった時代と終戦後の女子は、裁縫はダメである。

  女子部も農繁期は休校となり、家にいて農業を習得し、農閑期になるとまた開校されて、春三月まで毎日勉強と裁縫を学んだ。当時嫁を捜すには、女子部の裁縫をしている所へ来れば、手っ取り早いとされていた。料理、お花、お茶など当時の農村としてはかなりの教養を教えこまれたものである。

  歴代の先生は次のみなさんである。

   前田    平木    高橋    田井静枝  宮森とめ子  中村幸子

  戦争が激しくなったころにはもう女子部は裁縫どころではなくなり、工場や勤労奉仕などにかり出されて、事実上女子部は閉鎖されたような形となって終戦を迎えた。

 

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 ▲ 1:第一節 学制の施行 2:第二節 小学校誕生 3:第三節 各小学校の推移 4:第四節 合併創立=富奥尋常高等小学校 5:第五節 富奥尋常小学校の沿革 6:第六節 農業補習学校、青年訓練所、青年学校 7:第七節 女子裁縫学校=農業補習学校女子部 8:第八節 国民学校 9:第九節 戦後 10:第十節 教育委員会の発足 11:第十一節 育友会 12:第十二節 涙の閉校式 13:第十三節 同窓生名簿