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第七章 学校教育
(第九節 戦後)
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==第九節 戦後==

 

第九節 戦後

  国家と神道が分離され、昭和二十年十二月三十一日、修身科・国史科・地理科の授業停止が行われ、明治維新以来の伝統的教育が崩壊させられた。

  従来の六年を九年に延長し、授業料は徴収しないことになった。男女共学制も採用された。また、学校教育法も制定、公布されて、四月一日を期して、六・三制の義務教育制度が実施された。と同時に国民学校の看板は昔なつかしい小学校に書き改められた。

  敗戦とともに学校内の整理が始まり、十一月には学校飼育場を売却、十二月末には御真影奉還が決定した。二十一年一月九日、軍政隊の学校調査のあと同二十八日に今上天皇、皇后両陛下の御真影奉還を行った。さらに四月には本校歴史ならびに本村の陰の力であり、永年勤続の林ナツ(十九年一ヵ月)、杉原勇吉(十七年一ヵ月)の両先生が転任され、村民一同別れを惜しんだ。

  二十二年には学校教育法の施行によって小学校となり、戦前の学校行事が次第に復活され、父母と先生の会が結成され、教育後援会は解散。同二十三年七月、教育勅語その他の勅語は地方事務所へ返還、旧四大節は改名、また農繁期休業なども復活した。

  同二十四年には校舎改築準備委員会が作られ、五月二十八日入札、越田組に落札となり、六月十九日地鎮祭、七月十三日上棟式、十一月十日新校舎落成、翌日祝賀行事として校歌発表会が行われた。翌年二月部落別懇談会なども行われ、六・三制教育も一応基礎的に完成の運びとなった。

  昭和二十二年四月一日、学校教育法規則により、村立富奥小学校、同中学校と改称した。学校行事の中心であった四大節祝賀式、勅語奉読式、神社参拝などはすべて廃止され、また、一方で、図書館蔵書のうち戦記物、国粋思想の書物は墨をぬったり焼却された。

  昭和二十二年五月、学校生活の思い出の一つである修学旅行が復活、十月には運動会が再開、その間新教育懇談会が数回行われた。同二十四年七月二十六日から和倉温泉錦海荘で養護聚落が開始され十一月十日新校舎落成を記念して県下小中学校の習字図画展覧会を開催。翌十一日には校歌発表会が行われた。

               金大助教授 藤田福夫作詞

  富奥小学校校歌   金大講師今井松雄作曲

           (昭和二十四年十一月十一日制定)

 一、自由花咲く 新世紀   富奥校に 学ぶもの

  見渡せ広い 加賀平野  輝く緑 匂う風

  そのすがしさを胸にして 平和日本を 建てるのだ

 二、国土は薫る 新世紀   富奥校に 学ぶもの

   かえせ黒土 春秋に   光に育つ 少年の

   元気あふれる その腕で 豊かな日本を 建てるのだ

 三、科学は興る 新世紀   富奥校に 学ぶもの

   世界に開け そのまなこ 高くきらめく 明星を

   行く手の空に 仰ぎつつ 文化日本を 建てるのだ

  昭和二十四年十一月十日に落成した富奥中学校の新校舎の概要は次のとおりである。

  本校舎 木造二階建四二〇坪(一、三八八・五三平方?)

  内訳 普通教室九 応接室一 教員室一 昇降階段二  事務室一 正面玄関一 放送室一

   付属建物

    炊事場 当直室 小使室 渡廊下 中央大廊下

   模様替え

   中側旧教室西端から  イ 学校図書館、教具教材室 ロ 衛生室  ハ 工作準備室並購買部  ニ 工作室

  右のようになつかしい平屋建て旧校舎の前側が全部取りこわされて、新校舎が出来たのである。多額の村財政で建てたこの校舎も、わずか七ヵ年で統合中学校のため廃校となってしまった。いまにして思えは誠に残念である。

  昭和二十二年四月一日からの教科種目を参考までに記してみよう。

  小学校 国語科 音楽科 社会科 算数科 図画工作科 理科 家庭科 体育科 自由研究

  中学校 国語科 習字科 社会科 数学科 国史料 理科 音楽科 図工科 体育科 職業科 外国語科 自由研究

  昭和二十七年四月、浜松市の本村出身庄田和作氏から、図書購入費にと二万円のご寄付をいただいた。また、翌二十八年十二月二十三日には大阪の竹内信吉氏から放送機施設一式を寄贈され、校内すみずみまで音楽や話し声が流れるようになった。同じころ粟田北陽繊維会社より幕二張りの寄贈があり、これも披露された。

  同二十九年三月、新学期より新入生の増加のため特別教室を改装して一教室を増設したが、全国的傾向と同じく本校も開校以来、初めて一学級二組の教室ができ上った。

  また給食面では昭和二十八年三月「給食感謝祭」を行ったが、翌二十九年五月から従来の副食給食より一歩前進した完全給食を実行することとなった。同年十二月十三日、本校使丁として三十年間勤続された水江さんが退職されるというので、村内有志が集まって別れを惜しんだ。

  昭和三十年四月一日、富奥村は野々市町に合併、したがって学校名も野々市町立富奥小・中学校と改名。十二月二十八日、新中学校校舎建築工事の入札を行い、五、一五五万円で落札。翌三十一年一月十五日、起工式を行った。三十一年三月二十四日、町立富奥中学校は廃校式を行い、同時に町立野々市中学校も廃校、新たに四月一日から新野々市中学校を設立開校し、新校舎の完成まで中学一年生三学級が富奥小学校に委託された。

  金沢大学教育学部学生の教育実習は当富奥小学校で行われた。養護聚落は加賀市片山津温泉の湖月荘に変更。

  昭和三十一年十一月三日、野々市町に中学校新校舎が落成したので、中学生徒は全部移転、あとは小学校生徒のみの学校運営が開始された。昭和二十二年、従来の教育後援会を解散して設立した「父母と先生の会」は、発足十年目に当たる昭和三十一年の春、石川県PTA連合会並びに石川郡連合会から表彰されたのを機会に十二月一日、盛大に記念式を挙行した。

  同三十一年十一月には児童用東側便所が竣工、同工費は六十三万三千円であった。

 

 

 

 

 

 

 

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 ▲ 1:第一節 学制の施行 2:第二節 小学校誕生 3:第三節 各小学校の推移 4:第四節 合併創立=富奥尋常高等小学校 5:第五節 富奥尋常小学校の沿革 6:第六節 農業補習学校、青年訓練所、青年学校 7:第七節 女子裁縫学校=農業補習学校女子部 8:第八節 国民学校 9:第九節 戦後 10:第十節 教育委員会の発足 11:第十一節 育友会 12:第十二節 涙の閉校式 13:第十三節 同窓生名簿