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第七章 学校教育
(第六節 農業補習学校、青年訓練所、青年学校)
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==第六節 農業補習学校、青年訓練所、青年学校==

 

第六節 農業補習学校、青年訓練所、青年学校

 「明治三十四年、冬季夜間学校を開設す」とある。このころ、青年たちのために夜学という方法をとって農村青年に学問の途を開いた。冬の寒い積雪の中を夜学に通ったのである。先生もまた、夜おそくまで勉強を教えられ、そのつらさは想像しがたいものがあった。

  夜学は主として小学校を終えた人たちの勉強の場である。高等三年という制度も野々市町とか松任町にあったらしいが、本村での農業補習学校も大正五年九月学則が改正されたので専任教師を置き、通年制とした。この年の村治一覧表によれば、富奥農業補習学校生徒数五五人、予算五三円六〇銭となっている。

  昭和になって補習学校は前期二年、後期二年に改められ、農繁期の四、五月と九、十月の四ヵ月間は休校、あとは全部朝から勉強した。四ヵ年を終えるとあと二ヵ年は軍事教練をうけた。軍事教練は補習学校後期二年からすでに始まっているのだが、これは二十一歳の徴兵検査まで続いた。教練はたいてい午後からで、一週間に三日から四日、後に戦争が激しくなると名称も青年学校と改められた。

  補習学校は、もちろん農村の青年たちを教育する学校である。当時の富奥村は、一戸当たりの耕作面積が平均約二?だったので中学へ進学する者はきわめて少なく、そのためほとんどの男女は補習学校で勉学し農業科を学んだ。

  専任の教師も特別に養成され、補習学校の教員は特別待遇であった。教員は勉学はもちろん、生徒の身の上相談まで相手となり、青年団でもなくてはならない指導者であった。また、時には酒など汲みかわすよき友人でもあった。

 歴代補習学校教員は次の十一氏である。

  加藤立栄  作原 信  竹内仁重郎  古田他二男  宮崎一郎  岡田一郎  田中千代松  橋本 力 浜野次雄  上田永吉  稲垣太十九 (順不同)

  そのころ同じく女子裁縫学校(のちに補習学校となる)の女子と一週間に二回ほど一緒に勉強する機会があった。その日の午後は男子生徒の騒がしいこと、胸はソワソワ、勉強などはうわの空であった。先生もその辺は心得たもので、半分ごろからとんでもない方向へ話がソレて行く。男女間のことがとかくやかましい当時としてはせめてそれだけが女子との楽しいひとときでもあった。

  後期になってからの軍事教練は、軍隊を終わって家に帰った人を指導員として村当局が任命し、きびしい教練を行ったものである。学校の建物の一室には、歩兵銃や帯剣など生徒一人一人に責任をもたして貸与してあった。

  秋が終わったころ、隣の額村の青年学校と合同演習を行った。辰口付近で夜間演習をやったが、払暁戦の総攻撃などは当時の人びとにとっては思い出の一つである。

  第九師団の聯隊区司令官の検閲を受ける日は、指導員も生徒も朝から緊張したものである。時には第四部合同演習をやったり、専光寺から打木の砂浜で石川郡の合同演習に参加し、夏の浜蚊に悩まされたこともあった。

  演習学校も青年学校も、敗戦と同時にすべてなくなってしまった。青年学校の歴代指導員は次の各氏。

 西川 次一  東 週二  西本博義  安田正一  堀江秀吉  中野三省  吉本 栄松

 

 

 

 

 

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 ▲ 1:第一節 学制の施行 2:第二節 小学校誕生 3:第三節 各小学校の推移 4:第四節 合併創立=富奥尋常高等小学校 5:第五節 富奥尋常小学校の沿革 6:第六節 農業補習学校、青年訓練所、青年学校 7:第七節 女子裁縫学校=農業補習学校女子部 8:第八節 国民学校 9:第九節 戦後 10:第十節 教育委員会の発足 11:第十一節 育友会 12:第十二節 涙の閉校式 13:第十三節 同窓生名簿