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野々市町歴史探訪
本町(布市神社)
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==布市神社==

 

○ 布市神社

 

 永延元年(九八七)人皇第六十六代一条天皇の勅に依り、加賀国司として下向し醇政を布いたので国民その化に親み正暦元年(九九〇)朝廷に奏して重任を乞い正暦四年(九九三)永住の勅諚を賜り、天皇は忠頼に住吉三柱の神像を賜ひ富樫氏の守護神とした。韓唐人の入り込み国内を騒さんとするおそれあり、此の明神の利益を以って奉祀した。

 当神社の神霊は上筒男命(うわづつみのみこと)・中筒男命(なかつつみのみこと)・底都海津見命(そこつわたつみのみこと)の三柱富樫忠頼(とがしただより)の神霊合祀して四柱は富樫郷住吉神社の祭神である。

 旧荒町(現本町一丁目)外守八幡神社の祭神は応仁天皇(おうじんてんのう)菅原道真(すがはらみちざね)公の二柱

 旧西町(現本町四丁目)照日八幡神社の祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、応仁天皇の三社

 前記二社は大正三年(一、九一四)十一月二十日富樫郷住吉神社に合祀して布市神社と改名した。

  宝物

 一、富樫昌家の頃信長のご神刀(大乗寺の白山霊水で名刀を鍛えた)

 一、奉額住吉大明神 江戸時代佐々木志津摩の揮毫による木額

 一、源平八嶋海戦図絵馬狩野明信作 文化の人物

 一、赤穂義士討入図絵馬 元禄十五年(一、七〇二)

 一、聖徳太子一代記図絵馬 嘉永二年(一、八四九)

 一、石山合戦図絵馬 安政二年(一、八五五)

 一、神功皇后

 一、武内宿禰

 一、獅子頭・天満宮額

 一、和算額 安政五年(一、八五八)

 

○ 冨樫氏館跡先業碑

 安政元年(一、八五四)水毛生伊余門氏は富樫館跡地が荒廃の原野になっていた地を(現住吉町)私財を投じて十数年にわたり十数町歩を開墾した。この地を村民に与えて償を求めなかった。

 明治二十二年(一、八八九)富樫館跡を後世に伝えるため布市神社境内に碑を建立した。

 

○ 公孫樹

 この古木孫樹は何時頃植えたか諸説あり明らかでない。第四代忠頼ともいい、第七代家国ともいい、第十二代泰家ともいい、木村孝信ともいう。樹齢から察するに忠頼・家国は遠きに失し、木村孝信としては近いと思い、或は泰家と思われる。文治元年(一、一八七)社殿造営の時に植えたと記してある。木村九郎左衛門孝信が織田信長の臣となり野々市に在住し、不破河内守光治に属し、村の住吉社境内に植えしものなりという。

 

○ 聖護院道興准后

 道興准后は後知是院関白藤原房嗣の子にして聖護院の門跡たりき、文明十八年(一、四八六)六月上旬足利義政(あしかがよしまさ)に東山に袂別して若狭越前を通過し加賀に入り立花動橋小松本折白山吉岡剱を通過し矢作に宿り、今宵は矢作の里といへる所に宿りけるに暁の月をながめて 「こよひしも矢はぎの里にゐてぞ見る夏も末なる弓張の月。」 藤岡諏訪神社境内

 野々市を通過せられ、野々市の活気に満ちた村人を讃え廻国雑記に京の都に劣らぬ繁栄と活気あふれる多く人が行きかい仕事に励む街の姿を讃え 「風おくる一村雨に虹きえてのの市人はたちもをやまず。」 布市神社境内

 

○ 弁慶の力石

 この石は文治二年(一、一八六)三月三日源義経が北陸路を潜行した時、武蔵坊弁慶が富樫館を訪ねて勧進を乞い弁慶が延暦寺に伝わる延年の舞を披露し、弁慶が力持ちの曲技を演じ泰家の縦覧に供した。この石を投げた日照が続いたときこの石をかづき回ったところ雨が降り雨乞石と呼ぶようになった。照日八幡神社に移されたが大正三年(一、九一四)十一月同神社合祀のとき富樫郷住吉神社に移した。

 

 

○ 観音堂

 観音堂は一日市町ラ一五二(現本町二丁目九‐一四笠間氏宅)に鎮座されていたが明治維新に廃佛の余波を受けて廃止となり本堂を布市神社境内に移した。

 

○ 稲荷社

 稲荷社二社鎮座され向って右側は旧西町(現本町四丁目)照日八幡神社に鎮座されていた。

 左側は旧荒町(現本町一丁目)外守八幡神社に鎮座されていた。二社とも大正三年(一、九一四)十一月富樫郷住吉神社に合祀された。

 

○ 忠魂碑

 明治四十三年(一、九一〇)五月二十九日建立された。日清戦役(明治二十七年)日露戦役(明治三十八年)大東亜戦役に従軍され、戦死されました方々の英霊を祀られています。

 明治四十一年十一月八日總会を開き全員一致で可決決定されました。委員の木戸惣太郎氏伊藤孫太郎氏喜多直次氏等は石材購入に上京し、在京都木戸典三郎氏の周施により、京都内田石材店と契約大阪市西区今木町柏原市太郎石材店より小豆島産花崗岩を購入し大阪駅より松任まで六トン貨車で運び、松任駅より野々市まで運ぶ車がなく村民總出で北国街道沿いに木呂を置き、石を引きずり二日間かけてようやく富樫郷住吉神社まで運んだ。村民の方々の苦労が記録されています。

 明治四十二年一月二十三日起工式

 明治四十二年三月二十四日題字揮毫金沢聯隊区司令官總理大臣兼内務大臣 元帥公爵 山形有朋閣下

 題字彫刻金沢石工飯田庄三郎氏

 明治四十三年五月二十九日除幕式が行なわれた 関係者多数参加された

 野々市村立在郷軍人団理事長 瀬尾爾郎氏

 野々市村立在郷軍人団長 釜吉三郎氏

 野々市村立在郷軍人団員 稲坂清八氏

 忠魂碑建立について野々市村立在郷軍人の方村民の方々の協力と歩兵中尉釜吉三郎氏の功績を讃えたいと思います。

 忠魂碑の土は高尾城より購入

 

○ 外守(そでもり)八幡神社

 祭神は応仁天皇菅原道真公の二柱の神は旧荒町の鎮守外守八幡神社で文化の頃七宮の一つであった。

 天満宮の祭神菅原道真公と併合した社である。その後大正三年十一月(一、九一四)富樫郷住吉神社に合祀して布市神社に改められた。

 応仁天皇を祀れる八幡宮は何処に鎮座せられたか明らかでないが慶長の頃旧 ノ三〇番地(大乗寺旧址)

 

○ 照日(てるひ)八幡神社

 祭神は天照大御神 天児屋根命 応仁天皇の三柱

 同神社の創建は建久の頃(一、一九〇)第十三代富樫家春の観請によるものである。元は西表田圃に八幡田という田地に建立されていたが(現グンゼ)天正八年まで鎮座給う(一、五八〇)同年にへ一一四(現本町四丁目十六‐三)川上氏宅附近一帯に遷宮された。

 その後大正三年十一月(一、九一四)富樫郷住吉神社に合祀して布市神社に改められた。七宮の一つである。

 

○ 照日八幡神社石柱

 照日八幡神社の表参道は小西次郎家の向い道路が入口であり、社殿跡に石柱をこの地に残し後世に伝えんとした舘八平氏は私財を投して建立した。

 建久の頃から大正三年までおよそ七二四年旧西通り(現本町四丁目)に鎮座給う神徳高き神霊である。

 一、明治二十五年十月吉日一柱照日八幡神社 一、大正七年十月照日八幡神社跡

 

○ 宮(みや)の後(うしろ)

 宮ノ後は西裏田圃にあり昔野々市七宮の内の一社の跡なりと伝わる。近くに下り松が押野境にあり、周囲一丈余り高さ二十間の古木で、木から釣瓶が下がっていた。大正の末期まであったが、耕地整理の際倒伐した。

 

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 ▲ 1:はじめに 2:布市神社 3:他の神社仏閣 4:名所・旧跡(1) 5:名所・旧跡(2) 6:藤村理平氏 7:富樫氏滅亡後の野々市 8:冨樫氏と大乗寺 9:あとがき