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野々市町歴史探訪
本町(藤村理平氏)
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==藤村理平氏==

○藤村理平氏の頌徳(しょうとく)碑 六郎公園内

  藤村家は源平時代・平家の落武者か、或は源氏の残党か定まらず藤原氏の裔

 とも思われるふしもある。只吉野朝時代に於て勤王の軍に従って皇室に忠勤を励んだことは藤村家の家憲に無言の伝統として残り血より血に流れていることから疑いない。

 足利時代となって加賀国司富樫氏野々市館に仕えてその家老職たりしが政親と本願寺派一揆に敗亡するや土民となって帰農し、以降富樫郷の名称屋を務めた。

 徳川時代の末、文化文政のころより加賀の城主前田家の御用調達に寄与し帯刀を許された。

 領主参勤交代の往復の途は必ず御小休所となり、その都度厚遇したため下賜せられる物品多く家宝として多く蔵した。

 これまで小藤屋(ことや)理兵衛と称えたが明治維新後藤村の姓を理平と改めた。

 明治十一年(一、八七八)十月五日明治天皇御巡幸の時は御宿舎を仰せ付けられた。今は当時の門だけが史蹟となって残っている。

 理平氏は野々市尋常小学校を卆業すると創立間もない石川県師範学校に入学当時の師範学校は県下の秀才が集まるエリート校であり最高学科学府の卆業者で智職階級に属していた。

 野々市尋常小学校の校長を勤めた、後退いた理平氏は早くから関心をよせていた府県会規則が公布され、最初の県会議員選挙が行なわれたのは明治十二年四月理平氏は十九才の春であった。

 県民自身によって県政を決するというわが県政史上空前の改革は青年理平氏の感動と興奮に沸きかえさずにおらなかった。そして明治二十一年七月県会議員の半数改選が行なわれると彼は自由党に入って石川郡から出馬し、初めて宿望を果したのである(当時二十九才)この時の県会は自由党と高村高俊県会および与党改進党との激しい対立から十二月に解散、翌二十二年十一月改選があった。理平は再び当選し、その後も同二十二年八月と二十八年三月と当選を重ね、県政のよき推進役として活躍された。

 明治二十三年(一、八九〇)頃海防事業に賛し金壱千円也を献納して黄綬褒章を受けられた。

 明治二十九年(一、八九六)九月から野々市村長三毛生伊余門氏の後を受けて第三代村長に推され明治三十一年(一、八九八)十一月まで村勢の発展につくされた。

 

○ 電気の導入

 明治二十三年(一、八九〇)頃金沢の森下森八氏は東京から帰途静岡県浜松市で電気会社の開業式に出席したことから金沢でもこの事業を起そうと決意した。親類・知人に相談したが耳をかす者はなかったが独力でも事業を始めようと徳永文雄氏という技術者に犀川について発電の可能性を実測させて金沢電灯会社を組織した。

 ところが明治二十五年(一、八九二)森下家は火事で類焼した。翌年森八森下氏は病気で入院した。長谷川准也が市営に譲渡してほしいと申し入れたので森八森下氏も了承した。

 市議会に市営電気事業をめぐって技術上の問題で典折があったが九月これを可決した。ところが日清戦爭がぼっ発したため政府は起債を許可しなかった。

 その後許可がおりたのは戦爭が終った、明治二十九年(一、八九六)七月その間避病院疑獄事件があったので金沢の状況は一変していた。市議会はついに明治三十年(一、八九七)五月民営に移管することを可決して森八森下氏に変遷された。理平氏はかねてから森下氏と共に水力発電所計画をねっていたので発電の可能性を実測させ、東京三井商事の技師潮田伝五郎氏に見せたところ充分採算がもてると太鼓判を押されたので理平氏は計画の一切を委嘱し、明治三十年十二月資本金二十五万円也の会社を設立し、鹿島郡中川長吉氏 羽咋郡岡野是保氏 近岡九郎氏 金沢河瀬貫一郎氏等の協力で水力発電の認可を得て直に辰巳発電所の建設に(二四〇kW)に乗り出した。

 会社名は金沢電気株式会社として活躍された。そして明治三十三年(一、九〇〇)六月末に北陸の金沢に伝統が輝いた。

 伝統の数は二、二六七灯に過ぎなかった。

 しかし今まで行灯やランプの光の下に生きて来た人々には電灯は「ぜいたく」品として敬遠され、このため経営は苦しかった。

 理平氏はこの事業の将来性を信じていた。何をおいても我が野々市に電気の導入をせなければならないと翌明治三十四年に私財を投げうって電柱を立て電線を引いて金沢についで野々市村に「文化の灯」が輝いた。

 当時の電球は五ショクの明るさで透明なものであった。電灯は夜だけであった。

 

○ 精米場

 電力による精米場は理平氏の手によって建設された。

 これまで木呂川の水車を利用して精米場が出来県下に普及したが種々のエピソードもあった。近在の油を生産する者、油を一手に販売していた店主らの圧力があった。当然電灯の普及で油を生産する者油を販売する者の大痛手を受けた。そのため自宅に電灯を引こうとせず多数いた出入りする人にも油を売りつけるため電灯は引かせなかった。

 

○ 野々市郵便局開局

 明治三十六年(一、九〇三)十二月野々市村に郵便局を開局した。郵便為替貯金業務を開始する。

 理平氏は初代野々市郵便局長に就任し活躍された。明治十一年(一、九〇八)三月集配特定郵便局に昇格された。

○ 金沢電気ガス株式会社設立

 明治四十一年十一月から「ガス事業」と兼ね金沢電気ガス株式会社と改称し、金沢市古道町にガス工場を設置し営業を始めた。

 大正十一年(一、九二一)市営に移管され、電気の方は辰巳のほか、福岡第一、第二、吉原、市原の四発電所を増設した。

 

○ 金沢常設活動写真館開店

 大正二年(一、九一三)十月末日には金沢香林坊下の花屋敷入り口に金沢常設活動写真館菊水倶楽部の経営に乗り出した。新築オープンには第四高等学校生徒や勤め帰りのサラリーマンで開場前から列が出来る上々のすべり出しで沸き返った。藤村理平氏は教育、政治、公共事業等に尽力をつくされ、その功績を徳望とを敬慕し、野々市小学校々庭に昭和十年(一、九三五)十一月藤村理平氏の銅像を建立した。その後大東亜戦の時銅像が応召された。

 

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 ▲ 1:はじめに 2:布市神社 3:他の神社仏閣 4:名所・旧跡(1) 5:名所・旧跡(2) 6:藤村理平氏 7:富樫氏滅亡後の野々市 8:冨樫氏と大乗寺 9:あとがき