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野々市町歴史探訪
本町(富樫氏滅亡後の野々市)
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==富樫氏滅亡後の野々市==

 

○ 富樫氏滅亡後の野々市

 長享二年(一、四八八)六月の一向一揆後の予震が長引き八十二年目の元亀元年(一、五七〇)五月織田信長により野々市舘・大乗寺など焼かれた。その後十年経たる天正八年(一、五八〇)三月再び織田信長の命により柴田勝家は野々市を攻め野々市は全面火の海と化した。三回に亘り戦火にあい古来の建物・宝物・古記録など焼かれ、武家・諸坊は他国へ逃げた。僅かに土着の百姓のみが残った有様である。

 そして野々市は一向宗徒の治下にあった。

 天正十一年(一、五八三)前田加賀藩治となって以降の野々市はもはや政治・文化の中心を離れ、流石往昔の盛運を偲ばせて郡内第一の大高持であったが、北陸道の一宿駅に過ぎぬ存在となった。これまで政治・文化・宗教の中心として富樫氏領主の存在地として高い誇りと教養を持つ加賀国府であった。

 

○ 北国街道の宿駅

 村は慶長の初期より漸次北国街道を形成したので宿駅の観を留め、慶長十九年(一、六一四)に大筋西町通りの端(はな)の木呂川橋詰(嶋田良三宅)より一、千二百五十間前口と奥行き十五間を加賀藩から無税として与えられ、宿駅となった。

 駅馬七十三頭と駅夫二百十人を置き、着荷の際には駅馬役人を徹用として逓駅に服しせめた。

 これが伝馬問屋が始まったのである。伝馬問屋の場所は布市神社前の南側西詰であった。

 藩政期の住居は広い家をつくることを禁じられていた。家屋の横に土蔵を建てたのは、藩政期末から明治期頃でなかろうか

 家屋に細い縦格子となる「木むしこ」と「さがり」いわれる小庇(ひさし)の板壁があり、城下町のただずまいを今に残してあります。

 北国街道の町並みは他村には見られない、大切に保存しなければならないと思います。

 

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 ▲ 1:はじめに 2:布市神社 3:他の神社仏閣 4:名所・旧跡(1) 5:名所・旧跡(2) 6:藤村理平氏 7:富樫氏滅亡後の野々市 8:冨樫氏と大乗寺 9:あとがき