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野々市町歴史探訪
本町(名所・旧跡(1))
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==名所・旧跡(1)==

 

名所・旧跡

○ 鍛冶屋川と一里塚

 江戸時代鍛冶屋職人が住み刀物を製作していたので鍛冶屋川と名がついた旧中町レ八八(現本町三丁目一五‐二七)一里塚の丘の下を流れる清らかな川であった。

 

○ 道路元標

 明治六年(一、八七三)の太政管達により全国主要街道の府県庁所在地の交通の要所に木柱を建てこの元標を起点として町内の町村に至る距離が測定され地図の作成等が行なわれた。現在は金沢市尾張町橋場交差点附近に石柱として設置されている。

 道路元標は大正八年道路法施行になり、大正九年この場所に設置する。

 

 

○ 富樫館跡

 富樫館跡記念碑は富樫歴代国守の遺徳を讃える子孫の感謝の象徴であるとともに、いよいよ明るい町づくりを誓うわれわれ町民への無言のはげましの金字塔となることであります。

 新兵衛川と九艘川の間は富樫館跡である。館跡は四〇〇メートル先の住吉地内であります。

 昭和四十二年六月一日除幕式には東京富樫晴貞の末裔冨樫一恵(主計)様参加されました。

 

 

○ 富樫館跡 和鏡出土

 住吉地内で加賀国守富樫氏の館を取り囲む堀跡を発見しました。平安時代から加賀を代表する有力な武士で南北朝時代守護に任命されるや、野々市に広大な舘を構え加賀の国を治めていました。

 この館は、これまで絵図や文献によって伝えられていましたが調査により富樫館の存在が明らかにされました。発見場所住吉町二三番二号調査面積は約三百平方メートル南北に走っており、上幅五メートル下幅一メートル深さ二,五メートル薬研堀と呼ばれています。富樫氏が有力武士であったことを物語る「和鏡」が出土しました。直径五,五センチ厚さ三ミリ遺物としては珍しく中心に「亀」その上に向き合うようにして二羽の「鳥」が描かれ、その周りは樹木の葉で飾られています。

 「物」を写す出す道具として祭祀で多く使われました。この鏡は堀の中から出土しており、化粧をするために使っていたものを捨てたのか、あるいは祭祀として意図的に投げ込んだのか、大変興味深いことですが今後の研究を待たねばなりません。

 そのほか珠洲焼 越前焼 瀬戸焼などの陶器をはじめ中国で焼かれた碗や皿などが多数出土し、各地との交流が盛んであったことがうかがわれます。今回の調査は面積は狭いものの富樫氏の実態をつかむうえで大変重要な発見となりました。

 

 

○ 延命子安地蔵菩薩

 昔行基菩薩が北陸路を巡錫の折、今の石浦神社(当地長谷寺滋光院)霊告により一刀三礼して刻まれたという石佛である第四十五代聖武天皇(七三四)の頃である。明治維新の廃佛の余波により藤村理平氏堀禄宣氏ら長谷寺滋光院に墾請してこの霊佛を受けて野々市中央曲り角に奉迎してお祀りした。明治八年(一、八七五)三体のうち一体は伏見寺一体は法隆寺へ

  十一面観音菩薩は奈良の法隆寺へ安置

  不動明王は金沢の寺町伏見寺へ安置

 

○ 参勤交代時の御小休所 明治天皇行幸御小休所跡

 藤村理平家跡一日市町ラ一五〇(現本町二丁目一七−二一)田村氏宅藤村家は徳川時代の末文化文政の頃より加賀藩主前田家の御用調達に寄与し帯刀を許された。加賀藩主参勤交代の往復の途は必ず御小休所となった。

 明治十一年十一月五日明治天皇北陸巡行の時御小休所となった。

 

○ 馬市跡

 馬市は年に四回産土神の春秋の祭礼と並ぶ年中行事の一つであり、その賑わいは古く野々市を物語っている。

 馬市の歴史は富樫時代の文正元年(一、四六六)頃には野々市に馬市があったことが見える。古くは富樫館近くの馬替神社で開かれたが前田藩の時代から住吉宮(現布市神社内)に移された。明治時代以降に村の中央の瀬尾・駒井両家の庭で行なわれるようになった。藩政当時は毎年三月四月五月九月二十日から数日間にわたり開かれた。

 馬市には藩から奉行・十村・馬役などが出張し、領内の各地から集った博労や百姓達の売り買ひの声が二才駒・三才駒のいななきと混じりあって住吉宮社頭を賑わし村の収入を潤していたが大正六年(一、九一七)法律により廃止された。

 

○ 力石公園

 源義経は北陸潜行の折武蔵坊弁慶を野々市の富樫館へ遺し勧進を乞いました。このとき武蔵坊弁慶は余興に大石を持ち曲技をして館より投げ捨てました。その石の落ちた所がこの地であると伝えられています。

 その後照日八幡神社に移されましたが大正三年十一月富樫郷住吉神社に合祀の際移されました。

 この西裏田圃に宮ノ後の地名が残り昔野々市七宮の内の一社の跡なりと伝わる。

 

○ 水毛生家

 

 水毛生家は当地でも名門の家柄である。

 この水毛生家は変った苗字である。これは祖先と縁のある「瀬尾」から生まれたという意味である。

 「瀬」の「シ」さんずいは水に通じ「尾」の一部を取り出す「尸」と「毛」となる。そして「生まれた」「生」を組み合わせて水毛生となったのである。この苗字は明治五年に付けられた。

 長享二年(一、四八八)六月政親は一向一揆に滅ぼされ高尾城で自刃した。悲劇の武将である彼は最後に臨んで重臣山川三河守の妻に三才になる実娘と十才の三河の二男を託してこの子らに子孫を残してほしいと遺言して城から落してやった。三河守の妻は二人の遺児を連れて山深い坪野の里にかくれ住んだ。

 そのうち世情が安定したので天正十五年(一、五八七)二人の遺児の子孫たちがかつての祖先が住んだ野々市に移り伊右衛門と改めたのが三毛生家の初代である。二代の伊右衛門は肝煎を命ぜられた。

 慶長十九年(一、六一四)前田藩は野々市の地前間二千五百五十間(約四町)奥行十五間ヲ賜ヒ宿場とした それより歴代この宿場の豪家として窮民を救った歴史がある。同家の屋敷地は間口十五間奥行二十二間あり裏道に通じている。

 寛永二年(一、六三五)に大飢饉があった時「米」を放出した。第二代伊右衛門

 第九代から第十二代まで「米」を放出した。代々当主は文化人として活躍された。

 浄土真宗の尼御講の頭をつとめられた。当家には本願寺十三代宣如上人消息が伝わる。

 安政の頃より寺小屋教育をし自ら教鞭をとって教えた。

 明治六年(一、八七三)七月学校令の施行と共に寺子屋教育を廃止し、三毛生伊余門氏宅を野々市村落野々市小学校の女子部として義務的教育を行った。

 文久三年(一、八六三)より蚕糸改良に盡力し桑畠一万餘株を分けた管内蚕業の奨励につとめた。

 太平寺村に於て北陸蚕糸会社を作り村民の救済に当たった。白山神社に恩徳碑がある(太平寺)藍綬褒章を賜わった。

 天正三年(一、五八五)佐々成政を討伐のため越中に向かう豊臣秀吉を迎えるため、加賀藩主前田利家が三毛生家に立ち寄り庭にあった大杉に馬をつないだという。

 元和二年(一、六一六)三月二十五日前田利常が遠出の際当家で休憩した。その時馬をつないだとされる「馬つなぎの杉」が残念ながら立枯れた。

 安政元年(一、八五四)三毛生伊余門は富樫館跡地が荒廃の原野になっていた地を(住吉町)私財を投じて十数年にわたり十数町歩を開墾した。その地を村民に与えて償を求めなかった。

 明治二十二年(一、八八九)冨樫館の跡を後世に伝えるため布市神社境内に富樫氏先業碑を建てその偉業を後世に伝えんとした。三毛生伊作氏は東京帝国大学校を大正十年三月(一、九二一)卒業された。

 宝物

 本願寺十三代宣如上人消息

 富樫氏甲本尊

 富樫晴貞の馬の絵

  太平寺 白山神社境内

 恩徳碑

 

○ 富樫家国銅像 彫刻家 米林勝二氏 本町五丁目文化会館

 

 富樫氏の始祖は鎮守府将軍藤原利仁であり、曽孫加賀介忠頼が永延元年(九八七)加賀の国司に任ぜられ、この町に住してその基礎を固め仁政を施し、その子孫は在庁官人として国務を執った。

 野々市の地に初めて居館を構えたのは平安後期の富樫介家国の時代という。

 以来富樫氏は伏見川流域周辺を基盤に勢力を拡げ、加賀の代表的武士団に発展した。南北朝室町期には富樫介高家らが守護職を歴任し、加賀の要衝であった野々市に政治支配の拠点である守護所が置かれた。歌舞伎「勧進帳」で有名な安宅関守、富樫左衛門尉は仁情ある武将としいて名高く、郷土の民謡「野々市じょんから」も富樫氏の善政を称えて今にうたいつがれている。

 長享二年(一、四八八)守護政親は一向一揆によって自害し、泰高が守護の地位についた。

 野々市は中世における加賀の政治・経済・文化の中心として大いに繁栄し、かつて当地に所在した大乗寺は、富樫一族の外護により曹洞宗の要地として発展した。

 ここに、加賀国の名門富樫氏の歴史と伝承を顕彰して、当地ゆかりの家国公の銅像を建立し、その歴史的遺産を永く後世に伝えんとするものである。昭和六十三年七月一日建立

 像高二、八九〇 巾一、〇八 厚さ七八〇

 台座一、〇〇〇 巾三、八〇〇 厚さ一、四〇〇

 

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 ▲ 1:はじめに 2:布市神社 3:他の神社仏閣 4:名所・旧跡(1) 5:名所・旧跡(2) 6:藤村理平氏 7:富樫氏滅亡後の野々市 8:冨樫氏と大乗寺 9:あとがき