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野々市町歴史探訪
本町(名所・旧跡(2))
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==名所・旧跡(2)==

○ 天満宮

  天満宮は旧中町社名不明の宮一社 照台寺南方表田圃御米供田にあったと伝える。

 ○ 河合口(川合口ともいう)

 石川郡河合村(現鳥越村河合)に河合藤左衛門宣久(のぶひさ)が河合村より林氏領と富樫氏領を通る重要な道路であった。世の人は河合口と呼ぶようになった。一向一揆の指導者となって戦った。

 

○ 六郎口

  富樫氏の同族で林六郎光明の領域で六郎光明は日ノ御子知気寺辺に館をかまえていたそうで野々市にある富樫氏林氏との重要な交通路の出入口であったので世の人は六郎口と称したのである。

 知気寺には六郎館址があり、日ノ御子に六郎畑というところあり、いづれも林六郎の遺跡である。林六郎光明は寿永二年(一、一八三)富樫泰家に従い越前三條野で平軍と戦い斉藤実盛のため陣歿した人である。(片山津首洗池あり)

 

○ 夏の水

  夏(げ)の水は旧荒町ノ四二(本町一丁目一六‐四)木津春雄方に「夏の水」という清水が沸き出た。同家は代々茶店を営み夏期になると野々市名物の白瓜・西瓜をこの夏ノ水に浸し客の観賞を得た。この水は手足を洗い置けば年中「ひび」や「あかきれ」にならなかった。明治時代末期に至り噴出を見ず名物の「夏の水」が出なくなった。

 

○ 常夜燈

 布市神社表参道に二重屋根の献燈一基あり、石積みの古いものであり、年代不詳富樫郷住吉神社創建当時のものと思われる調査を待つ。その近くに常夜燈二基あり、嘉永二年(一、八四九)五月建之と見える。

 石工大阪長堀江戸屋七兵衛とあり、大阪港から大野港を経て九艘川水駅まで運んだものと思われる。

 

○ 松金電車

 乗物交通機間として北国街道(本町通り)を馬車鉄道が明治三十七年(一、九〇四)に開通した。松任町八ツ矢より金沢市野町四丁目の区間であった。大正五年 廃止となった。

 大正五年(一、九一六)電気鉄道が松任町八ツ矢より金沢市野町四丁目開通した。電車道はサカサマ川に沿って通っていた。西野々市停留所は本町四丁目一‐三二 中野々市停留所は本町一丁目三九‐二西尾敏外氏前 野々市駅は石川總線と合流したところで左側が停留所であった。石川總線電車は鶴来町一の宮〜野町間である。

 昭和三十年(一、九五五)十一月十五日廃止となり、バス交通に移る。

 

○九艘川

 九艘川は扇が丘附近を流れる野々市の水駅であった。九艘の舟を常備して石炭・塩の外生活物資を運ぶ重要な水駅であったことがわかる。鶴来方面への物資を運ぶ中継所ともいえる。

 上流の額乙丸に枝川が碇河という川があり古へ唐舟が碇を下ろしたので碇川と名が付いたといわれています。

 大野川から二万堂を舟で野々市の水駅に着き上流の鶴来方面へ生活物資の重要河川である。

 

○ 新屋敷

 江戸時代まで野々市は西通りの木呂川まで家が建っていた。明治四年(一、八七一)以降に徐々に分家の家が建つようになったので新屋敷と呼ぶようになった。

 木呂川誌に「荷売り屋」といって食事が出来て小休憩出来る店が賑わい村の端(ハナ)木呂川の横にあって「端(ハナ)の茶屋」と世の人はよんだ。魚住弥右衛門である。大正八年現在の本町三丁目一九‐二七に移る。先祖の商標を今に伝える。

 この地に嶋田士納が履物雑貨店として移る。

 これまで交通機関がない時代で京都方面へ旅する人は歩いて行く。家族が「端ノ茶屋」まで見送り達者でなあ・・・と無事を祈り別れた場所でもあった。明治三十一年四月北陸線の鉄道開通に伴い世は一変した。

 

○ 五智大乗院

 大森玄衆さんは「野々市町の発展は富樫氏を抜きにして語れない。」富樫一族の菩薩寺として供養してもいくのも私の使命と昭和六十三年に寺院を建立された。

 大森玄宗さんは縁あって医王山寺の井上貴?(キオウ)住職との出会いがあった。そして天台宗の住職の資格をとり富樫一族の菩薩を弔うため野々市町在住の故人押田三次郎さんと建立にこぎつけた。

 第二十四代富樫政親が文武両道にかけたとされることから四天王のうち広目天の佛像を奉っている。

 政親の命日の六月九日には「大明寺院運明大居士」の位はいを前に富樫郷奉賛会の方、近所のお世話する方々が集り、盛大に法要が営まれます。

 

○ 無縁塚と馬頭観音

 昭和三十五年に東和織物工場が本町一丁目からこの地に移り建設された。全国から若い女性が働きにきていた。その頃に交通事故があり、七人が「けが」をしたり、労災事故など相次いだ。

 この付近一帯は富樫氏の菩提寺跡とも一説には刑場跡ともいわれる伝承があった。鶴来街道拡張の折には地中から墓、人骨など出土があり、街道沿いに松を植えお墓、石などまとめて無縁塚として法要し供養した。

 大森玄衆さんは無縁塚近くに馬頭観音を奉って弔うた。それ以来災害もなく、馬頭観音の五利益に感謝して手を合わせる人々が多い。

 

○ 野々市放送所

 昭和五年四月十五日金沢放送局野々市放送所開設された。

 初代町長舘惣次郎氏は金沢放送局野々市放送所開設に盡力された。始め放送出力三粁ワットであったが同二十二年八月第二放送が増設せられ、両放送十粁ワットとなる。放送所のある町は将来発展することを舘惣次郎町長は信じていた。加賀平野の大空に向かってアンテナが二基そびえ立つ野々市町の誇りである。

 

○ 農事社跡

 農事社は明治九年(一、八七六)旧加賀藩士杉江秀直が創立し、近郷の篤農家を集めて田地の区画整理、農具の改良など教導した所で当地に於ける洋式農業の発祥地である。

 明治三十年(一、八八七)この農事社を石川県模範農場と改名し渡辺譲三郎氏を議長とした。本県の耕地整理は全国最初であり、安原村高田久兵衛もこの農事社で学んだ。

 

○ 詮議場跡

 大正時代までヘ二番地(現在本町四丁目十二‐三)に舘三郎平衛という家があった(みりん醸造店経営)

 歴代新田裁許の職を勤めた家柄で、藩政時代には此附近の村落に犯罪のある時は、金沢より改方出張して詮議取調をなしたるものである。

 

○ 小武僧橋

 野々市と押野丸木との境を流れる境川にある橋で昔旅人の小武僧が何人かに殺害せられた所である。

 

 ○ 木呂川

 野々市の歴史として最も古く見えるのは菅原道真公が或時神を祈って越洲社に向う時加賀野々市を通過され、その時土地の風光を眺めて疲驂嘶二布水一という詩をつくられたと伝えられます。(布水イナナク)三州志故墟考記文

 元慶七年(八八三)菅原道真公は加賀権守に任じられ仁和二年まで四年間勤められた。

 それから菅公布水川と世の人は呼ぶようになった。その後加賀藩政時代に前田藩が松樹の伐採を厳禁したため町の燃料が不足して困ったので藩がこれを補給策として白山々麓の山野木材を倒筏し、旧暦の十月から十二月にかけて冬降雪期を利用して中宮村より「イカダ」にして手取川より富樫用水の木呂川に流したものである。

 

○ 貯木場

 貯木場又は木呂場揚げともいう。「イカダ」の木材を木呂川に流したものを現本町四丁目十二‐二嶋田良三氏の上流に高堤を築き約五、〇〇〇坪の貯木池を構成して土場揚げに集積し、木呂を積み上げた。この木呂を一メートル(三尺)程に切り乾燥させ北国街道を通り加賀藩へ納入した。この頃から菅公布水川の名が木呂川と世の人は呼ぶようになり重要な河川であった。

○ 水車のはじまり

 木呂川の水を利用して水車をつくり種油・製粉など製造する作業場とした。野々市の水車のはじまりである。

 その後精米場として酒造米の製米を舘八平氏・喜多直次氏・舘三郎兵衛氏らの作業場であった。

 この清らかな川水を酒造り、生活用水として活用した。酒屋の作業人夫が朱塗りの桶を天ピン棒を担ぎ列をつくって川水を運んだものである。

 水車の作業歌

  はなのあらまち・ちよいとしんまち・かが一日市・なかまち・六日町

  七ツ屋が・なんとかか・あとの一町は・木呂が出る 繁昌・・・繁昌

 

○ 鎮火祈願の祠

 明治二十四年(一、八九一)二月二十二日深夜旧西町へ一四番地(現本町四丁目一四‐七)附近から火災が発生し折柄の暴風のため延焼し一帯火の海となり旧六日町(現本町三丁目)と二町合せて一五〇戸焼失した。早速この地に祠を安置して鎮火祭を行ひ布市神社に於て鎮火祭執行する。毎年二月二十日鎮火祭執行して「火の要心」のお礼を消防組が全戸に配布していた。

 昭和三十年四月町村合併後に廃止となった。それ以降も所有者が変っても今日まで毎日祠にお水をお供している。山田氏

 

○ 野々市消防組

 明治二十四年(一、八九一)四月私立丸藤組(藤村氏)を組織せり、その後野々市消防組が結成され、手押しポンプを購入本町一丁目(旧荒町)源野一弥氏前 本町三丁目(旧中町旧役場前)現児童館 本町四丁目(旧西町)庄田憲司宅前三ヵ所に常備とした。その後消防自動車購入して県下消防自動車第一号ナンバとなる。

 

○ 野々市町郷土資料館

 野々市町郷土資料館は現松任市村井町に安政年間(一、八五四〜一、八五九)に建造された農村の商家で表構えは町屋間取りと構造は農家という複合建築物です。

 現在は「旧魚住家住宅」として町指定文化財となり、今もそのただずまいを残しています。

 私達が日常生活に使用していた器具や道具は昔と比べて変化しています。そのため民具の名称や使用方法が忘れられようとしています。

 当時の人々の暮らしの様子を伝えるために資料館ではこのような農具や民具を楽しみながら知っていただけるよう展示しています。

 

○ 喜多家住宅(重要文化財)

 喜多家はもと高崎姓を名乗った福井藩の武士で一、六八六年貞享(じょうきゅう)三年に縁を離れ、野々市に居住することになりました。

 代々油屋治兵衛として、その名が知られ、幕末から酒造りを営みました。明治二十四年(一、八九一)野々市の大火で建物の一部焼失したので、現在の主屋は金澤市材木町の醤油屋の建物を買い求めて移築したものです。

 住宅は間口七間半、奥行き七間二階建ての大きな町屋です。正面の細い縦格子となる木むしこ、と「さがり」といわれる小庇(ひさし)の板壁、二階の両脇にみられる袖壁、そして内部の土間の吹き抜けに縦横に架けられた梁組(はりくみ)など典型的な加賀の町屋形式を示しています。

 

○ 御倉敷

  御倉敷は、富樫氏所有の御倉の跡で天正八年(一五八〇)柴田勝家の火攻の後、其の敷地に青竹を生え茂りて一大竹薮と化した。士人これを御屋敷と云い、爾後相伝えて今に及んだ。

 

○ 山川氏

  荒田町新町(本町二丁目)東田圃の山川は、富樫氏累代の家宰山川氏の出第の迹で、文明年中三河守が連歌の宗匠飯尾宗紙を招いて連歌を相唱和した所である。

  この山川氏は、富樫繁家の後胤で其の本第を今の内川村字山川に置いた。富樫氏に仕えた。

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 ▲ 1:はじめに 2:布市神社 3:他の神社仏閣 4:名所・旧跡(1) 5:名所・旧跡(2) 6:藤村理平氏 7:富樫氏滅亡後の野々市 8:冨樫氏と大乗寺 9:あとがき