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野々市町歴史探訪
本町(冨樫氏と大乗寺)
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==冨樫氏と大乗寺==

 

冨樫氏と大乗寺

 弘長元年(一、二六一)第十四代冨樫家尚が野々市の外守にあった泰澄大師の作である大日如来の大佛堂の境内に一寺を建立し、大日山大乗寺と号して真言宗密師澄海阿闍梨を聘して住持とした。是れ野々市に於ける大乗寺の創建で現在金沢市城南野田山に法燈として曹洞宗古刹東香山御國禅大乗寺の起源である。

 

 長享二年(一、四八八)一向一揆が冨樫政親を亡くしてより、不幸野々市は戦乱相つぎ、遂に戦禍大乗寺に及んだ。元亀元年(一、五七〇)冨樫晴貞を追撃した時、大乗寺は全く焼焚され、住持雲窓祐輔は、その余燼を収捨して承天寺を仮りに大乗寺として、法燈を挑けしも、十年を経たる大正八年(一、五八〇)柴田勝家が一揆を掃討した時、承天なる大乗寺も燔燼の厄に遭い、澄海以来三百年の大乗寺もここに潰滅に歸した。その時の住持は虎室春策第十四世であった。

 元亀・天正と丘焚にあい土冦に蹂躙され、亦三百年の外護の冨樫氏を失い気息奄々たる大乗寺を痛歎した金沢の藩士加藤重廉氏は木ノ新保にある邸を提供し、私財を損して大乗寺とした。ここに大乗寺は開剏以来三百二十年曹洞興隆名匠育成の歴史ある野々市の地を去ったのである。

 加藤重廉は、加賀藩の重臣で始め六千俵を賜ったが後五百石を加えられた藩主である。此の加藤氏の援護に依る大乗寺再興の年月は天正の末期(一、五九一)か文禄の初期(一、五九五)でなかろうかとのことである。

 この大乗寺が野々市の何れの辺にあったかと謂うに、今その全域を詳にすることは出来ないが、開山塔所が野々市町ノ三十番地即ち旧荒町(現本町一丁目)の八幡神社址であることは明瞭で野々市町ム四十八番地に現存する白山水は同寺境内にあったことは明瞭であるから これを基点として、考察すれば、この附近八町四方は大乗寺遺址であったようである。

 これ等の史実を綜合し大乗寺境内西北隅にある徹通和尚の塔司は旧荒町八幡宮の境内なること最早疑うの余地はない。同社が大正三年(一、九一四)布市神社に合祀したる後大正五年(一、九一六)其の社地を耕地整理開拓した時野々市の住人野村松太郎氏が地下約六尺のところから石櫃一個を発掘した。これを当時野々市に在りし考古家舘八平氏請うて識者に鑑したるところ上文記載の如く所謂三祖の霊骨であるとのことであった徹通が入寂してから六百余年を経て発見したことは甚だ奇蹟と云うべきである。

 この霊骨を昭和二年(一、九二七)舘残翁(八平)氏は木村次作氏と図り高安軒再建して安置した。

 

 大乗寺和尚より霊骨発掘者野村松太郎氏に贈りし賞状

 同氏ハ大正五年野々市耕地整理工事ニ従事中字外守旧八幡神社畔ナル旧大乗寺開山塔所ノ下ヨリ石櫃ヲ発掘セリ之レ当寺二十七世卍山禅師ガ藩主前田氏ニ提供セシ古書ニ記載セル三祖尊ノ霊骨ヲ奉安スルモノナリ而シテ其ノ尊貴ナル所以ヲ関知シ舘八平氏ノ乞ヒヲ容し無報砂ニテ分与シ今日アルヲ致セシモノ●ニ同氏発掘ノ功ト謂フベシ洵ニ感嘉ニ堪ヘズ依テ茲ニ賞状ヲ呈ス

 昭和二年八月二日

 高安軒本寺

 大乗六十五世 徳翁大龍

 

 以上の史実等に依り大乗寺址が当町ノ三十番地旧荒町鎮守宮跡及び当町ム四十八番地、白山水を中心に 八町四方同寺領であったことが窺はれる。大乗寺野々市より木ノ新保に移り加藤重廉氏下邸に寺運を紹じに至ったが、慶長四年金沢城外濠修築の為め藩主より石浦郷に地を賜り本多氏邸上屋敷に移った。その後幾何もなく此地高山南坊(高山長房ノ事也)に賜ったので、更に石浦郷本多下屋敷に移った。(現在県立工業高校)これは慶長六年で十五世謙室和尚(慶長六年十月入寂)の時である。

 其後大乗寺は十数世を経た卍山和尚の時、即ち元禄八年(一、六九五)(卍山和尚第二十七世也)今の野田山に(当時寺地)移転し、佛堂伽藍建てその完成は元禄十年(一、六九七)八月十三日であった。この時藩主より拝領した寺地は五千百四十三坪である。爾来数十世を経て第六十七世清水浩龍和尚に至った。

 冨樫家尚が大乗寺を建立し法護を宇内に流布したことは、普通の國主大名が単に祖先の宴福を祈る為めのそれと趣きを異にし、実に國家社会の為め開剏したもので、徹通傘下に在った螢山は、後醍醐天皇の勅問に答へ曹洞の要義を明かにし、後も常済大師の称号を拝し、明峰素哲は護良親王の勅を奉して越中にて其の主事に努め大智は西陣の一角に孤立尊皇を絶唱した菊池武光一門の純忠至烈を陶冶し、通幻は彼の大楠公の季子 傑堂能勝に法義を薫陶し何れも建武の大業を擁護した。その他の名僧も四方に行脚して佛道普及に努め社会に貢献する所多かった。野々市町小史より  野々市町本町四丁目十二‐二 嶋田良三

 

 

野々市町位川町

池上白山神社境内御手水池

 

 大乗寺第三世明峰素哲の葬儀を行うにあたり白山権現の影向あり、白山権現が手を清められた池として村人は大切に守っている。 正平五年(一、三五〇)

 

 

 

本町一丁目 高安軒

 

太平寺

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 ▲ 1:はじめに 2:布市神社 3:他の神社仏閣 4:名所・旧跡(1) 5:名所・旧跡(2) 6:藤村理平氏 7:富樫氏滅亡後の野々市 8:冨樫氏と大乗寺 9:あとがき