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==第十節 富奥診療所の開設==

 

第十節 富奥診療所の開設

  現在の公民館の二階建の建物を終戦の頃は健民館と呼んでいた。下林区出身の志村三次氏の寄贈である。

  昭和二十年八月一日、富奥村中林チ七十八番地に既設の富奥村健民館を村から無償で借り受け、日本医療団富奥地方診療所を開設した。開設のきっかけは井村重雄、岡田良介の両医師が疎開先を富奥村へ依頼してきたことから、楠本県衛生課長と日本医療団石川県支部副参事田島常太郎氏が富奥村か額村に診療所を開設したらと提案、富奥村長竹内一朗氏と話し合った結果、実現したものである。

  開設と同時に中井定吉を診療所事業および経理の担当者として石川県支部長から任命、開所数日前から工事、備え付けの監督指導に当たらせた。

 所長 医学博士外科担当   岡田良介

    医学博士内科担当   井村重雄

    内科産婦人科担当医師 米林梅子

 事務書記長 中井定吉

 事務嘱託  中島八重

 看護婦   吉本外志子、成谷外茂

 見習い看護婦 中村静枝、山田朝子

 用務員    山岡ちよ

 嘱託薬剤師  倉重恒三

 嘱託看護婦  南みつゐ

  以上によって開設し、昭和二十年八月四日から九月二十八日まで松任町歯科医吉本寛一氏の出張診療を依頼したが患者少数のため十月から歯科を閉鎖した。その後の運営状況は次のとおり。

 一、昭和二十年九月二十五日、復員軍医大尉中島正明氏内科医として就任。

 一、昭和二十年九月三十日、岡田、井村両氏終戦のため退職。

 一、昭和二十年十月十日から額村に往診所を設置、週三回の往診を行う。

 一、昭和二十一年一月三十一日、中島正明氏退職。

 一、昭和二十一年二月十二日、復員軍医大佐小野木豊俊氏が所長として就任。

 一、昭和二十一年六月六日、山鳥分室が医師欠員のため一週二回出張することとなる。

 一、昭和二十一年八月一日、開所一周年記念祝賀会を催し、県衛生課長国重正敬、野口事務官、医療団支部から田島副参事、津田経理主任、小田木薬剤師らを招待、竹内村長、駒井額村長、村井農業会長、国民学校長代理西村教頭らが列席した。

 一、昭和二十一年十月十日、本村厚生施設視察のため宮内省出仕小畑忠氏と随員、県から増本内務部長、厚生課長、国重衛生課長らが当診療所の施設と実績を視察、良好なりとの賞詞を受けた。さらに十月二十一日付けをもって県内務部長増本甲吉氏から自愛奮闘のあいさつ状を受けた。

 一、昭和二十二年五月十三日付けで所長の小野木豊俊氏が退職。

 一、昭和二十二年八月三十一日、薬剤師の倉重恒三氏解職。

 一、昭和二十四年二月二十八日、医療団閉鎖。

 一、昭和二十四年三月一日、富奥村営へ移管となる。

 一、昭和二十四年三月五日、医療団支部から田島副参事、津田経理主任、近藤書記が来所、富奥村長山原七郎、助役田中忠信、米林梅子医員立ち会いの上、一切の引き継ぎをした。

 一、昭和二十四年三月十日山原村長、北岡清松村会議長出納立ち会い人が来所し、米林梅子医員、中井定吉主事ら立ち会いの上、現品引き継ぎをした。

 一、昭和二十四年三月二十五日、役場吏員、各部落区長らを招き、日本医療団の閉鎖と村営移管の報告会を開き了承を得た。

 一、昭和二十五年二月末日、診療所の機構を改め、すべての管理を村の収入役と助役に担当させることにし、主事中井定吉ほかを解職。同日、田中助役がすべての引き継ぎをした。山原村長、米林医師、北岡清松議長らが立ち会った。

 一、主事中井定吉、残務整理のため三月十日まで勤務。

 一、昭和二十七年十二月二十八日、石川郡中央病院から事務打ち合わせのため来所。

 一、昭和二十七年十二月三十日、中央病院から備品、薬品、消もう品の原価下調べのため来所。

 一、昭和二十八年一月一日から中央病院の管理下となる。所長は米林梅子医師。

 一、昭和二十八年三月十三日、中央病院と村井次一宮奥村長との間に、診療所委託に関する正式契約がとりかわされた。

 一、昭和二十九年四月十五日、国民健康保険富奥診療所新築落成式を富奥小学校講堂にて挙行。

 一、昭和三十年三月三十日午後二時から全村電話開通式を挙行。診療所の電話番号は一七二番。引き続き午後三時から富奥村閉村式挙行。

 一、昭和三十年十一月三十日、診療所住宅新築。

 一、昭和三十一年四月十日、診療所住宅完成、新築住宅へ移転。

  この診療所は三十年間無医村だった富奥村の唯一の診療施設として、村民多数の生命を守り、その保健衛生に大きく貫献してきた。

   米林梅子医師の横顔

  米林先生は大正四年金沢市に生まれ、石川県立金沢第一高等女学校を経て、昭和十二年帝国女子医学薬学理学専門学校医学科(現東邦大学医学部)を卒業された。

  富奥診療所開設と同時に赴任され、爾来三十年の永い間、本村はもとより近郊近在の保健衛生と患者の診療に尽くされ、多くの村人達の生命を守られた。「病気といえば米林先生」というまでに慕われ信薪きれて来た。

  本村は昔からこうした異色の人材が少い村で、米林先生は才媛で、文章よし短歌・音楽・書道またよしと、まったく得がたい存在である。夫君米林勝二氏(日展彫刻家、金大教授)と共に、本村にとっては貴重な人材である。富奥で生まれた者より以上に村のことについては本当によく知っておられる。昭和四十五年三月随筆集「話の小筥」を出版されている。

 

 

 

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富奥郷土史