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==第五節 産婆==
下林区の川口善兵衛という人の妻で「婦よ」という人がいた。年は善兵衛より二つ上であった。「婦よ」は嘉永元年(一八四八)十二月二十六日生まれで、石川郡田中村の平民西方太平氏の二女で明治十年三月八日、前記川口方へ嫁ぎ、入籍、大正の初期まで産婆(取りあげばば)を続け、近在に喜ばれた。
現在は出産が近づくと病院へ入院して、まことに恵まれた出産をしているが、昔は今から考えると実に不衛生な出産を長い年月続けていたのである。それでもよく育ってきたことは不思議なくらいである。しかし、産後の日だちが悪く、若い身空ではかなく死んでいった女性も多かった。出産を見てくれる人を昔は「取りあげばば」と呼んだ。産婆のことである。
冬の寒い凍りつくような夜でも、妊婦が産気づくと産婆を迎えにいくのである。初婚の女性は子供を生む時は親の家へ帰った。
わが村で産婆として活躍した人は粟田の中野さんで、この人は足が不自由だったが、ほとんどの子供をとりあげた。他に清金のやはり中野さんという人もしばらく産婆をされた。中林の林さん(家号を、きうさく)のお母さんも長く産婆をしていた。昭和三十年頃まで、農村地帯のわが村では出産はほとんど家にいて、産婆さんによって取りあげられた。
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富奥郷土史