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==第十一節 生活用水==
一、掘り抜き井戸
各部落の中心地には掘り抜き井戸があり、そこから地下水を汲みあげて飲料水としている。二十七㍍から三十㍍ほどの深さである。十八㍍ほどの所もあるが、実に巧みに切り石を積みあげて、くずれないようになっている。村人達はこの水によって一切の飲料水をまかなってきた。
下林区の記録によると、同村の橋本小太郎(一八四八年九月生まれ)という人がこの掘り抜き井戸造りの名人で、村人の依頼によって井戸を掘ったといわれている。
機械のないその頃、クワ一丁で掘り下げる技術は、危険で常人には出来ない作業であった。おそらく各部落の井戸も、こうした職人によって掘られたものであろう。現在は水道源として村人の命をつないでいる。
二、簡易水道
昔は川の水を朝暗い中におけに汲んで、一日分をためて飲料水にした。明治の中頃からほ各字に一箇所場所を決めて掘り抜き井戸を掘って飲料水とした。釣るべといって、滑車を取り付けた手首ほどの太いなわの両端に、小さなおけをさげて水を汲みあげるのであるが、子供などはとても危険で水汲みは出来ない。この縄をなうのに年一回、部落総出で掛け声をかけてなうのもまた勇ましいものであった。てんびん棒の両はしにかぎをつけて、部落の中央から井戸水を汲んで家まで運ぶ作業も、大変な仕事の一つであった。
そうした作業も戦争などで人手不足となったため、村では井戸水の汲み上げを木製の手押しポンプに改造して、便利になったことを喜んだ時代もあった。が、故障が多く、それからは、村の各家では川の水を導入、一㍍ほどのコソクリート胴を三つ以上地下に埋めて用水を濾過し、それを流し場で鉄製の手押しポンプで汲み上げて飲料水にした。風呂水などもそれまで川水を沸かして入浴していたのが、「すまし」の水を使うようになり、一層衛生的だと喜んだものである。
敗戦の混乱もようやく治まり、それまでほとんど省りみなかった台所などを衛生的にということで、昭和二十六年頃、まずわが村では村の井戸をモーターで汲みあげ、各家庭へ配水しようという機運が起こり一斉に工事にとりかかった。
初めて見るピカピカ光るカランが取り付けられ、蛇口をひねるときれいな地水下が音を立ててバケツにあふれ出て「万歳」を叫んだほどだった。風呂水はもちろん、せんたくからすべての生活用水が蛇口から出る地下水でまかなわれた。
工事費は部落によって多少の差違はあるが、だいたい百五十万円から五百万円くらいを要した。
敗戦後の改善の中でも筒易水道ほど衛生的で、しかも農家の生活用式を近代化した施設は珍しい。便所にまで蛇口が取り付けられ、衛生的生活は面目を一新した。
昭和四十年頃から工場などの農村進出で地下水の乱掘が始まり、以前の井戸は枯れ始めた。このため各部落は大きな経費を負担して、井戸のボーリングを行い、八十㍍から百㍍も掘り下げて地下水を確保、水中ポンプに変わって今日に及んでいる。太平寺と位川までは金沢市の水道管が導入されている。
昔は川の水を飲んで生活したが、公害などで汚染された現在では到底想像もつかないことである。
三、簡易水道各字の状況
中林
設立年月日 昭和二十七年三月
総経費 二四一万二、九〇八円
一戸平均 八万円
配管工事埋め直し 昭和四十六年十月
総経費 一五〇万円
一戸平均 五万円
三納
設立年月日 昭和二十九年十二月
総経費 三八万四、〇〇〇円
一戸平均 三万二、〇〇〇円
上新庄
設立年月日 昭和二十八年十二月
総経費 六〇万円
一戸平均 四万円
下新庄
設立年月日 昭和二十七年三月
総経費 一四六万五、六四〇円
一戸平均 一一万二、七〇〇円
矢作
設立年月日 昭和二十七年三月
総経費 六〇万五、〇〇〇円
一戸平均 三万三、〇〇〇円
藤平
設立年月日 昭和二十七年十月
総経費 一三四万八、五〇〇円
一戸平均 七万円
下林
設立年月日 昭和二十七年四月
総経費 三三六万一、三六〇円
一戸平均 七万二、〇〇〇円
位川
設立年月日 昭和二十八年十月
総経費 二五万円
一戸平均 五万円
配管第二工事 昭和四十年四月
総経費 一〇〇万円
粟田
設立年月日 昭和二十五年三月(富奥村の最初)
総経費 五八万四、五〇〇円
上林(東)
設立年月日 昭和二十七年十二月二十二日
総経費 八三万三、〇〇〇円
一戸平均 三万五、〇〇〇円
ボーリング配管取り替え 二五〇万円
上林(西)
設立年月日 昭和二十七年十一月十五日
総経費 一二三万四、〇〇〇円
一戸平均割 五万円
清金
設立年月日 昭和二十六年十一月二十七日
総経費 四六万円
一戸平均 三万五、〇〇〇円
配管埋め直し工事 五八万六、八〇〇円
一戸平均 三万二、六〇〇円
四、西上林の上水道施設
昭和七年十月、西上林の全戸が加入して上水道を敷設した。これは部落南方の郷用水から取水、幅五・四㍍、長さ九㍍のコンクリート溜水浄化槽に導いて各家庭に配水する水道である。
工事費一、二〇〇円、内訳県費助成二九七円、村費補助一〇〇円、自己負担八〇三円、施工者上新庄越田為爾
当時上水道があったのは金沢、小松市くらいで、一部落としては画期的な事業であり、時代の先端をいくものであった。
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富奥郷土史