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==第二節 村の医療施設==

 

第二節 村の医療施設

  下林区に山本又右衛門という家があって、その三男の山本太三郎という人物が明治二十五年六月に医師を開業し、近在近郷の人達句治療に当たられたが、わずか七年で惜しくも明治三十一年一月九日、病気で死亡した。法名は釈学流となっている。おそらくわが村での開業医師としては最初の人でないだろうか。

 一、松任病院上林出張所

  開設期間 明治四十年~昭和十七年末まで、設置場所 小林幸俊氏宅(現、小林章方)、主任医師 松任病院長 倉重吉次郎氏、診療科目 内科、小児科

 右出張所を小林幸俊氏の努力と倉重医師の理解により開設、診療にあたり、周辺部落民に貢献し、喜ばれた。

 二、林医院

  粟田に林という家があって明治の頃から「オコリ」の医者として有名だった。薬を一服調合してもらうと、不思議とよく効いて「オコリ」がケロッとなおるのである。子供達が夏に川遊びなどをすると親達から「コラッ、また『オコリ』になるぞ」とどなられたものである。蚊にさされておきる一種のマラリヤとも知らず、伝染経路も解らず、薬の名前も知らない当時の村人達から「オコリ」の医者として重宝がられた。

  また、中林に通称「ブエンサ」北村作次郎という旧家があった。明治の中頃から松任の池田医院が週二回ほど出て付近民の診療にあたり、子供達はよく薬を取りにやらされた。

 三、無医村

  わが村の医療は非常に長い間、町医者などの出張診療で切り抜けて来た。医者らしい人が若干あったけれど、病気の「診立(めたて)」など、患者の心配するような難病などを治療する擾れた施設はなかったので、無医村の中に入るのである。

  その頃は、大ていの病気は、野々市町の医者か松任町の医者に頼っていた。少し重病になると、金沢の大学病院へゆくのである。だからその頃は、病名もはっきりしないままに死んでいった人の数も少なくないのである。

  当時の大学病院で診察を受け、遠いので薬の処方箋を貰って来て、自宅治療をつづけながら村人達は病気とたたかって、いろいろな治療の方法に苦心したのである。

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富奥郷土史