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日本の神々
(本町地区神社)
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==本町地区神社==

 

旧 富樫郷住吉神社

境内聖地 706坪

 

 

 

○布市神社

  ・一日市町(現在本町二丁目)

 布市神社の祭神は上筒男命(うわつつみのみこと)・中筒男命(なかつつみのおのみこと)・底都海都見命(そこつわたつみのみこと)の住吉三柱と天照大御神・天児屋根命・富樫忠頼公の神霊・応神天皇(二柱)菅原道真公九柱である。

 永延元年(九八七)人皇第六十六代一条天皇の勅に依り、加賀国司として下向し、醇政を布いたので国民その化に親しみ西暦元年(九九〇年)朝廷に奏して重任を乞い、正暦四年(九九三年)永住の勅諚を賜った、その時天皇忠頼に前記住吉三柱の神像を賜ひ、爾の封国は、巨河数流に流れ、年中水漫恒に行客日を累して渉るはず、この頃越前の敦賀、能登の福良より韓唐人の入込み、国内を騒さんとするおそれあり、此の明神の利益を以って、難事を避よと宣し給へり、忠頼つつしみて拝領し、同年石川郡出城村、武松の野原に社殿を造営した。神霊をここに奉祀し、これより富樫氏の守護神として、観請するようになった。

 是れ富樫郷住吉神社の前身である。

 康平六年(一〇三六年)富樫家国(とがしいえくに)(七世)加賀国府を野々市に移し、同時に武松より明神をその社殿に遷し、富樫忠頼郷の神霊をも合祀し、領内の総社とした。富樫氏には天朝から拝領した神として諸郷何れも、朝夕礼拝するようになった。

 この御遷宮(へんぐうみや)の日に相当する八月十六日には、毎年武松の里人地先の浦辺にて獲たる魚四十八尾を三尾宛十六籠に盛り、献供し来りて御贄の祭儀行うた。この祭儀は遠く、武松の時代からあったものである。長享二年(一四八八年)の御贄祭留書によれば武松の衆十人野々市の衆三十八人合計四十八人が、昼未の刻から塩魚供進の神事に取掛り、終って塩魚を酢鯰にして、朴葉に分ち盛り、富樫氏より給はった。白酒と共に両村衆は、社頭にて酒盛りを開き、夕酉の半刻から巫女が先頭に立ち、鈴を振り鳴らすを相図に、一般衆が舞い廻ったそうである。この舞歌は盆踊りの条に載することとする。現在の野々市の盆踊りは、この神楽舞の転訛でなかろうかと察せらる。

 野々市の祭礼には必ず戸毎に小竹笹に寿司を作るようになった。祭礼の寿司は野々市より発祥したものである。

 この諸神は往時野々市各所に鎮座し何れも富樫氏の勧請の神霊であったが、大正三年(一九一四年)十一月二十日富樫郷住吉神社に合祀して布市神社と改名した。

  神社前左に前田利常が北国街道に植えた松がある。

 

 ・西町(現在本町四丁目)の鎮守、照日八幡神社(てるひはちまんじんじゃ)の祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・応神天皇(おうじんてんのう)の三柱の神霊である。

 同神社の創建は建久の頃(一一九〇年)第十三代富樫家春の勧請によるものである。場所は西表田圃で八幡田という田地に建立されていたが、天正八年(一五八〇年)まで鎮座給う。その後(現在本町四丁目一六−三川上家)附近に遷宮された。

 

 ・六日町・中町(現在本町三丁目)の鎮守、富樫郷住吉神社の祭神は上筒男命(うわつつみおのみこと)・中筒男命(なかつつみおのみこと)・底都海津見命(そこつわたつみのみこと)・富樫忠頼(とがしただより)の神霊である。

 

 ・荒町(現在本町一丁目)の鎮守。外守八幡神社(そでもりはちまんじんじゃ)の祭神は応神天皇・菅原道真公の二柱の心霊である。

 天満宮と併合した宮である。八幡宮は何処に鎮座せられたか明らかでないが慶長の頃(一五九六〜一六一四)大乗寺境内跡で野々市村ノ三十番地(現在本町一丁目五−一〇附近)一帯に鎮座されていた。大正三年十一月二十日富樫郷住吉神社に合祀された。

 

 ・稲荷社(いなりじんじゃ)

 布市神社境内に稲荷社二社鎮座されている。

 向かって右側は天照日八幡神社西町(現在本町四丁目)に鎮座されていた。

 向かって左側は元外守八幡神社荒町(現在本町一丁目)に鎮座されていた。

 二社とも大正三年(一九一四)十一月二十日富樫郷住吉神社に合祀のとき境内に安置された。

 

 

○白山神社 新町(現在本町二丁目)

 白山神社の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)・大山祗命(おおやまづみのみこと)・菊理比?命(きくりひめのみこと)の三柱の神霊である。

 永延元年(九八七)加賀国司富樫忠頼郷が高安荘(こうあんしょう)野々市の総鎮守として建立された。始め大野街道沿いの北横ノ宮地に鎮座されたが同村との距ろこと遠く、文化文政の頃に今の地に遷宮された。(一八〇四〜一八三〇年)

 大きな森の鎮守の宮で天狗が住んで毎夜丑の刻には天狗の奏する音楽が聞こえるといわれた。

 夏になると同宮の前に宮田一帯に大きな金網がはられ、その中に「ホタル」をはなして夜空に「ホタル」が散乱し舞ひ、金澤・近郷から大勢の観衆が見物に押し寄せ、野々市の「ホタル」名所で賑わい楽んだ。毎年の行事で他村には見ることが出来ない。現在も祠が一棟あって、大きなタブの木が生い茂っている。

 

 

 

○布市神社の宝物

 一、富樫昌家の頃 信長の御神刀(大乗寺の白山霊水で名刀を鍛えた)

 一、奉額 住吉大明神 江戸時代の佐々木志津摩の揮毫による木額

 一、源平八嶋海戦図 絵馬 狩野明信(文化の人物)

 一、赤穂義士討入図 絵馬 (元禄十五年 一七〇二)    一、天満宮額

 一、聖徳太子一代記図 絵馬(嘉永二年 一八四九)     一、獅子頭

 一、石山合戦図 絵馬(安政二年 一八五五)        一、武内宿禰

 一、和算額  (安政五年 一八五八)           一、神功皇后

 ○境内

 先業碑 富樫氏館跡

 安政元年(一八五四)水毛生伊余門氏は富樫館跡地(現在住吉町)が荒廃の野原になっていた地を私財を投じて十数年にわたり十数町歩を開墾した。この地を村民に与えて償を求めなかった。

 明治二十二年(一八八九)富樫館跡地を後世に伝えるため布市神社境内に先業碑を建立した。

 

 ○公孫樹

 この古木公孫樹は何時頃植えたか諸説あり明らかでない。第四代忠頼ともいい、第七代家國ともいい、第十二代泰家ともいい、木村孝信ともいい、樹齢から察するに忠頼・家國は遠きに失し木村孝信としては近いと思ひ、或は泰家と思われる。

 文治二年(一一八七)社殿造営の時に植えたと記してある。木村孝信が織田信長の臣となり、野々市に在住し不破河内守光治に属し住吉神社境内に植えしものなり

 

 ○常夜燈

  常夜燈二基あり年代は嘉永二年(一八四九)五月建之と見える。石工大阪長堀江戸屋七兵衛とあり、大阪湾から舟で大野港を経て九艘川(野々市)の水駅まで運んだものと思われる。九艘川上流額新保附近(乙丸)枝川が合流する川が古へ唐舟が碇を下したので碇川と名がついたと伝えられる。

 表参道に二重屋根の献燈一基あり石積みの古いもので年代不詳富樫郷住吉神創建当時のものと思われる。調査を待つ。

 

 ○弁慶の力石

 この石は文治二年(一一八六)三月三日源義経が北陸路を潜行した時武蔵坊弁慶が富樫館を訪ねて勧進を乞い弁慶が延暦寺に伝わる延年の舞を披露し、弁慶が力持ちの曲芸を演じ泰家の縦覧に供した。この石を投げた日照が続いたときこの石をかづき回ったところ雨が降り雨乞石と呼ぶようになった。旧西町(本町四丁目)照日八幡神社に移されたが大正三年(一九一四)十一月同神社合祀のとき富樫郷住吉神社に移されました。

 

 ○聖護院道興准后

 道興准后は後知是院関白藤原房嗣(ふじはらふさつぐ)の子にして聖護院の門跡たりき文明十八年(一四八六)六月上旬足利義政に東山に快別して若狭越前を通過し加賀に入り立花・動橋・小松本折・白山・吉岡・剱を通過し矢作に宿り、今宵は矢作の里といへる所に宿りけるに暁の月をながめて「こよひしも矢はぎの里にゐてぞ見る夏も末なる弓張の月」藤岡諏訪神社境内(矢作町)野々市を通過せられ、野々市の活気に満ちた村人を讃え廻國雑記に京の都に劣らぬ繁栄と活気あふれる多く人が行きかい仕事に励む街の姿を讃え「風おくる一村雨に虹きえてののいち人はたちもをやまず」   布市神社境内(本町二丁目)

 

 ○観音堂

 観音堂は一日市町ラ一五二(現本町二丁目九−一四)笠間氏宅に鎮座されていたが明治維新に廃佛の余波を受けて廃止となり本堂を布市神社境内に移した。

 

 ○忠魂碑

 忠魂碑は明治四十三年(一九一〇)五月二十九日建立された。日清戦役(明治二十七年)日露戦役(明治三十八年)昭和の大東亜戦役に従軍され戦死されました方々の英霊を祀られています。

 明治四十一年十一月八日総会を開き全員一致で可決決定されました。委員の木戸惣太郎氏・伊藤孫太郎氏・喜多直次氏等は石材購入に上京し(京都)在京都木戸典三郎氏の周施により京都内田石材店と契約し大阪市西区今木町柏原市太郎石材店より小豆島産花崗岩を購入して大阪駅より松任駅まで六トン貨車で運び、松任駅より野々市まで運ぶ車がなく村民総出で北國街道沿いに木呂を置き石を引きずり二日間かけてようやく富樫郷住吉神社まで運んだ。村民の方々の苦労が記録されています。

 

 明治四十二年一月二十三日起工式

 明治四十二年三月二十四日題字揮毫

 金沢聨隊区司令官、総理大臣兼内務大臣元師公爵 山形有朋閣下

 題字彫刻 金沢石工 飯田庄三郎氏

 明治四十三年五月二十九日除幕式が行なわれた。関係者多数参加された。

 野々市村立郷軍人団理事長 瀬尾爾郎氏

 野々市村立在郷軍人団長 釜 吉三郎氏

 野々市村立在郷軍人団員 稲坂 清八氏

 忠魂碑建立について村民の方々野々市村立在郷軍人会の方々と歩兵中尉釜吉三郎氏の功績を讃えたいと思ひます。

 忠魂碑の基礎に松木九本立て土は高尾城山より購入する。

 

 ○天満宮

 天満宮は旧中町(現本町三丁目)社名不明の宮一社照台寺南方表田圃御米供田にあったと伝える。

 野々市天満宮の向うに白山水あり、是れ古へ大乗寺此地にありし時の白山水也(下略)   

                                    金沢古蹟志

 

 ○旧北國街道の松木

 布市神社標柱の近くに松木が旧北國街道沿いに植えたと伝えられる。藩政時代前田利常が街道沿いに松並木が形成され藩政期に景観と積雪時の往来の便を考え、又万一に備えて木に隠れることを考えられると伝える。松並木は老衰による枯死殆んどなくなった。この松木が四百年の才月を経て往時の面影をしのばせる由緒ある松木を長く残していきたい。

 

 ○本殿

 本殿は往古葺ぶき屋根であったが昭和十二年(一九三七)新築御造営されました。大阪住吉大社造りで破風は切妻造り、千木組合せ竪魚木五本のせてあります。

 

 

堅魚木(カツオギ)

 

 ○布市神社に伝わる武内宿禰(たけのうちのすくね)・神后皇后(じんぐうこうごう)

 武内宿禰は大和朝廷の初期に活躍したスーパースターである。

 父は第八代孝元天皇の子である比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)というから孝元天皇は祖父にあたる。

 母は山下影日売(やましたかげのひめ)といい、波多八代(はたやしろ)宿禰をはじめとする七男二女の九人の子がいる。新羅(しらぎ)から凱旋した神功皇后(しんこうこうごう)はわが子品陀和気命(はむだわけのみこと)(のちの応神天皇)とともに都に向う道すがら、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の庶子香坂王(かこさかのみこと)・忍熊王(おしくまのみこと)の二人は神功皇后一行の歸還をはばみ兵を集めて反抗したが香坂王は途中大猪に噛み殺されるという事故にあった。

 一方神功皇后は武内宿禰と連合して山城国(京都)宇治に忍熊王と対戦した。このとき武内宿禰は計を策してしまった。これを見た忍熊王も同じように自軍の武器を捨ててこれに応えた。

 計略が的中したことを確かめた。武内宿禰は全軍にかねて用意しておいた剣を執らせ、頭髪に隠した弦を取り出して弓に張り猛然と攻め立てると忍熊王は戦うすべもなく総くずれになって敗退した。

 武内宿禰はなおも追撃の手をゆるめず、完全にこれを追いつめると忍熊王はたまらず瀬田川に身を投げて死んだ。これより前、武内宿禰は第十三代成務天皇の時代にわが国初の「大臣」になった人で日本の総理大臣の始祖である。

 大正から昭和にかけて、発行された五円紙幣・一円紙幣の肖像画に用いられたことから経済の神として知られる。

 

 ○神功皇后(じんぐうこうごう)

 神功皇后の父は開化天皇(かいくわてんのう)の流れをくむ息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)母の名は葛城之高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)(新羅国王の子天日矛命(あめびはこのみこと)の後裔)二女一男の長姉である。名を息長帯比売命(おきながたうしひめのみこと)といい、気長足姫尊または息長帯姫命とも書く、またの名を大帯姫命(おおたらしひめのみこと)ともいう。

 二十四代のとき、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)(第十四代)と結婚してから神功皇后と稱されるようになった。神功皇后は女ながらに、智仁勇にすぐれた人で、その実力は今でいうならイギリスのサッチャー首相に相当するような人ではなかろうか。

 九州の熊襲は日本武尊に平定されたのち、しばらくは平穏を保っていたが、またまた謀反をたくらんでいるという。

 当時、朝鮮南部に任那(みまな)という国があって、日本と親交を結んでいた。任那は新羅と百済の両国に面して常に平和をおびやかされていた。特に新羅は任那がものにしようと画策するがなかなか思うようにならない、そこで熊襲をそそのかせて日本を混乱させて、任那への援助を妨害せんとしたのである。

 これを知った神功皇后は仲哀天皇とともに、熊襲征伐の行動を起こした。だが熊襲の頑強な抵抗にあい、仲哀天皇は自らも敵の矢を受け、戦況不利のまま香椎(かしい)に引き返したが、この傷がもとで間もなく死亡した。

 替わって神功皇后が平定に向うと、熊襲の諸将はことごとく降服して、第一の目的は達成したのである。

 

 

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