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日本の神々
(追録)
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==追録==

 

追録

  稲荷町の沿革

 延喜十五年(九一五)藤原利仁鎮守府将軍が加賀國の領主となり富樫氏と稱し野々市に所緑となる。

 藤原利仁鎮守将軍より九世富樫家近(家通ともいう)が応徳二年(一〇八五)白河天皇の鳥羽離宮御造営されることになり、人夫を集めて京に上がった。御造営の場所に住みなれた白狐が石垣が造られたため出られず石垣をはずして穴の中から三匹を助けた。その稲荷明神のお告げに「白狐の命を助けた」そのお返しに國にかえって稲荷神社を創建して祭ったのが長治元年(一一〇四)である。

 この際礼に小豆飯をお供えしたことから、我が國での赤飯の始まりである。

 三日市村の垣内となり、明治八年(一八七五)十月、三日市村に編入され、東三日市村となったが、その後稲荷神社が存在していることから稲荷村と改称した。昭和三十一年(一九五六)九月郷村分村編入野々市町となる。

 

 神社誌によれば創立年代は寛治年間(一〇八七)と伝えられる。明治十二年(一八七九)から八幡社だったが明治二十九年(一八九六)四月稲荷神社と改称した。

 境内聖地  二四〇坪

 祭神 豊宇気毘売神(とようけひめのかみ) 伊勢神宮外宮の祭神豊受大神である。

 

 豊宇気毘売神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の夫婦時代の最後の子である。和久産巣日神(わくむすびのかみ)の子で天孫降臨のとき天降った神である。ある晩第二十一代雄略天皇の夢枕に天照大神が現われて「一人で毎日の食事に不自由している丹波國(京都府と兵庫県北部)にいる御饌(みけ)の神・豊受大神(とようけのおおかみ)をすみやかに呼び返せ」といわれた。天皇は伊勢の山田原に大社を建て、丹波の真名井より豊受大神を遷座したのである。




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